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「犬公方」第三章 分犬守(その3)
「ただいま」
本犬守の玄関をあけると、僕らは工房さんと鉢合わせした。工房さんはサイケデリックな柄のシャツを着て、先の尖った革靴をはいていた。
「首輪の件はどうなった? 分犬守に行ってきたんだろ?」
開口一番、工房さんがたずねたが、狛音は素通りして廊下にあがる。
「狛音が探したけど、なかったみたいです」
倒れた彼女のオールスターをなおしながら、僕が答えると、
「……そうか。じゃあ、犯人は誰なんだろう」
工房さんは声を沈ませた。
スニーカーを脱いで廊下にあがり、ふり返ると、開けたままの玄関からプードルの銅像が見えた。銅像は屋敷の影にのまれ、ふだんとは違った表情を見せている。
「そういえば、公方様の銅像は軍に供出されなかったんですか? 分犬守では湯たんぽまで持っていかれた、ってゆみ子さんが言ってました」
「軍の供出か、難しいことを知ってるな」
工房さんは顔をかたくし、屋敷の表に遠い目をむけた。
「そう、金属類回収令で湯たんぽも供出された。あの銅像はここを新築したさいに再建された2代目で、暢くんの言うとおり、初代の像は軍に持っていかれて機関車の一部になったらしい」
工房さんはこちらに向きなおり、
「犬守家の人々は必死になって抵抗したけど、いくら地元の名士でも限界があったようだ。初代館林町長の銅像ですら回収されたくらいだから。
先代から仕えてる人間椅子さんによれば、戦後の公方様の銅像は、初代とは見た目もだいぶ変わったようだけど……。じゃあ、俺はこれから買い出しに行ってくるよ」
すりガラスの戸が閉まり、銅像はうす暗い靄のなかに消えてしまった。
初代の像の面影はおろか、見慣れたはずの2代目の像すら思い浮かべるのはむずかしくなる。陰りを帯びた表情ばかりが記憶に残った。
さっさと歩いていった狛音の行方を追うと、彼女は厨房のなかにいた。蛍光灯の光がステンレスの機器に反射しており、小暗い廊下からきた僕は目をしかめた。
厨房では白衣がまぶしい3人のシェフが夕食の支度をしている。香り立つブイヨンのにおいが空腹の虫を鳴らした。
「暢くんもいる? 松阪牛だよ」
狛音は調理台でローストビーフを食べていた。和食器に盛りつけられた赤身肉にはさしが入っている。
「ずいぶん遅いけど、昼ごはん?」
「これ、公方様のごはん。あたしが毒味してるの」
調理台にはお膳が置いてあり、同じローストビーフの皿が載っていた。綱プーは僕より豪華な食事を毎日食べているのだろうか。
ひと口もらうと、肉はやわらかく舌の上でとろけた。が、無塩なので味はしなかった。
「なんで狛音が毒味してるの?」
そもそも人間が毒味していること自体がおかしいのだが。
「虫江さんがぎっくり腰で、代わりに御膳番がまわってきた。暢くんにも手伝ってもらうから」
毒味のあと、僕は言われるまま、お膳を運ぶ狛音について行った。〝将軍の間〟に着き、円香さんの見よう見まねで障子の前に正座すると、狛音に小突かれた。
「公方様のお膳をお持ちしました」
僕が障子をあけると、お膳をもった狛音がスタスタと入っていく。
彼女についてなかに入ると、人間椅子が畳の上段にいて、膝の上で綱プーの爪を切っているところだった。綱プーは僕の靴下をくわえていた。
「珍しいですな。お嬢さまが持ってこられるとは」
拡大鏡を鼻先にかけた人間椅子が視線をあげた。綱プーは僕を見つけるや、靴下を落として人間椅子の膝から離れた。
耳をひらひらと羽ばたかせ、一目散に飛んでくる。僕は廊下へ逃げた。
「暢くん、畳拭いて」
障子のむこうから狛音の声がする。大広間をのぞくと、綱プーのおしっこで畳が濡れていた。うれションしたようだ。
「……すみません」
僕は大広間にもどり、上段の畳に残されていた靴下でおしっこを拭こうとしたが、
「なりません」
人間椅子に制止された。彼は手にしていたヤスリを置くと、下の段におり、自らのハンカチでおしっこを拭きはじめた。
「僕があげた靴下ですけど……」
「いまでは公方様が肌身離さず大切にされている宝物です」
「暢くん、超愛されてるじゃん」
狛音がニヤニヤしていた。綱プーは上の段で松阪牛にむしゃぶりついている。
「玄関で工房さんに聞きましたけど、久兵衛さんの時代からお仕事を続けてこられたんですよね」
「久兵衛翁は、焼け跡から一代で莫大な富を築かれた実業家でしてね。敬意をもってお仕えしておりました。
空襲で蔵も焼失してしまいましたが、久兵衛翁は一族の歴史に並々ならぬ関心をよせられ、伊怒工房の部屋の古文書の類もおおかた先代が蒐集されたものです」
綱プーはあっという間に平らげた。人間椅子は上の段にもどると、膝の上で綱プーの爪の続きをはじめた。綱プーはまた靴下をくわえている。
「ところで、伊怒工房は外出したのですか?」
老執事は上目づかいで障子を見やった。
「はい、買い出しだとか」
「光村さん、なぜあの男が犬守家に居ついていると思われますか?」
とうとつな質問だった。
「工房さんからは、犬守家の家伝をつくっていると聞きました」
「家伝の執筆も仕事に違いありませんが、あの男はほかに本業があるのです」
「売れない作家って言ってました」
「いえいえ、文業とはべつに、ですね」
なにやら意味深な言い方だ。
綱プーの爪の手入れが終わると、人間椅子は僕らを廊下に連れ出した。
「ご案内しましょう。お嬢さまもいらしてください」
暗く湿っぽい廊下をならんで歩いた。廊下の軋む音が大きく反響し、天井にぶら下がったコウモリの群れが鳴いているようで、思わず首をすくめた。
人間椅子が足をとめたのは工房さんの部屋の前だった。ドアに鍵はかかっておらず、人間椅子は当然のように入っていったが、僕は二の足を踏んだ。
「いいんですか?」
老執事はなにも答えなかった。屋敷のことはすべて自分が預かっていると言わんばかりだった。狛音もかまわず足を踏み入れたので、へっぴり腰であとを追った。
暗い部屋のなかは黴っぽいような古紙独特の香りがする。窓のうす明かりで、雑然と置かれた本や資料の気配がわかった。海岸の岩場を歩くように、慎重な足どりで分け入った。
「イタッ!」
声がしたほうを見ると、狛音が書類の山を崩したようだった。
「足もとにはお気をつけください。いずれも貴重な史料ですので」
人間椅子は手際よく書類を元の配置にもどし、何事もなかったかのように先へ進んだ。
カチャカチャと金属の音がして、窓明かりから鍵の束が光って見えた。
奥の扉の前で人間椅子が鍵を探しているところだった。僕が間違えて入ろうとして、工房さんに止められた部屋だった。
「どうぞこちらです」
あっけなく扉は開いた。にわかに血なまぐさい空気が漂ってきて鼻をおさえた。カチッと電灯が点くと、
「キャー!」
狛音が悲鳴をあげ、僕の腕を強くつかんだ。
そこはまるで博物館のようだった。部屋には大小さまざまな動物の剥製が並んでおり、蛇やリスに兎や梟、ウミガメの剥製もあった。
壁にはたくさん器具や工具がかけられ、天井からは鳥の骨格がぶら下がっていた。
「あの男は作家は作家でも剥製作家が本業でしてね。無名の小説家を雇ったというより、剥製師のなかから文才のある者を選んだといったほうが正確でしょう」
静止した物言わぬ動物にかこまれ、僕らは不気味な緊張感を覚えていた。ジーという蛍光灯の音と、柱時計の秒針だけが鳴っており、沈黙がいっそう彼らの存在感をきわ立たせた。
机の上には薬品や塗料が並んでおり、その前に広げられた新聞紙には、まだ血や肉片のついた頭蓋骨が置いてある。真夏の密室なのになぜか底冷えがした。
「あの男はときおり剥製の材料を買いに出かけるのです。個人の飼い主や学術機関からもたまに依頼があるようですな」
無数のガラス玉の視線に心臓を射抜かれたみたいに、僕らはしばらく無言で立ちつくしていた。古い蛍光灯の下、床に落ちた剥製の影は細かくふるえているように見える。
狛音の手は手錠のように冷たく、彼女まで剥製になってしまったのではないかと胸の鼓動が早まった。