美容院に行った時の話
3年くらい前の話だ。
九州に引っ越してから初めて髪を切ろうと思い、ホットペッパービューティーで美容院を探し、予約して髪を切りに行くことにした。
いわゆる若者の街と呼ばれている地域の、セレクトショップやカフェが立ち並ぶ通りに、その美容院はあった。お洒落な雰囲気の街並みに少し浮つきつつ、予約した美容院へ入る。
「予約しておりますsuper J です。」
「お待ちしておりました。」
ロン毛で小洒落た古着を着た男性の美容師さんが、笑顔で僕を迎えてくれた。
「初めてのお客様にはアンケートを書いていただきます。」
そう言われて渡されたアンケートには、氏名や電話番号の他に、好きな雑誌を記載する欄があった。僕は「ギターマガジン」と書いてしまったが、後からあそこで指す雑誌とはおそらくファッション誌を書くことを想定していたのだろうなと思い返し、少し後悔した。
アンケートを書き終わると、席に通され髪を切る準備が始まった。
「当店では眉カットのサービスも行っておりますが、良ければいかがですか?」
「是非お願いします。」
快諾した。眉カットのサービスはありがたい。自分で眉を揃えようとすると、手先が不器用なせいかどうしても左右の眉で差が出てしまう。右を切りすぎたから、合わせて左を切ろう、といった具合で左を切ると、今度は左を切りすぎてしまい、右をまた切ることになる。突き詰めると眉がなくなってしまうのでどこかで妥協する。そのような煩わしさはプロの方にお任せして払拭するのが良いに決まっている。
「眉の形に何かこだわりはありますか?」
そう聞かれて、そうだ、困り眉をなんとかしたい、と思った。自分の眉は少し困り眉気味で、自分でどう切り揃えてもシャキッとしない、どうしても少し情けない印象の顔になってしまう。キリッとした眉毛が良い。そのように彼に伝えた。
「かしこまりました!」
この方に任せておけば大丈夫だろう。僕は眉をカットする時の邪魔にならないように、目を閉じて全てを美容師さんに任せることにした。左右の眉が少しずつカットされ、微妙な調整が行われているのが分かった。
しばらくして、美容師さんが口を開いた。
「申し訳ありませんが、私の手ではこれくらいしか無理ですね!困り眉は生まれ持ったものなので!」
駄目だったか。しかし、努力は尽くしてくれた。仕上がりを見てみようじゃないか。そう思ってゆっくりと目を開いた。
衝撃を受けた。
目の前の鏡を見ても、自分の姿が映っていない。
自分が映っているべき鏡の中の椅子の上には自分はおらず、代わりに一本の塩の柱が立っていた。
「え……あの……。」
振り向いたが、美容師さんはいなくなっていた。訳の分からない怪現象が起きている上に、美容師さんがいない。鏡にもう一度目をやるが、やはり椅子の上に一本の塩の柱が立っているだけである。
何が起こっているのか理解できない。
不安になって席を立ち、店内を見回した。誰もいない。気がつくと、さっきまで鳴っていたはずの店内のBGMが消えていた。何かがおかしい。店内を静寂が満たしている。何とも言えない不安な気持ちになった。とにかく、美容師さんに確認してみなければ。そう思って店内の控え室のドアを開けた。
そこには、身長が3.5mはあろうかという巨大なヤギがいた。胴体のあちらこちらから、虫のように細長い手足が不規則に6、7本生えており、それぞれが独立した意思を持っているかのように関節を曲げたり伸ばしたりしていた。ヤギの顔をした異形の何かである。
目の前の異形のヤギに衝撃を受けつつ、美容師さんの姿が見えないことに気がついた。改めてヤギを見ると、頭部から見覚えのある長い髪が伸びている。そして、ヤギの足元には美容師さんが着ていたはずの古着がびりびりに破かれた状態で散らばっていた。僕は一瞬で事態を理解した。過程は分からないが、あの美容師さんがヤギになってしまったのだ。
逃げなければ。しかし、恐怖のせいか体が全く動かない。背筋を寒気が伝い、顔から油汗をかいているのが分かった。ヤギから目を離すこともできず、僕はただそこで硬直していた。
ふと、ヤギがこちらを振り向いた。目が合う。縦に伸びた虹彩が何とも不気味で、背筋が凍るような思いがした。ヤギは口を開くと、こう言った。
「evil......」
その瞬間、視界が真っ黒になり、意識が遠ざかるのが分かった。どこで間違えたのかは分からないが、僕は起きるはずのない異常な事態に巻き込まれてしまったようだ。恐らくもう取り返しがつかない。終わった。僕はここで死ぬんだ。そう考えながら、気を失った。