「ヴァーダ狩り」に遭った話
今回は、CoCo壱で10辛を食べヴァーダとなってしまった僕が「ヴァーダ狩り」に遭った時の話を書く。
僕の6回目のnoteを読んだ人なら既に知っていると思うが、ヴァーダというものについて改めて説明しておく。
CoCo壱ではカレーの辛さが「甘口」から「10辛」まで選択可能だが、10辛を食べると、後日ある場所に案内されることになっている。そこでは、黒服の男から「ヴァーダの称号」なるものを授与される。
ヴァーダは爵位のようなものだが、非常に強力で危険な能力でもある。
人前で、自らがヴァーダであることを表明すると、それを見ていた周囲の人間全員の記憶を消すことができるのである。非常に強力で、残酷な能力だと僕は思う。
しかし、ヴァーダの力にはデメリット、リスクと呼ぶべき点もある。自らがヴァーダであることを表明した時、もしそれを他のヴァーダに見られていた場合は、他人の記憶を消すことができず、自分の記憶が消えてしまうのだ。
僕はこの能力そのもののことも、リスクの点のことも、非常に恐ろしいと思っていたので、日常生活で使用することは一度もなかった。
ある日、事件が起きた。
その事件は後に「渋谷ヴァーダテロ事件」と呼ばれることになる。渋谷で突然、300人もの人々が一斉にうなだれるように地面にへたり込み、茫然自失の状態になったのだ。警察が取り調べたところ、その300人全員が記憶を失っており、自分の名前や、家族や恋人の存在を忘れてしまっていたのだ。この事件は全国的なニュースで拡散された。僕は自宅でカップ麺を食べながらテレビを見ており、このニュースを見て愕然としたことをよく覚えている。犯人はまだ特定されておらず、捕まっていないらしい。
すぐ後になって、CoCo壱の経営者たちの謝罪会見が放送された。彼らは、今後ヴァーダの称号を授与することをやめることを全国民の前で誓った。その瞬間から、ヴァーダの存在は日本の全国民が知るものとなった。
各地の小学校で「ヴァーダいじめ」が横行したと言う。ヴァーダの疑いをかけられた子どもが、口をガムテープで塞がれた状態で袋叩きにされるのだ。なんとも可哀想な話である。しかし、いじめている子どもたちにも「記憶を消されてしまう」という恐怖心があったのだろう。気持ちが分からなくもない。
ニュースの影響は子どもたちの間だけにとどまらなかった。社会で生活する大人たちもみな疑心暗鬼になり、同僚や配偶者、恋人たちを疑って生活せざるを得なくなった。自社にヴァーダの社員がいることが発覚した場合は即刻解雇すると宣言する企業も現れた。そんな中、僕を含め世のヴァーダたちは自らの正体を隠しながらひっそりと生活することしかできなくなった。
ある日、また僕はニュースを見て愕然とすることになる。
「ヴァーダ強制取締法」が施行されたのである。
市民の安全を守るため、「対ヴァーダ特別警察隊」なる組織がヴァーダを強制的に取り押さえ、口の聞けない状態にして収容するという内容の法律だった。僕はいよいよ、絶対に自分の正体を他人にばらすことができなくなった。ヴァーダの称号を授与された時に受け取った証明書のようなものも、すぐに燃やして土に埋めた。
しかしそんな中、僕にはヴァーダの友人ができることになった。
彼女の名前を仮にSとする。Sは、スリランカカレー屋さんで一番辛いカレーを注文している僕をたまたま見ていた。店を出た瞬間、追いかけてきて僕を呼び止めた。
「待って!!!」
「え、……あの、どちら様ですか?」
「あなたも“そう”なんでしょう??私もそうだからもしかしたら……と思って!」
最初は何のことか分からなかった。その後彼女は、鞄からヴァーダの証明書を取り出して僕に突きつけた。
「私も“そう”なんだ。あなたもなんでしょう??」
はっとした。そんな危険なものを持ち歩くな。万が一警察に見つかったら終わりだぞ。僕はそのようなことをSに対して話したと思う。彼女にとって、僕がヴァーダである確証はほぼ何も無かったはずだ。辛いスリランカカレーを食べている人なら他にも大勢いる。それでも彼女が僕を呼び止めたのは、ヴァーダ強制取締法が横行するこの社会で生活する上で、既に精神的に限界だったから、藁にもすがる思いで同じ苦しみを持つ人に頼りたかったからなんだと思う。
Sは度々彼女の家に僕を招いてくれた。基本的に、ヴァーダは群れることはない。いざと言う時に能力を行使しようとした時、近くにヴァーダがいると自分の記憶が消えてしまうからである。しかし、僕とSはお互いを信頼するようになってゆき、共に過ごす時間も増えた。ある時、Sは過去のことを語ってくれた。
「私、友達がいたんだ。その友達と一緒にCoCo壱の10辛を食べたの。そしたら二人とも同時に“そう”なっちゃって、最初は本当に困惑したよ。私たちはどちらも、怖くて一度も能力を使うことはなかった。だけど、ある日その友達が対ヴァーダ特別警察隊に捕まっちゃったんだ。どこから情報が漏れたのか、なぜ特定されたのか分からない。もしかしたらCoCo壱が情報を警察に渡しているのかもしれない。それから友達は収容されてしまって、今はもう連絡することもできないし、無事かどうかも何も分からない…………」
Sは泣いていた。僕はどのような言葉をかければ良いのか分からなかった。一度も能力を使っていない、ただ辛いカレーを食べただけの人間が捕まえられて強制的に収容されるなんて、なんて理不尽なんだろう。しかし、僕にはどうすることもできない。こうして身を隠して静かに暮らすことしかできない。僕は自分の無力さを呪った。
「パリン!!!!」
突然、窓ガラスが割れる音がした。窓の方を見ると、真っ黒な防護服に身を包んだ10人くらいの男が家へ侵入してきていた。まずい。対ヴァーダ特別警察隊だ。
「Sさん!!!!逃げるよ!!!!裏口へ走って!!」
僕とSは裏口へと走って外へ出た。その瞬間、背後から「パシュッ」という音が聞こえた。腕のあたりを何かがかすった。壁を見ると、注射針のようなものが刺さっていた。恐らく麻酔銃だ。これが当たってしまえばもうおしまいだ。できるだけ障害物で身を隠しながら逃げなければ。
「こちら第四部隊。第四部隊。ヴァーダと思われる男女二名を発見。追跡し、捕縛する。」
警察隊が無線機で話していた。
「Sさん!!二手に分かれるしかない。そうしなければ、いざと言う時力を使えないから!!」
「分かった!!!絶対に逃げ切ろう!!」
僕とSは短い言葉を交わして、真逆の方向に逃げた。Sは暗い路地裏のあたりへ身を隠しながら進んでいったのが見えた。僕は、近くにある山道に入り、森の中へ走って行った。
「パシュッ」
また麻酔銃だ。また運良く僕の体には当たらなかったが、これを意図的に避けることは不可能だと思った。射出音が鳴ったと思ったら同時に注射針が目の前に現れる。人間の反射神経では避けようがない。避けられるのは漫画やアニメなどファンタジーの世界の中だけだ。山道を逃げていると、警察隊の無線の声が耳に入ってきた。
「こちら第三部隊。聞こえるか。女のヴァーダを確保。これより“処置”を施し、連行する。」
「ラジャ。こちら第四部隊。男のヴァーダは依然逃走中。山道で視界が悪い。位置情報を送信する。可能なら応援を求む。」
嘘だ!!Sが捕まってしまった。なんて呆気ないんだ。僕は悔しくて泣きそうになった。なんで、何もしてない僕たちが追われて、理不尽な目に遭わなければならないんだ。それに、“処置”ってなんなんだ……舌でも抜かれるのか??考えただけで恐ろしい。
「そこのヴァーダ!!今から応援が来る。お前を包囲する。もう逃げ場は無い。大人しく投降しろ!!」
警察隊に言われた。なんでだよ。ちくしょう。どうせ捕まるくらいなら、ヴァーダの力で撃退してやる……今まで使用することはなかったが、こんな理不尽には耐えられない。お前達の記憶を抹消してやる!!!!
「おれは、ヴァ……ッッ!!!!??」
はっ、とした。警察隊の目を見た。ニヤリと笑みを浮かべている。やられた!!そうだ。考えれば簡単に分かることだ。彼らがヴァーダの能力の対策をしていないはずがない。全て推測に過ぎないが、恐らく対ヴァーダ特別警察隊の各部隊には、一人もしくは二人程度のヴァーダがいる。警察に協力しているヴァーダがいる。金のためか、正義のためか分からないが、奴らもヴァーダ対策としてヴァーダを抱えているに決まっているのだ。危ない。よく気づいたと思う。自分の記憶が消し飛ぶところだった。
「気づいたようだな。もちろん、我々対ヴァーダ特別警察隊の中にもヴァーダがいるのだよ!お前の能力は無意味いうことだ。観念しろ!!」
クソッッ!!!なんてことだ。おれはこんなところで捕まって、一生檻の中で暮らすのか。本当に嫌だ。悔しくてたまらない……。
程なくして、応援部隊がやってきて僕は完全に包囲された。もう、おしまいだ…………。
その時だった。
上空からマントを身につけた男が舞い降りてきた。
「貴様!!!何者だ!!!!」
「ヴァーダを庇うのか!!ヴァーダを庇う者も同罪だということを知らないのか!!!」
このマントの男は誰なんだろう。でも、完全に包囲されている。この人の力ではどうにもならない………そう思っていたが、男は口を開き、低く野太い、それでいて周囲によく通る声でこう言った。
「私はヴァーダだ。」
は……?何を言っているんだ。完全に無意味。それどころか、自分の記憶を失うだけじゃないか。何をしに来たんだ。そう思った瞬間だった。
僕たちを包囲していた警察隊が、全員同時に地面に膝をつき、うなだれるようにして動かなくなったのだ。
対ヴァーダ特別警察隊は全員、記憶を失ってその場にへたり込んでしまったようだ。僕の知っているヴァーダの能力ではない。何が起こったんだ。
「小僧。場所を変えるぞ。」
マントの男はそれだけ言って、スタスタと山道を歩いて行った。言われるがままに、僕は彼の後をついて行った。
「あの……あなたは……」
「詳しい話は後だ。」
「お名前だけでも……」
「私は『シドウ』。」
男はシドウと名乗った。その後は黙ったまま、山道を突き進んでいった。しばらくすると、大きな池の辺りに着いた。
「私は今晩ここで過ごす。お前もどうだ。」
シドウは言った。
「はい。すみません。よろしくお願いします。」
シドウは薪を集め、火をつけて暖を取った。僕も火にあたった。とりあえず、難局は脱したようだ。この男の話が聞きたい。そう思っていると、シドウが口を開いた。
「知っての通り、私は通常のヴァーダではない。」
確かにそうだ。通常のヴァーダであれば、僕という他のヴァーダ、また、警察隊に紛れているヴァーダの前で名乗れば自分の記憶が消えてしまう。
「私は『ネオン・ヴァーダ』だ。」
「ネオン……ヴァーダ……」
「そうだ。お前も知っての通り、CoCo壱で10辛を完食するとヴァーダの称号が手に入る。しかし、その次のステップが存在するのだ。」
僕はシドウの顔を見ていた。無精髭が濃くて推測が難しいが、目尻の皺の感じからして、45歳くらいだろう。痩せていて、いつもどこか遠いところを見ている。ずっと山で暮らしているのかな、とか思った。シドウはまたぽつりぽつりと言葉を紡ぎ始めた。
「CoCo壱の10辛を合計666回完食する。すると、幻の100辛が解禁される。100辛を完食した後、ネオン・ヴァーダの資格を贈呈されるのだ。」
666回……100辛……僕には到底真似できない。異常者の域だと思った。
「ネオン・ヴァーダは通常のヴァーダよりも更に優れた能力を得ることになる。まず、他のヴァーダの前で名乗っても自分の記憶は消えない。そればかりか、ヴァーダであることを表明した時、周囲の者の記憶を無差別に奪ったりはしない。記憶を失わせたいと念じた相手の記憶のみを抹消することができるようになる。更に強力なことに、この記憶抹消の能力は、通常のヴァーダに対しても有効となる。」
シドウがギロリと僕を睨んだ。僕は生唾を飲んだ。あの時、シドウは奪おうと思えば僕の記憶も奪えたということだ。
「だが良いことばかりではない。通常のヴァーダ同様、リスクもある。他のネオン・ヴァーダの前で名乗れば、無条件に自分の記憶が消えるのだ。それから……」
シドウは俯いてしばらく黙った。深刻な顔をしていた。
「もう二度と、CoCo壱のカレーを食べることはできない。ネオン・ヴァーダはCoCo壱に入店した瞬間、全ての記憶を失うことになる……。」
僕とシドウの間に沈黙が流れた。ヴァーダよりも更に上位の能力があることを初めて知った。これは政府も警察も知らないことかもしれない。僕はもっとネオン・ヴァーダについて詳しく聞きたくなった。しかし、シドウが語ったのは少し意外な話だった。
「私はCoCo壱が何よりも好きだった。CoCo壱のカレーを愛していた。それだけが生き甲斐だった。だからこそ、10辛を666回も食べることができたのだ。なのに……結果として私は、二度とCoCo壱を食べることができなくなった。最強と言っても過言ではない力を手にしながら、一番の生き甲斐を失ったのだ。人生とは本当に皮肉なものだ。」
シドウは悲しそうに笑った。なんと声をかければ良いか分からなかった。力を手にしても、人は必ずしも幸せになるとは限らないのだ。もう二度とCoCo壱のカレーを食べられないというシドウを、憐れに思った。
「CoCo壱はヴァーダの称号を配布することを中止したが、ネオン・ヴァーダの資格の授与はやめていない。今日のような事態を切り抜けたければ、お前もネオン・ヴァーダになることだな。今日はもう寝るぞ。明日になったら、お別れだ……。そうだ。最後にこれを渡しておこう。」
シドウは胸元から一枚の紙を取り出した。分厚い、最近はほとんど目にすることがない、羊皮紙のようだった。
「ここに、一時的にだが、ネオン・ヴァーダの能力すら超えるという能力を発動するための暗号が書かれてある。私はこれをCoCo壱の社長から受け取った。どんな能力が発動するのかは、私も全く知らないのだがね。」
僕は紙を受け取った。紙には、次のような文字列が書かれていた。
「4556494C」
なんだろう。全部数字かと思いきや、最後だけアルファベットだ。シドウは言った。
「私にもまだその暗号は解読できていない。だが、若くてまだ頭の柔らかいお前なら、もしかすると、解読できるかもしれないな。今日はもう、疲れた。おやすみだ……。」
僕とシドウは、焚き火を囲うようにして眠りについた……。
次の日の朝、目覚めるともうそこにシドウの姿は無かった。僕が起きる前にここを去ったらしい。どんな動機で僕を助けてくれたのか分からないが、ありがたかった。淋しそうなシドウの人生がいつか報われることを祈り、僕は山を降りた。
山を降り、見慣れた公園を歩いている時、不穏な気配を察知した。
包囲されている……!
姿は見えないが、対ヴァーダ特別警察隊に包囲されていることを察知した。
茂みの中から、真っ白な髪をした長身の男が歩いてきた。白いロングコートを着ており、手には銃は持っていないようだ。男は名乗った。
「対ヴァーダ特別警察隊 第一部隊隊長 周瞬影(あまね しゅんえい)だ。」
こいつが、第一部隊の隊長……。緊張が走った。この場から逃げ切れるだろうか。
「昨晩、第三部隊と第四部隊がそこの山で全滅しているのが発見された。全員、記憶喪失の状態でだ。ヴァーダよ。君、何か知っているんじゃないのか……?」
第一部隊隊長、周(あまね)は突如として、強烈な蹴りを僕の顔面に向けて放った。必死で反応して、何とか両腕で受け止めた。鋭い痺れが走る。素人の蹴りじゃない。何かしらの格闘術を極めた人間の蹴りだ。骨が折れてもおかしくなかった……。周は続けた。
「君が通常のヴァーダであれば、今頃難なく捕らえられていることだろう。だがそうはならなかった。君、何を知っている。」
周は左右から連続して蹴りを入れてきた。一撃目はかわしたが、ニ撃目が横腹に直撃した。激痛が走る。恐らく肋骨が何本か折れただろう。
「私は次のように推測している。君が通常のヴァーダではない何か特別な能力を持っているか、君以外に誰か特別な能力を持った第三者が現れたかだ。どっちなんだ?答えれば少しは手加減してやろう。」
また蹴りを食らった。今度は背中だ。あまりの激痛に僕は呻きながら、地面をのたうち回った。
「察しているかもしれないが、かく言う私も君と同じ“力”の持ち主でね。単純に好奇心というか、気になるんだよ。本来できるはずのないことをやってのけた人間がいるのだから。なあ。教えてくれよ。この能力にはまだ“先”が存在するのか?」
勘が鋭い人物だ。第一部隊の隊長を務めるだけのことはある。しかし、まずい。このままだと何も抵抗できないまま、周に捕らえられる。そして、こいつのことだ。僕を拷問にでもかけて、真実を話させようとするだろう。何とかして抵抗しなければ……。
その時、シドウから渡された羊皮紙のことを思い出した。
僕はポケットからその紙を取り出し、改めて暗号に目を通した。
「4556494C……」
周が上から見下ろすように僕を見た。
「何の真似だ。その紙が何になると言うんだ。君は既に詰んでいる。大人しく投降して、私に能力の秘密を話すんだな。」
考えろ。この暗号にヒントがあるはずだ。もう僕はこれ以外、この状況を打破する手段を持っていない。
ドスッ
鋭い蹴りが頭に入った。意識が飛びそうになるのが分かった。その瞬間、様々な記憶が走馬灯のように頭の中を流れた。
その中に……これは……もしかしたら!!
それは大学の講義の記憶だった。
教授は話した。
「コンピュータというものは、0と1しか理解できないんですね。今画面に表示されているABCという文字列も、コンピュータの中では0と1で構成された2進数の羅列なんです。コンピュータは2進数の羅列を、一定の規則に従って変換し、我々にこのように『ABC』という文字列として見せているんですよ。まあ、2進数だと桁数が長くなるから、人間が見るときは普通16進数に変換するのですが……。」
これだ!!!あの数字の羅列は、恐らくASCII文字を表現しているんだ。4556494C……。
45 56 49 4C ……。
これは16進数で表現されたASCII文字だ。変換できる……!!一文字目から、E……V……I……L……!!!!これだ!!!!
意識が戻った。周は相変わらず無表情のまま僕を見下ろしている。使うしかない。僕はさっき記憶の中から紐解いた単語を周に向かって言い放った。
「EVIL!!!!」
周が首を傾げた。
「君、何の真似だ…………何ッッ!!!!」
気がつくと、周の足は真っ白な何かに変わっていた。足先から順に、体全体が真っ白でざらざらした何かに変換されてゆく。最後に周は僕の目を見て何か言おうとしたが、すぐに顔も手も、全身の全てが真っ白な物体に変わってしまった。それは、人型をした塩の柱だった。
驚いた。記憶を抹消するなんて生優しい能力じゃない。人間を完全に塩の柱に変えてしまう能力だったとは……!!僕はその恐ろしい力を、追い詰められて使用してしまった……。
「フフフフフフフフ」
辺りに、低くて不気味な笑い声が響き渡った。
「何が起こった!!」
「周隊長はどうなったんだ!!!」
公園の脇の茂みから、ぞろぞろと対ヴァーダ特別警察隊の第一部隊と思われる、黒い防護服に身を包んだ男たちが出てきた。
程なくして、上空から何かが現れるのが分かった。それは異形のヤギだった。
人間のように二足で直立しており、背中には蝙蝠のような巨大な翼が生えていて、公園の上空をゆっくりと滑空していた。不気味な笑い声を上げながら………。
僕が呆然としていると、ヤギは虫のように細長い上腕を伸ばして、第一部隊の隊員を捕まえてしまった。
「やめろぉ!!!やめてくれ!!!あぁ!!!」
あっという間の出来事だった。ヤギは隊員の頭部を丸齧りにして食べてしまったのだ。首のない死体が転がり、地面には真っ赤な血が流れた。
「嫌だ!!!死にたくない!!!」
「助けてくれ!!!!!あぁ!!!」
あっという間にパニック状態になった。ヤギは巨大な図体からは考えもつかないほどの驚くべきスピードで、次々に隊員を捕らえては頭部を食いちぎっていった。僕はそれを眺めていることしかできなかった。僕が唱えた呪文は、人を塩の柱に変えるだけのものではなく、この化け物のようなヤギを召喚するものだったのだ……。
しばらく経つと、公園が静寂で満たされた。隊員たちの血まみれの死体がそこらじゅうに転がっている。全員ヤギの餌食になってしまったようだ。
ヤギは長い腕で口を拭うと、こちらを見た。
横に伸びた虹彩が何とも不気味で、背筋が凍るような思いがした。
「フフフフフフフフ」
ヤギは笑いながら、こちらへと歩いてきた。恐怖で逃げることができない。僕まで2メートルほど近づいたところで立ち止まり、ヤギはこう呟いた。
「evil......」
その瞬間、自分の死を覚悟した。僕は唱えてはいけない呪文を唱えてしまったようだ。もうおしまいだ。ヤギはゆっくりと首を伸ばし、口を大きく開けて僕の頭部にかぶりつこうとしていた。本当に怖いものはヴァーダでもない。人間でもない。ヤギだ。その時自然とそのように悟った。そして、自らの死を覚悟した。視界が真っ暗になり、意識はそこで途絶えてしまった…………。