自罰
他人と話して痛感するのは、自分のことも他人のこともまるで興味がなく、ただその場しのぎさえできればいい究極の刹那主義者なんだなあということだ。
博愛主義の人間に「博愛」されたことなんてないことがこのおぞけの正体だと思う。と言うよりは、自分の意見が自分の意思とも合ったことがないし、それ故に他人とも合ったことがない本能が恐怖しているのかもしれない。
他人が際限なく嫌いで、そんな自分がきっと死ぬほど嫌いだ。きっと人間にも宇宙人にもなれない自分が、他人の中で生きていかなければならない、そんな人生があまりにもクソゲーすぎるので世界も嫌いだ。
自分の考え方を決めようとしないで、と言う言葉が嫌だ。それは自分がされてきたことだから。自分のしたいことも言いたいこともわからないのに「こういうことだよ」とか価値観をバカスカ打ってくるからそら嫌いだ。自己嫌悪だ、きっと全ての人間と関わるときに自分を見出しているので他人が好けない、そうだな、そういうやつだったよ自分は。ずっと言ってる、自分みたいだから他人が嫌いって。
自分と他人をわけられないタチなのか? そうなのかな? 自分の思っていることは全て客観的に見て正しいしそのさまが自己愛のそれなので嫌いなのかもしれない。自分が死ぬほど嫌いなのに自分しか愛せないとはこれいかに。他人の家の子供になれてたら本当に幸せだっただろうねって言葉が何度もわたしの中をうろついている、他人になりたい、他人の当たり前が知りたい、いや知らないけど当たり前に犯罪はしてはいけないし他人のことを考えられる、そんな人間に、他人になりたい、ほんとうに。他人にならせてくれ。こんな生き地獄、生き地獄、生き地獄。
なんでうちゅうじんモドキの人波で生きていかなきゃいけないの?
なんで当たり前が当たり前じゃないの?
なんでみんなそんな当たり前の顔してるの?
当たり前って何?
にんげんになりたい・
愛とかいう人間特有の吐き気のする制度、愛されなければ人ではない、愛されると言う土俵にすら立てない宇宙人はきっと、「博愛」れても気持ち悪いだけだ、吐き気がする、反吐が出る、どうせ宇宙人のことを愛しはしないだろう。
愛されないと言う絶対的な自信がある。あの人たち以外から。だから博愛なんて謳う嘘つきが嫌いだ。博愛だってそれは誰も受け入れていないのと同じでしょ、誰もを愛しているなら、愛してくれ。宇宙人だって愛してくれ。
それはお前の愛だろうが。
わたしは私以外愛せない。
やっぱり世界なんてない方が幸せだよ。