随筆(2020/10/29):「共感と問題解決」というモデルは、「存在と真理」というモデルに、さらに単純化できる(5おまけ)
1.ある種の論理学や存在論の話をしたのでおさらい
・現実は性質に細分化され、同じように組み立てれば、今目の前に起きている現実を、ある程度は再現出来る。これが心の機能である
・それらを現実と違う風に組み合わせれば、それは「選択可能な選択肢」になる。これ「も」心の機能である
・選択肢は起きた現実には効かないが、これから起きる実現には効く。
「これを起こさせる」「あれは起こさせない」ということに効いて来るからだ
・選択可能な選択肢は、やはり何らかの必然的な法則を含んでいるのであって、だからこそ初めて実現可能なのだ
・必然的な法則を含まない類いのフィクションは、必然的な法則を含む類いの選択肢にはなりえない。
やっても実現しない選択肢を、選択肢と呼ぶのは、馬鹿げている
だいたいこの前はこの辺の話をしました。
2.やり残した話
で、ちょろっとやっていた
・フィクションは心のブーストに効く
・フィクションは契約や規約などの約束事の共通認識にも効く
・ブーストした心や、いったん共通に認識された契約や規約は、創造にある方向性を持たせるので、特殊な物を創るのに効く
という話を、もうちょびっとおまけで書きます。
3.フィクションは心に効く
必然的な法則を含まないフィクションは、さっきも言いましたが、選択肢たりえません。
やっても実現しないのなら、それを選択肢と呼ぶの、欺瞞でしょう。
しかし、フィクションは、心そのものと親和性が高く、物は創れないのですが、それとは別に、心を賦活するという形で効いてきます。
さっきも書きましたが、心は
「現実を分解して再構成して、同じものを再現したり、なんか別のものを新たに作ったりする」
というプロセスを通じて、ないものを創る仕組みとしてあるものです。
細分化した性質や、再構築の例であるフィクションが、素材として見えていればいるほど、
「そういうのもあるのか!」
となり、正に心の持つ再構築の仕組みそのものを強めるという効果があります。
もちろん、
「そういうのもあるのか!」
というのと、
「そういうのもやれるのか!」
というのには、天と地ほどの違いがあります。
ここはゆるがせに出来ませんし、もし後者を目指すなら、「ないと出来ない」真理に支えられた、「やれば出来る」手段が、絶対に要るんです。
とはいえ、そもそも前者が貧弱だったら、その心にはそもそも、「ないものを創る仕組み」への積極性が、まるで足りていない可能性が高い。
手段を持っているか否かとは別に、積極的であるか消極的であるかが、実践や実現に、かなり深刻に効いて来るのは、まあ分かるでしょう。
同じ手段を持っていたとしても、ブースト状態で「為すぞ成すぞ」モードになっていると、より多くのことが為せるし、より多彩なものが創れます。
そういう形で、間接的にだけど、行為や物にも効くんですね。
(この辺の話は、また後で)
4.フィクションは契約や規約などの約束事の共通認識にも効く
選択肢のうちには、フィクションの、それも契約(約束)や規約(ルール)などの、約束事のみもたらすものもある。
それは何かの機能をもたらす物を創るのには効かない。
「約束やルールが成立したら、事を為せるし、物が創れる」
という話には、もちろんならないのです。
ですが、フィクションである約束事は、さっきも書きましたが、何かの役割を仮定で見立てた約束やルールを守るのには効いてきます。
そしてこっちはこの前書いたのですが、こういう約束やルールの仮定した役割のおかげで、法典や借用書などが成り立つ訳です。
法典や借用書を無視すると、人々の約束事からは、ふつう締め出される。
そして、人々から不利益をもたらされるか、そうでなくても利益にはあずかれなくなる。
これは、まあ、実害と言っていいでしょう。
やったことで実益や実害があるなら、それは、まあ、実践や実現というか、もはや査定に値する成果とまで言っていいんじゃないかな。
つまりは、法典や借用書や、そしてそれを成り立たせている約束事は、実践や、実現された約束事である(あえて物とは呼ばない)、という扱いでいいでしょう。
5.ブーストした心や、いったん共通に認識された約束事は、創造にある方向性を持たせるので、特殊な物を創るのに効く
そんな訳で、約束事そのものは、特殊な実践です。
そして、奇妙な話ですが、場合によっては特殊な物の創造をもたらすことがあります。具体的には寺社神殿や公共事業などですね。
昔の寺社神殿には、みんなの年に一度の(年に一度かどうかは場合によるが)お楽しみ、お祭りの場という、ものすごい意味がありました。
お祭りがなかったら、生活はクソだ。やってられっか。積極性? 寝言は寝て言え。盗人猛々しい。というお祭り人間、今でもたくさんいるでしょう。
(まあ、ふつうにやったら、生活は、何も楽しくない、クソだったりするんですよ。よくある話だ。今は豊かなので、都市で好きな時にお楽しみが出来るが、昔はそんなことはまず無理だったので)
公共事業にはもっと即物的な意味があり、例えばダムは防災や飲料水確保や農業に猛烈に効いた訳です。今でもそうだ。
じゃあ、これらを「頑張ろう」という気持ちで創れる、それほどの動機をもたらすのは、何か。
「このテンションでやってやらあァァァ」とブーストされた心や、「アレのためにやってやるんじゃあァァ」という約束事です。
これは、今まで、現にそういうことがあった。ナメてはいけないところです。
「それらはオカルトだから、それによって物を創るというのはまやかしだし、創られたものは実際には存在していないに等しい」?
そういう姿勢では、現に創られた物を、どうにもできない。
下手をすると、そのおこだわりのせいで、自らが何かを創り出すことすら出来なくなるし、最悪ずーっとそのままで終わるだろう。
ホンマ、使えるものは何だって使えばいいというだけの話だし、イワシの頭だろうが何だろうが、使えばええねん。
6.価値も規範も動機も意志も、契約も規約も、自己完結的に偉い訳ではない
ここから、イヤな話をして、終わろうと思います。(お前はよくそういうことをするよな。やめろ)
皆さんが偉いと思っている、価値も規範も動機も意志も、契約も規約も。
これらは、突き詰めれば、為す実践や、ひいては成す実現のためについた、重み付けの重みに過ぎない。
単に、価値や規範や動機や意志や、契約や規約が、自己完結的に偉い訳ではない。
それらの偉さは実践や実現から残り香のようにもたらされているに過ぎない。
つまりは、為して成さないと立ち枯れる性質のものだ。そこをすっ飛ばしてはいけない。
だから。
やっていきましょう。
(おまけ追記ここまで)