随筆(2020/8/22):万人の持つ世界観を焼き尽くしたいがために、真実を愛し綺麗事や常識を憎む人たち(3)「歪んだ世界観を世界の正しさで叩き潰したい」動機の邪悪さ
4.「歪んだ世界観を世界の正しさで叩き潰したい」動機の邪悪さ
4.0.「歪んだ世界観を世界の正しさで叩き潰したい」動機の邪悪さ
「万人の持つ歪んだ世界観を、邪悪への制裁として、本物の世界の正しさで、叩き潰したい」
この動機には大きな問題がある。
4.1.私的な攻撃性の発露としての、制裁と称した侵略は、何ら正当化出来ない
その世界観は、まずは、主観だ。
主観や世界観が世界に関わるのは、まずは受動の観測においてだ。
こちらは、世界「から」世界観に影響を及ぼすパートだから、世界観から世界「への」実害の話にはならない。なので、基本的には説明を飛ばす。(後でちょっとだけここの話はします)
そして、世界観から世界「への」影響は、特に能動の実践において生じる。
世界「への」実害の話は、基本的にここの話になっていく。
***
で。
世界に実践的に関わらないうちから、世界の側を標榜する者が、何がしかの世界観を持つ者を、叩き潰す?
何でそんなことが正当化されると思った?
公正な裁きと称した、ただの侵略ですよ。こんなの。
こういう形の、私的な攻撃性の発露、認められねえんだ。
***
「(特に日本国の)司法関連部局が、刑法と治安の都合のために暴力を独占したのは、百歩譲って、まあいい。
我々の中に残った制裁に関する感覚を、司法関連部局がその通りに満たさないのも、刑法と治安の都合においては、素通しすると、司法関連部局が非力な時と同じように、最終的には揉めるだけだ。というのならば、まあやむを得ない。
だが、その摩擦は、司法関連部局か、その代わりとして政府や民選立法議会が、何とか落とし前をつけろ。
黙ってボコれば市民も黙るだろ、と思ってやしまいか? そうかそうか。ええ根性しとんな。
じゃあ、全人口で、自衛隊と警察を、弾薬以上の人数で蹂躙して、最高裁と内閣と国会を制圧して、全員人間松明にするぞ。それ以外の何があると思うんだ」?
うん、まあ、それは、そういう人の気持ちは、分かりますよ。困りましたね。
何らかの落とし前は、そりゃあ、要るよ。
でも、せめて、それは、やめて欲しいんだ。本当にお願いします。
あと、これをやったら、市民の治安はもう諦めるしかなくなる。
が、それは約75年前の市民の悲願を、今の市民が蹂躙することだ。
これを、直接の担当ではないが、公僕の仕事として、もちろん看過しえないのですよ。
4.2.内心の私有の侵害が、容認される余地は、ほとんどない
主観と、そこにくっついてくる世界観は、内心の、私有物だ。
これを、「侵したい」と言っている訳だ。この時点でだいぶ話にならない。
多くの自由主義者がハイエクに批判されたように、経済的自由は精神的自由に劣るどころか、資源とその所有無くしては、精神的自由はほぼ行使出来なくなる。
内心の私有の侵害は、これは当然両方にまたがる。容認される余地はほとんどないように見える。
4.3.刑法は基本的には世界の側の実践上の「行為」か「結果」しか裁かない
まして、「世界にとって迷惑だから侵したい」と言うロジックを行使する人たち、かなりいる。
もちろんこれにはいくつかの厳しい要件がある。
ざっくり言っても今の司法による制裁は、世界に顕れた、実践上の行為や結果を、刑法で許される限りにおいて、裁くことが出来る仕組みになっている。
行為や結果でなく、実践につながっていない、世界に顕れただけの態度を裁くのは、未遂罪等がある場合に限るだろう。
まして、世界に影響のない、内心の意図は、行為や結果が生じてから、副次的に考慮されるものという地位でしかなく、それ単体で裁ける性質のものではなかったはずだ。
それらは世界に直接顕れたものだ。対象の明確な、将来の現実の事件の発生が強く疑われるか(ちなみにこれだと、現実の事件は今のところ起きてないので、重視されにくい)、現に現実の事件が生じたものだ。「だから」裁けるんだ。
そうでないなら? 世界に事件が顕れていない。「だから」裁けない。そこはシンプルだ。
(地位に関わる犯罪だと、裁く際に、事件がどのようなものであったかを、部分的に秘匿することがある。
だが、それは、裁かない、と言うことではあり得ない。
ガンガン裁くし、それはそれとして、この過程で関係者の地位を損なわれてはならない。両方やらなければならない。
なので、司法は関係者の地位を守るために十分な配慮をしなければならない。そう言う話だ)
4.4.権威ある地位や、集団忠誠の場としての、「世界の真実」ないし「真実の世界」(というもの自体が、既に制約された狭い「世界観」だ)
「自分を含め、万人の持つ世界観を焼き尽くす攻撃性は、世界の真実に準拠すれば、正当化されてしかるべきものである」
と言う、ある種の権威的、集団忠誠的な直感が、ある。
これは、「世界の真実」とか、「真実の世界」とかいうものを、権威ある地位や、集団忠誠の場として見ている、ということだ。
うん。
「虎の威を借る狐」ムーブのことを、誠実さと言い張る人、そのどこにどのような正当性がある?
それは揺るぎない礎かも知れないが、その礎が欲しかったのは、「攻撃性を正当化するため」だったのか? 随分と矮小化された誠実さだな。
「力こそ正義、力こそ真実」みたいな、馬鹿な話でもあるまいに。
違うと言うなら、型なしのカラテで、型のあるカラテに勝てるか。
車やバイクで、自然法則のもたらす慣性や遠心力を、常に己が力でねじ伏せられるか。
後者は俺も経験があるから分かる。無理だぞ。
むしろ、
「あのおっかない力が、自然法則や、説明のために捏造されただけのものであるはずの数学公理系に従っている。どうなっているんだ。
ひょっとして、自然法則や公理系をやっていくと、世界の隠している秘密を、正直に吐かせることが出来るのか? ワーオ。マジか。なんじゃこりゃ。
世界がスッキリと透明度の高い、しかし虹ラメみたいな極彩色に、輝いて見えるぜ。サイケデリック&クリア! アサヒスーパードライ! (複数の老若男女の声優の声で)
この揺蕩う海を、俺がザブザブ泳いでいいの? ウヒョー。マジかよ。ションベン漏らしちまいそうだぜ」
というところに、世界の真実とか、真実の世界とかの価値があるんだと思いますよ。
(狂人の言いぐさだ)
(でも、例えば、数学がちょびっと分かってくると、本当にこうなっちゃうんだって)
(魔境そのものじゃん)
(続く)
(次で終わる予定)