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随筆(2020/4/16):虚無の死の人たちが、価値ある死の人たちのことを、嗤っている場合か

1.虚無の死の人たちと、価値ある死の人たち

年に何度か、死というものについて、まともに考えることがある。

***

非常にシビアな話として、

「自分の死は、突き詰めれば、単なる虚無である」

この話は避けられない。

***

で、ここから、ぎょっとする人がいらっしゃるかもしれないが、

「自分の死が、大事な誰か(これは複数人でも集団でも場でもよい)を、生き延びさせて、天寿を全うさせるものとなりうる。単なる虚無なんかじゃなかった」

と言い切れる、価値ある死の人たちを前にして、

「バカかこいつら」

と言いたくなる虚無の死の人たちが、本当に人をバカに出来る立場か。ということは、少し真剣に考えたくなる。

***

逆に、実は、彼らにしてみれば、

「おやおや。虚無の死のやつらは、死が虚無でなくなった俺を、嫉妬するどころか、なんと蔑み始めたぞ。

酸っぱい葡萄であるなあ。

どうせこいつらは死に直面した時にやはり虚無に囚われるのだ。

やせ我慢したって無駄なのにな。

おお、愚かしい愚かしい」

と心底バカにしているのではないだろうか。

そういうことを、果たしてどこまで笑い飛ばせるのだろうか。

本当に誠実に考えるなら、彼らの言ってること、ちゃんと理があるし、それを笑うことに理はあまりない。

ここは重く受け止めねばならないところだ。少なくとも、何ら安易に嗤っていいところじゃあないんですよね。

2.死の虚無に向き合う誠実さは、自分の中でしか通用しない

いや、分かるんですよ。

死は、それそのものは、虚無だ。

これを取り繕う話、全部ごまかしにしか見えないよ。そらそうよ。

「死の虚無に直面して、克服出来ないやつは、単純に不誠実だ」

とは言いたくなる。

***

でも、価値ある死の人たちは、当然こう言うだろう。

「死力を尽くして、それと切り離せない結果として、本人の死と、大事な誰かの生存が得られた。

大事な誰かの生存、何らごまかしではないが…?

これがまとめてごまかしに見える人、もしくは、安易に切り離せると思っている人、目で見ていながら、実際には何も見えてないのでは…?」

こうした時に、どう言い返す? これは案外難しい問いですよ。少なくとも私は答えられないんですよ。

3.下手するとそれは虐待ですらあるかもしれない

そもそも、「死に直面する誠実さ」の話、ある種の徳の顕れと言えなくはないが、ある種の不徳のなすところとも言える。

うん。ぎょっとするかも知れないが、これ、ある種の不徳に抵触する場合があるんですよ。

「そんな馬鹿な」と思うだろ?

でもね。価値ある死の人たちから、

「誠実で不幸なやつ、善人かもしれないが、自分から不幸に突っ込んでいくの、頑張った自分を虐待してる訳だよね。

あっ、ひょっとして被虐愛好家の人?

だったら勝手にすればいい。だが、その価値観を万人に強いるんじゃあない。そうなったらそれはただの邪悪生物ムーブでしかなくなる。

そうでないなら、人生を快楽や安心や納得ではなく、不幸で終わらせたがるの、どういう神経なのか、まるで訳が分からない」

という、至極当然の突っ込みを、本当に突っぱねきれるのか? 無理では…?

4.ある種の独我論のリアリティのなさ

「死んだら終わり。

その後の世界など知ったことではない。

大事な誰かが、その後どうなろうと、それもどうでもいい。

何せ、彼らがメリットを受けようが、私はメリットを受けないのだし、彼らにデメリットがあろうとも、私には何らデメリットではないではないか。

死ぬまでに好き放題やって、リソースが枯渇する前に、曖昧になって怖くない中で、何らかの薬学的手段で痛くないように死ぬ。そういうのならまあ、百歩譲って死を受け入れてやらんでもない」

という人たちと、

「現にいる大事な誰かのためなら、死は虚無ではない。

だったら、あまりにも絶望的でおぞましい虚無の死ではなく、大事な誰かのために、虚無とは程遠いリアルなメリットのある死に様が与えられるというの、超ラッキー出血大サービスやんけ。

グズグズしてたら、あの虚無の死しか来なくなるんだ。

今、目の前にあるのは、そうならなくなるチャンスなんだ。

急に来たってんで、心の準備が出来てなくても、やらん手はないやろ。

え? 死んだら終わり? 自分以外は終わる訳ないんだよなあ。大事な誰かは、当面生き残る、と考える。

何らかの理由で、「そうではない」と思うのは勝手だが、バカでは?

お前の周囲の誰かが死んだときに、お前はふつうに生き残ってただろうが。

なぜお前が死ぬ時だけ、世界が終わる、などという話が信じ込めるのか?

独我論者特有の倫理観のなさだ。あーしゃらくせえしゃらくせえ」

という人たちが言い争ったら、どうなるか、ということだ。

果たして後者が言い負かされてくれるか? 到底そうは思い難いじゃないですか。

何なら、むしろ、前者がタジタジになる可能性の方が高いまである。というか、そうなる。そこは私はあまり楽観視していない。

5.価値ある死の人たちは、「野蛮人」呼ばわりされる謂れはないし、虚無の死の人たちが「文明人だから賢い」という話も別にない

ということで、価値ある死の人たちは、「野蛮人」呼ばわりされる謂れはない。

それに、虚無の死の人たちが「文明人だから賢い」という話も別にない。

ここは、おそらく、人生で、後になればなるほど、効いてくる話だ。見誤らないようにしましょう。そういう記事でした。(いじょうです)

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