日記(2024/1/1):謹賀新年2024
0.あけましておめでとうございます
今年もよろしくお願いします。
1.去年の出来事ではなく心境を振り返る
さて、去年の出来事は先日もう振り返ったので、そうではなく心境を振り返ろうと思います。
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私は興味のあるものや欲しいものを何でも追いかける性質の人間で、
傑作の気配がする漫画や小説を追いかけたり、
自分で小説を書いたり、
自分の知りたがりのために数学を勉強したり、
食べたいものを食べたりして過ごしている、
そういうかなり享楽的でエゴイスティックな人間です。
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そして、それらを追いかけるために全ての余った体力気力をぶち込むので、休み時間は上の4つのうちどれかをしているか、あるいは体力気力を回復させるために布団で気絶しているかのどれかです。
私の職場では通常年末3日間と年始3日間、計6日間の冬休みがあるのですが、自分でも実に休日の過ごし方が下手だと感じています。
とにかく「今やってる数学の本を攻略している」か「寝てる」かのいずれかです。
それ休みか?
仕事とは言わないが、作業じゃないのか?
時間がもったいないから作業に使う?
せっかくの休みを、遊びに使えないのか? 楽しく過ごせないのか?
だいぶつまんねーやつだな。
自分でも「決して楽しくはない」と思ってんだろ。「さっさと終わらせて次行きたい」という、追い立てられた気持ちでやってるんだろ。
そんなことしてると、どんどん快楽や幸福に関する感受性は閉じていくぞ。
「TODOさえしていれば意味がある」というモード、人生の選択肢をTODO以外選べなくするぞ。
もしそれで大業を成し遂げたとしても、TODO以外のものを選ぶという発想が損なわれているから、その後もずーっとそのままになるぞ。
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やりたいことをやる、というより、選択肢を広げる、ということが、課題になって来ました。
新しいことをやる、というか。
で。
俺にとって新しいこととは、一体何か。
2.選択肢を広げる
2.1.家事を回せるようにする
俺は自分の生活を回すために、必要最小限の料理スキルしか持たない。
適切なコマンドで炊飯出来る。
味噌汁も作れる。
袋麺タイプのラーメンはふつうに作れる。
健康(プロテイン摂取)上の理由で、ごく簡単な肉料理と卵料理と、それによるごく簡単な弁当も作れるようになった。
それだけ。
オイー。もっと料理が出来ていろよ。
いつも母が作っている料理を概ね作れていろよ。
母ももう歳なんだから、できるだけ料理を引継していけよ。
肉野菜炒めとか筑前煮とかカレーとか焼き魚とかサラダとかよー。
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掃除はルンバ君に任せていますが、ルンバ君の及ばないところは当然自力でやらねばならない。
例えば積んである本と紙ごみはルンバ君の力の及ばないところです。
ということで、ここ数日は年末大掃除の流れで、実は自室の紙ごみの断捨離をひたすらやっていたところでもありました。
本の入っている段ボール箱の上に紙ごみがどっさり積んであったのですが、バサバサと捨てました。
近々段ボール箱の中の本を処理しようと思います。ブックオフで売ると金が発生して、確定申告をせねばならないだろうし(今年は諸般の事情で確定申告というものをせねばならないのです)、気が重い。
捨てるのももったいない。譲渡する先もない。
とはいえ、いずれどうにかしないとなあ。
段ボール箱が机の周囲からなくなれば、自分のパソコン机の前の椅子に座る時の導線は大幅に改善し、椅子に座るために手間取らないで済むだろう。
意識していないだけで、ここのストレスは現状きっと大きいはずだ。
これをなくすことには、きっと大きな意義がある。
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洗濯乾燥機を回す分には適切なコマンドは入力できます。
が、特殊な衣類は乾燥機にかけてはいけないので、その仕分けとかに熟練しなければなりません。
カッターシャツもそうなので、洗ってから干すのです。
家族によって他の衣類があるはずだ。母の衣類は特にそういうの多いし。そういうのに熟練していかねばならない。
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他にも家事はたくさんあり、それらをカテゴリごとに習得していきたい。
母ももう歳なので、こちらもそのつもりでいなければならない。
俺が親なら、自分は持っているが子が持っていないスキルを引継できないまま施設に入るの、まあ空恐ろしいでしょう。
「きっと子は生活破綻者になる。自分は今までそんなことのために子育てをしたわけではない」
そう親が思うのだとしたら、その絶望は凄まじいものになる。
なるだけ軽減しなければならない。
俺もスキルが身に着くし実生活が回せるので、甚大なメリットになる。
2.2.休み方の工夫をする
今、休みを「自分のやりたい作業をする」と「寝潰れる」にしか使っていません。
芸の肥やしのために作業をすることは不毛とは言いませんが、休みを台無しにすることは、休みという観点からはまあ不毛でしょう。
その上で、疲労は回復しきっていないのです。何だそれは。そこまでやってるなら、せめて回復できてるようにしろ。
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それと、休みの日に楽しいことができないやつが、人と休みの日に楽しい時間を過ごせる訳がない。
TODOのことが頭にちらついて
「この時間にあれがあそこまで進められたはずなのになー」
というツラをしているやつと、誰がデートなんかしたいものか。
(ここは婚活の上でも大きな反省点でした)
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ということで、買ったはいいがまだ読んでない、あるいは読みかけの漫画や小説を読んだり、Youtubeをダラダラ見たりすればよいのです。
しかし、今の精神状態では、率直に言って、どちらも特段やりたくありません。
また、無理して読むと、目が滑ること甚だしく、
「そういうテンションで読むからあかんのでは?」
という気持ちになっていき、そのうちやめてしまいます。
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あるいは、スーパー銭湯ホテルに二泊三日ガツンと泊まって、やることがなくて途方に暮れながら、とにかくサウナでととのったり、ジェットバスを肩や腰に当てたり、炭酸泉で血流を良くしたり、ソフトクリーム食ったりコーラ飲んだりすればよいのです。
この歳になると、むしろそっちの方がいいな。
それで、気合があったら、荷物に読みかけの漫画や小説を持って行って、ダラダラ読めばいいのだし。
(ただ、いざ持って行くと「読まなきゃならん」というテンションになりそうだし、そうなって読むとやはり目が滑りそうな気がしますね)
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とにかく、脳が
「なんか意味のあることをせなならん」
とトチ狂っているため、これを
「ええから休んでダラダラしてろ。それでやりたいことができたらやれ。できるまで何もするな。ダラダラせえ」
という方向に持って行きたいのです。
そうしたら、きっと脳が病的な疲労から解放されるし、なんか思いつくし、あるいは日頃やっていることの工夫を始めたりするし、漫画も小説も読めるようになるに違いないのです。
まず、休んで、ダラダラしたいですね。
2.3.自分のためではなく、他人のために生きてみようかな
休むことは下手なのですが、休み時間を費やしてでもやりたいことはたくさんありました。
実は、去年は、その多くを片付ける年でもありました。
コロナ禍の中、ずーっとできないでいた、ここ数年最大の「やりたかったこと」、東京食べ歩き旅行を果たしたのが何より大きいですね。
(まだ食べ足りないところはあるが、一番食べたいラインナップは全部食ったので、後は「やれればいいが、やれなくても別にいいや」という感じです)
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未だに、脳のかゆみを取るために、勉強はしたいし、小説は書きたいのです。
しかし、それは今すぐできることではなく、逆に言えばじっくりやればいいことでもあります。
やり残したTODOというのが、作業以外に、あんまりない状態になっちゃったんですね。
これは非常に身軽な話でもあります。少なくとも、今、欲しいものを得て快楽を得た上で、執着から離れられている。その穏やかさがある。
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この状態を一生やろうとすると仏教の世界になるのでしょうが、今のところ別段出家の意図はないし、まだ仕事は定年まで続ける気でいます。
貯金をガンガン蓄え、IDeCoや新NISAに出資し、老後の安定を考えているところです。
ようやく赤字部門が減って(外食費が激減したのと、ジムをやめたことが大きい)、黒字になってきたのです。ここから軌道に乗せたい。
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そして、貯金が整ったら、そろそろ婚活を再開しようかな、と思っているのです。
自分のために生きることはもちろん大事で、やりたいことをやり尽くさないで他人のために生きると、恨みつらみばかりが残ることになります。
そういうのが絶対に嫌だったので、ずーっと自分のやりたいことをやり尽くすことに全力を注いできました。
その中には快楽をもたらすリクリエーションと、快楽に直ちに結びつかない何らかの事業の下拵えが混在しています。
前者は全部捌き切った。後者は今まで通り積み重ねて、いつか花開けばいい。
じゃあどうするか。
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最近、あることに気付きました。
「複数人で食べる、パーティー料理とか、食ってこなかったなあ」
ということです。
先日、馴染の飲食店の方と一緒に、別の馴染の飲食店で、パーティー料理(皮付き豚バラ肉のグリル)を食べに行き、東京食べ歩き旅行の話をして盛り上がったりしていたのでした。
そうそう、こういうのがしたいんだよ。
パーティー料理は美味しい。
そして、ちゃんと盛り上がれる話をお土産にして、その話で盛り上がるパーティーは、本当に楽しい。
(そういう意味では旅行はいい話題ですよ。特に食べ歩き旅行は)
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そういうことを、お見合い相手とも、できればいいのです。
食べ歩き旅行の話で盛り上がり、手慣れた美味しい料理を振る舞い、一緒に休みの日になんかしたりする。
そういうことができる相手との巡り合いは、得難いものです。
ずっと一緒にこうしていたい、と思えるかどうかによっては、そのまま結婚の話に結び付くかも知れません。
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自分のためにやる楽しいことはたくさんしてきた。
そのトークで盛り上がれるということは、大事なスキルであり、貴重な財産である。
自分のためにやりたいことは、もうあんまりない。
ここからさらにやることはいくつかあるが、どれもこれも長期戦のフェーズに入った。
自分だけでできない幸せが、いくつもある。
誰かと一緒にいるための、己の土俵。
今からそれを建てていくことになるだろう。
食べ歩き旅行の楽しい話は、他人にとっても楽しいようであった。
が、その他にも他人を楽しませる、一緒にいたいと思わせるはたらきかけはたくさんある。
これらを伸ばせば、誰か他人が自分と一緒にいてくれるかも知れない。
これは、と思った人と、一緒になろう。
そして、その先にある、誰かと一緒にいることで着席可能なテーブル。
典型的には結婚披露宴だが、親子関係もそうだし、育児も教育も全部そうだ。
それらに、家事能力や、今までの作業が、全部活きて来る。
(具体的には、自分の数学独学が、子の数学教育に効くかもしれない、という目論見がある訳ですね)
他人のために、生きてみようかな。
そうしたら、他人と共に、新たな幸せというものが得られるかも知れないのだ。
もちろん、他人のために生きることや、他人と共に生きること自体が、割とこの時点で幸せだということなのでしょう。
他人のために吟味して差し上げたプレゼントって、あげた時点でまず達成感があり、喜んでもらえたら
「いやーこちらこそ! 喜んでもらえて光栄だなあ! チョー嬉しい!」
ってなるものでしょう。
そういう感情、一人では構造上不可能な代物ですよ。
(あと、既に書きましたが、他人と囲むパーティー料理は美味しく、自分が楽しく他人も盛り上がる話をするパーティーは楽しいものです)
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そう思えるようになったの、大きな心境の変化ですよ。
自分の楽しみをやり尽くして、
飽きて、
その楽しみ(できれば世間一般的な楽しみのチャネルがあるとよい)で他人を喜ばせることができて、
そして他人が喜んでくれるのを見て、こちらが光栄に思えるなら、
自分のためではなく、他人のために生きてみようかな、と思うことは、実は可能なのでした。
3.今年もよろしくお願いします
ということで、自分のやりたいことを越えた領域に挑戦して、一人では届かなかった幸せに触れる、そんな年にしていきたいと思います。
今年もよろしくお願いします。
頑張ります!
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