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「言論の自由」があると社会の改善に役立つのか

※「多数派」と「多様」を混同しやすいので、多数派のことをあえてカタカナで「マジョリティ」と記載しています。


ネットでは、多くの人が不快に感じるであろう投稿がされることがある。
一方でそれを批判すると、「言論の自由を守らないのか」との反論もされる。

言論の自由は、もちろん憲法で保証される大切なものである。しかし「言論の自由を守らないのか」と言ってる人が、どれだけ言論の自由を理解しているのかわからない。
言ってしまうと、「言論の自由を言い訳にしてる気がするんですよね」である。

憲法で保障されている普遍のものであることを絶対の前提に、もう少し現実的に、「言論の自由があると社会に役立つのか」をロジックとして捉えたい。

最近、『自由論』という本を読んでいる。いまある各国の政治システムや憲法・各種法律を作る際に参考にされている、現代民主主義の基本となる考えが示されている。
これを読みながら「言論の自由があると社会に役立つのか」について考えたことを投稿してみる。

ここで書いていること

  1. マジョリティによって選ばれた施策・計画は、絶対の正解ではない

  2. 多様な意見をぶつけることで、施策・計画をブラッシュアップできる

  3. しかし多様な意見は排除されやすい

  4. 多様な意見を守るために「言論の自由」が必要

「言論の自由」があると社会の改善に役立つ、そのロジック

マジョリティの意見=正解、ではない

社会には課題があり、その課題に対して

  1. 意見を出し合って議論し

  2. 施策・計画を選び

  3. その計画を実施する

ことで社会は変わっていく。

議論の時点では、いろんな意見が出る。しかし議論というものは必ずまとまるわけではない。まとまらないかといって、いつまでも議論を続けているだけだと課題は積み増す一方なので、どこかで行動フェーズに移さなければならない。意見を集約し方針を決定する仕組みに「多数決」がある。
行政や立法だと、試験や選挙によって選ばれた「優れた」人たちが国会で議論し、良い案を選ぶ決議をし、それを政府が実行する。これも多数決の一つと言っていいだろう。

しかし、マジョリティによって選ばれた施策・計画は、100点満点の案であることは保証されないし、他の案よりも絶対に優れていることも保証されない。保証されるのは「他の案より、多くの人に支持されいてる」ということだけだ。

あくまで、「その時点で、他の案よりも多くの人に支持されている案」を選ぶのが多数決だ。
多数決で決まったことが100点満点はないのなら、多数決で決まった後でも計画をブラッシュアップする余地があるし、ブラッシュアップした方が良いということだ。

多数決で決まった後も対案と反対意見が必要な理由

多数決で選ばれた計画が100点満点でないのなら、どうしたら良いだろうか。

これも自由論などにすでにそれらしいことは書かれている。
多数決で選ばれた計画が100点満点ではないことを前提に、計画を実行しながら、同時に並行して改善案・対案や反対意見をぶつけ続け、計画をブラッシュアップしていくことが重要だ。

多数決とは、選ばれなかった他の案を完全に排除することではない。直近の方針を「とりあえず」決めるものだ。
そして選ばれなかった他の案は、選ばれた計画をブラッシュアップさせる手段としての役割がある。

会社で議論していても、異なる意見をぶつけることで案が洗練されていくことってあるでしょう。

しかし多様な意見は排除されやすい

多様な意見というのは、マジョリティとは異なる意見、ということだ。
短期視点で考えたら、多様な意見はない方が良い。みんなで意見を一致させて、全員で課題にぶつかっていった方が効率がいいからだ。課題に対して、多数決によって案Aが選ばれたのに、まだ案Bについて考えている人がいたら、リソースの無駄に思えるし、士気にも影響しそうだし、なんか気分も悪くなるものだろう。
多様な意見というのは、短期的には効率が悪いし、なんか気分も悪くなるので、排除したくなるし、排除することが正しいと思いがちなのだ。

多様な意見をシステムとして守る仕組みが必要

でも思い出して欲しいのは、マジョリティによって多数決で選ばれた案Aが絶対の正解であるとは誰も保証できない、ということだ。

ほとんどの人が、物事を中長期で、マクロ視点で考えたりしないし、できない。普通の人はそこまで頭が良くはないし、そこまで我慢強くないし、そこまで社会の課題について考える時間的余裕がないからだ。
課題に対して中長期でマクロ視点で考えることって、思考力のある人が集中して全力になって、やっとできることだと思う。
そしてそれができたとしても、100点満点の施策・計画を思いつける保証はない。正解かどうかですらの保証もない。
「多数決」は最高の手段ではない。民主的な課題改善システムに組み込まれた、システムを構成する一部分なのである。

それなのに、マジョリティとは異なる多様な意見は否定・排除されやすい。先ほど書いたように、多様な意見は短期的には効率が悪いし、なんか気分も悪くなるので、排除したくなるし、排除することが正しいと思われやすいのだ。

多様な意見を排除せずに守ることは、社会を改善する計画をブラッシュアップするのにとても重要なのだ。
しかし一方で、多様な意見は排除されやすい。そのためにも、多様な意見を守るシステムとしても「言論の自由」は重要なのだ。

文明社会では、相手の意に反する力の行使が正当化されるのは、ほかのひとびとに危害が及ぶのを防ぐためである場合に限られる。

『自由論』ジョン・スチュアート ミル(著), 斉藤悦則(翻訳)
  • 多数決で決められたことと違う意見だから、は意見を排除する理由にならない

  • 多くの人が腹が立つであろう意見だから、は意見を排除する理由にならない

のである。


終わりに

最後になるがまとめとして、憲法の12条を紹介したい。「言論の自由」「表現の自由」をはじめとする自由・権利について、どう理解し運用していくべきかを明確にしている条文だと思うからだ。
意識して守らなければならないし、濫用してはならないのだ。

この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

日本国憲法第12条

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