世の中を良くしようと行動してる人を批判したくなったら考えること
昨日の記事を書きながら、「そういえば以前にも、ネット民が特定の人に対してひたすら批判を投げ続ける場面があった」ことを思い出していた。
昨年(2022年)の9月に、元BuzzFeed編集長の古田大輔さんをはじめとするメンバーが、ファクトチェック団体を設立したときのことだ。
元朝日新聞、元BuzzFeedの者がするファクトチェックなんて信用できない、と、古田さんに対したくさんの、根拠があるのかないのか、まあないですよねという批判が寄せられたことがあった。
その時に書いた文をノートにも掲載してみる。
世の中を良くしようと行動してる人を批判したくなったら考えること。
「完璧な手段は現時点で見つかってない」が全ての前提であるべき
「フェイクニュースはなくなったほうがいいですよね?」って100人に聞いたら80億人がyesと答えるくらい、誰もが望んでいる(と思われる)もの。
でも実際にはなくなってない。つまり、現実的な手段で確実にフェイクニュースをなくす方法はまだ見つかっていない。
こういう時は、いろんな人がいろんなやり方で対策を実行し、少しずつ改善したり、(仮にうまくいかなくても)ノウハウを蓄積したりして、一歩ずつ前に進んでいくもの。
議論はあって然るべき。しかし「完璧な対策は現時点で見つかってない」とはつまり「確実な正解が見つかってない」なのだから、相手の行動を全肯定する根拠も全否定する根拠もない。それなのに、課題解決に向かおうとしている人の行為を否定するのってどういうことなんだろうと思う。
「完璧な手段は現時点で見つかってない」状態で、対策を否定したくなったら
否定したい気持ちが湧いたら、その気持ちを分類すると大体が
なんかムカつく
いいやり方だとは自分は思わないけど、でも成功したらその成功は否定しない(し、そのやり方を真似しちゃうぞー
いいやり方だと自分は思わないし、成功しても他のところで大きな課題・問題が発生するので、否定する
の3種類のどれかなことが多い。
「1,2」と「3」は明確に脳内で分けたい。行動を否定していいのは「3」の時だけだと思う。
「1,2」なら、行動を止めない方が、課題解決に近づく。
「なんかムカつく」「いいやり方だとは自分は思わない」は、それも正解かどうかはわからない。それなのに行動を止めようとしてはいけない。自分の気持ちをスッキリさせるのと、課題解決に近づけるのと、どっちが大事ですか?という話。
(否定ではなく)批判意見をぶつけたくなることはある
当事者に対し、外から批判意見をぶつけたことで改善につながるか、それとも分断につながるのかは
前提として持つべき知識を双方が持っている
相手に対して敬意を持っている(感情論にならない)
が重要。
今回の「双方が持つべき知識」はなんだっけ、は色々あると思うけど、一番は規約部分だと思う。規約が明確かつ守られるなら、誰がやろうが少なくとも変なことにならないから。(だからわざわざ古田さんは、規約を作って公開してることを繰り返しアピールしているのだろう)
議論にならない言い争いとか、陰謀論とかが発生するのって、「前提として双方が持つべき知識を持ってない」が原因なことが多いです。
さらに、意見をぶつけるときでも、全否定ではなく、yes,butでもなく、yes,andにしたいものですねえ。それが敬意の具体化だと思う。
結局「ゴールはなんなんでしたっけ」という話
ゴールは「他の大きな課題を生み出さない方法で」「現実的な方法で」「課題解決に近づくこと」な訳で、自分の気持ちをスッキリさせたいわけではないですよね?
「完璧な対策は現時点で見つかってない」ですよね?
を前提の議論になれば、改善につながると思う。
けど、古田さんにメンション飛ばして否定している投稿を読んでも、そうなってるとは思えない。
そうでないのなら、否定せず様子を見てたり、メンション飛ばさない形で呟いたりするのがいいのではないでしょうか。
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