駆け抜けろ、イロイロデカイ。


 額に輝く流星に、夜空のように大きな体。

 ××年××月××日。雨が降り注ぐ天皇賞(秋)。まだ幼かった俺は、父親に連れてこられた東京競馬場で、彼に出会った。


 その馬の名は、

イロイロデカイ


『一番人気、8番イロイロデカイ』

「一番人気って?」
「この競馬場にいる人の殆どが、あの馬を応援してるってことだ。父さんも応援してるよ」
「強いの?」
「うーん、最近はちょっと弱いかな」
「じゃあ、なんで応援してるの?」
「みんな、アイツに勝ってほしいのさ」

 父の言葉だけを聞くとヒーローのようだったが、正直、イロイロデカイはどちらかというと悪役のようだと思っていた。デッカいし、黒いし。

 狭そうにゲートの中に入るイロイロデカイを見ていると、ある異変が起こっていることに気がついた。無論俺だけではなく、周りも皆気がついてざわめきが広がっていた。

『どうしたのでしょう。イロイロデカイ以外、ゲートに入ろうとしません』


 ドン

             ドン

 ドン

 ドン!


 苛立たしげな蹄の音は、イロイロデカイから響いていた。まるで早く入れと急かすように、じろりと後ろを睨めつけている。

「……怖いのか、イロイロデカイが」

 そう、馬たちは怯えていたのだ。

 周りを見ず、ゴールだけを見るイロイロデカイの気迫に、勝利を渇望する、その貪欲さに、怯えていたのだ。


『少々アクシデントはありましたが、各馬ゲートインが完了しました』


 予感がした。


『ゲートが開きます。10番ハルカゼ良いスタートだ。一番人気イロイロデカイは最後尾から様子を伺っている』


 なにか、とんでもないことが起こる予感が。


 皆が皆、何かに追い立てられるように走っていた。おそらくは、己の身を食い破らんばかりの闘志に見を膨らませたイロイロデカイに。

「……おかしいな」
「一番最後だから?」
「いや、最後なのはいつもどおりなんだ。イロはあそこで体力を温存して、最後の直線で一気に上がってくるのが得意なんだ」
「じゃあ、何が変なの?」

「場所だよ」

 答えたのは父ではなく、俺の左隣にいた男性だった。マロ眉が特徴的な白い馬のぬいぐるみを抱いて、馬場を鋭い眼差しで見つめている。

「イロイロデカイはいつも、もっと内側を走るんだ。けど、今のイロイロデカイは外側を、最外を走っている。

 まるで、まるで………


マロマユインパクトのように……っ!」


 勝負は、第三コーナーへ差し掛かっていた。

『第三コーナーを曲がって第四コーナーへ。

 おおっと仕掛けた! イロイロデカイ! ここで仕掛けたぞぉ!』


 瞬間、


 空気が震えた。


 イロイロデカイの気迫に押され、普段よりハイペースだった競走馬たち。その中でも、イロイロデカイは普段通りだった。


 飛ぶように、跳ねるように、地面を蹴って前に出る。


「あそこは……」
「あそこは?」
「……あそこでね、イロイロデカイの親友が怪我をしたんだ。死んでしまった、マロマユインパクトが、怪我をした」


『第四コーナーを抜けて最後の直線へ入る! 先頭は未だ10番ハルカゼ! しかし8番イロイロデカイ追い上げる! マロマユインパクトの仇は討てるのか!?』


「……行け」


 隣の男性が、ぬいぐるみを掲げた。


「行け、駆け抜けろ、行ってくれイロイロデカイ!! マロの仇を取ってくれぇぇぇえ!!!」
「行け! 頑張れイローー! マロがついてる! マロがついてる!」
「呪いなんて絶ち切ってやれ! マロも一緒だ! マロも一緒に走ってるぞ!」
「マロ! マロ! 見てるかマロ! イロが行ってるぞ! マロが! マロがぁぁぁぁぁ!!!!」


 このときのことを、イロイロデカイが観客の歓声に背を押されたと称した記者がいた。


 けどイロイロデカイに、あの歓声が届いているとは思えなかった。


 きっとあの時のイロイロデカイが見ていたのは、隣にいるはずの────


『イロイロデカイ突き離す! イロイロデカイ! 凄まじい末脚! もう目視では何馬身差かわからない! イロイロデカイ! 頑張れイロイロデカイ! 栄光はもうすぐだ!


  イロイロデカイ! 今一着でゴールイン!!! 秋天二連覇の栄光を手にし見事親友の仇を討ちました! 七馬身差! 驚異の七馬身差です!


 “青鹿毛の巨人”! 今堂々の帰還! 有終の美を飾りましたぁ!!!』


 勝利を称える歓声の中、騎手を下ろしたイロイロデカイは、第三コーナー付近へと足を進める。そしてある地点に到達すると、黙祷するように頭を垂れた。


 釣られるように、客席を沈黙が支配する。


 突然、イロイロデカイが立ち上がった。空へと飛び上がるように、この姿を目に焼き付けろと言わんばかりに、その巨躯を見せつける。


 大きな大きな泣き声は、きっと天にも届いていた。

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