鉄塔の町 5

夜、一人で海まで出向いてみると、波打ち際に沢山の鳥の死骸が寝そべっていた。等間隔に点在し、見える範囲一直線にずっと続いているようだった。砂浜に下りて確認してみると死骸はカラスくらいの大きさで、白と黒のまだらな羽毛が海風でそよそよと揺れていた。オレンジ色のくちばしが異様に大きく突き出していて、小さな瞳はガラスのように光っていたが中心が濁って一切を映し出すことはない。腐敗が始っているのか、辺りには鼻に付くような微かな匂いが漂っている。鳥について詳しいわけではないので種類まではわからないが、あまり見たことの無い類だった。ぐるりと見渡すと点在する鳥の死骸は同じ種類の様である。

鳥の死骸。胸の高さまで持ち上げてみるとずっしりと重く、手が羽毛の中に沈み暖かい。毛に絡まった細かい砂がぱらぱらと地面に落ちていく。くちばしが重いのだろう、頭がだらしなく後ろに垂れ、黄色い足が腹の産毛から少し覗いていた。

砂浜はむせ返るほどの沈黙が充満していた。町を洗う無限の音が辺り一杯に響いていて、野良犬のような侘しさが私を襲う。目の高さまで持ち上げると重いくちばしが重力に逆らえずにぼとりと落ちて、根元から弾けた様にショウジョウバエが団子になって空へ飛び出して行く。動かない真っ黒な海と空は壁のように鈍く照り、虫を飲み込んでいく。この死骸は果たして宙に浮かぶのだろうか。くちばしの落ちた鳥をじっと見つめる。白と黒のまだらな羽毛がただ潮風に揺れるだけで、そんな気配は微塵もなかった。水平線に向かって放り投げてみると、やはり浮かび上がることは無く弧を描いて海に吸い込まれた。そりゃそうだよなあと口の中で呟いて何の気なしに後ろを振り返ると、真っ赤なワンピースを着たネリが退屈そうに立っていた。綺麗な青い瞳が暗闇の中でぼんやりと浮かび、野良犬を蔑むような視線を私に真っ直ぐぶつけてくる。先ほどからずっと足の裏をつたって襲ってくるわびしさは、皆が知っているはずなのに、この目の前の女は鉄塔だけで満たされた世界に身を置いているせいなのだろうか、野良犬の侘しさも馬鹿にしている様子でじっと、私を睨みつける。追い詰められているのは私の方よと嘆いて、ただ埋葬の日を待ち続ける金髪の女に、今日は会いたくなかった。

「なに、何か用なの」

口をついて出た言葉は低く重く地を這った。ネリは視線を外さないまま「しがい」と呟いた。

「死骸の出た夜は、鉄塔が海に行けって言うのよ。なんであんたがいるのよ、私と鉄塔の会話を聞いていたのね」

いやらしいおくびょうものめ、と吐き捨てるように言われ、この女の思い上がりぶりにほとほと腹が立つのだった。女の醜い嫉妬なんて、過度のアルコールでも二本の指でも、掻き消す事はできないのだから、性質が悪いのだ。「ああでも」口角をぷるぷると震わせ、息をひっひと噛みながらネリが笑う。

「あんたはサトウ君か。微かな記憶を頼りにして」

サトウ君。私の記憶を握りつぶして消えてしまったサトウ君。ネリを可愛いと言ったサトウ君。思わず視線を海へと投げ、腹が立つのを隠しながら「違う」とようやく答える。

「偶然来たらこれよ、なんなのこれは。鉄塔の仕業なの」

「鉄塔はこんな悪趣味なことはしないわよ馬鹿にしないで」

「……悪趣味ねえ」

波打ち際に等間隔で並べられた鳥の死骸は、呼び寄せる白い泡なんてどうでもいいようで、ただくちばしが重いから休んでいるだけだと言わんばかりだ。見渡す限り続く曲線の悪夢に、海で冷やされた風の間から腐りかけの匂いが覗いていて、これを悪趣味と言う奴がいるのなら、そいつは十五時のおやつも知らずに育ってきた様な骨の髄まで錆び付く女だろう。熟した太陽も全て吸い取られたみたいな月も、廻るだけ廻って干渉を知らないあいつもこいつも、全てぶん殴ってやりたいような気持ちに駆られて、なぜ今、こんな乱暴で無視出来ない気持ちを私が抱えなくちゃならないのかも分からず、ただ腹だけが立つばかりで、どうしようもないからタバコに火をつけた。ゆっくりゆっくり、煙を肺になじませる作業を繰り返すが、一度煮立った感情はなかなか弱まることをしらないようで、私の気も知らずに身体の中を乱暴に引っ掻いていく。「やらしい」ネリが言う。

「あの女に骨をしゃぶらせて、あんたは一人ここまで散歩ってわけね。あのやらしい女の娘はやっぱりやらしいんだわ」

「うるさい」

ネリは勝ち誇ったようにニヤリと笑い、鳥の死骸に近寄ってくちばしを掴み持ち上げた。予想通り根元から身体がずるりと落ちて、ショウジョウバエが団子になって空へ昇ってく。ネリは忌々しい物でも見るかのように視線だけでそれを追うと、手の中に残った異様に大きなオレンジ色のくちばしを凝視していた。灰色の砂浜の中に白黒の羽毛が埋もれていて、瞳だけがぎらりとこちらを見ていた。

タバコはとっくのとうに根元まで燃えて火種は無くなってしまった。出る煙ももはや無く、行き場のない感情も水差しをされたように落ち着いていく。

ネリは手の中に収まるくちばしを嬉しそうに撫でつけている。こんな女と居たら馬鹿になるだけなので、死骸の点と点を結ぶように砂浜をひたすらに歩いていく。水平線に浮かぶ町の灯りはゆらゆら揺れていて、例えば渋谷の円山町、例えば新宿のアルタ前、それら東京の上澄みを固めた泥団子のカスみたいな小さな町の小さな灯りは、ちっぽけで阿呆らしい。この町を出ていきたいと十年前からずっと願っているのに、そうさせないのは母が私を縛り付け、父が私を呪うからだ。

呪縛。

これほどぴったりの言葉、どこを探しても落ちていないだろう。振り返れば丘の上で鉄塔が私を見下ろして、その通りだと言わんばかりに電線を震わせている。母は私の鬼だ。父は私の偶像だ。

地面から延びる無数の手に足首を捕まれて何処にも行くことが出来ない私を、サトウ君なら笑ってくれるのに。乱暴で無視の出来ない感情がまた、ゆっくりと腹の底でぐつぐつ煮立っていくので、仕方がないから側にあった白黒の羽毛を蹴飛ばしてやった。死んでいるはずなのに「ぐえぇ」という嫌な声が聞こえた気がした。視界がぐらぐら歪んで、これはきっと私の胸に棲む母の仕業だと思うことにした。

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