鉄塔の町 12
サトウ君。私の大好きなサトウ君。彼が帰ってきた。
十五時のおやつにと、空っぽの母の為にコーヒーを煎れコンビニで買ってきたケーキをリビングで食べている時だった。季節はいよいよ冬を迎えようとしていて、空は薄い雲がかかって太陽の光をやんわりと遮断していた。リビングには不透明な光が時間を遅らせるようにゆっくりと差し込んでいて、脳味噌を気持ちよく蝕んでゆく。何も変わらない日常を浪費し、ぼさぼさの髪の毛の母と過ごすだけの毎日を送っている私は、今日も変わらず過ぎていくのだと理由のない確信を心の底で抱いて、コーヒーをすすっていた。
ケーキを半分ほど食べ終えたときにインターホンが鳴った。我が家に訪ねてくる人など宅配便だとか書留だとか、そういったものしかないので、取り立てて何も考えずにドアをあけると、ひょろりとした体の男がたっていた。短い髪の毛はくせっ毛のために四方にはねて、眉毛で切りそろえられた前髪がうえを向いている。細く小さな瞳がまっすぐ私を捉えて、微かなタバコの残り香が鼻腔ににつく。細身のブルージーンズの足下は茶色のワークブーツ。そこには変わらないサトウ君が立っていた。太陽の光でバカになった私の頭ではこの状況をうまく処理できず、なにも言えないままサトウ君を見つめていると、大きな口をあけてケラケラ笑われた。
「どうだい、何か変化はあった? ちょっとおじゃまするよ」
私の返事も聞かぬまま乱暴に靴をぬぎ、勝手知ったる様にリビングに向かう彼の後ろをあわててついていく。コーヒーをすする母に「おじゃまします」と、やはり笑いながら声をかけ(なにかの通過儀礼のような)母の向かいに腰をかけた。
「君のお母さんはお変わりないようで」
黒いリュックを床におき、ぼさぼさの頭をかき混ぜた。未だに何も言えない私をみて、面白そうに笑うと「座りなよ」と自分の横を指さした。ゆっくりと隣に腰をおろすと、しげしげと私の顔を見回して「やはり君はなにも変わっていないのかな」と言う。
「……なんで、戻ってきたの」
「僕は君に、またね、って言ったんだよ。一生のお別れをした訳じゃない。戻ってこようが戻ってこまいが僕の勝手だよ」
あぁでも、とニヤニヤ笑いながら付け足した。
「君の中の僕の記憶は、僕が捻り潰したんだったね」
なにか愛しいものでも見るように、彼の瞳が綺麗に歪んだ。体いっぱいに詰め込んだ悪意と卑怯が、私の全身に注がれた。彼は変わらず私の前で笑っていて、面白いものでも見るように私を笑う。
「君は実に愉快だね爽快だね素晴らしいね。どうだい、僕のいない間、君はこの町にイライラしていたかい。変わらずイライラしていたかい。不幸自慢をしていたかい。文句だけは立派に言うくせに自分から何もしない君でいるのかい。君はあの時からなにか成長したのかい」
私の飲みかけのコーヒーを手に取るとずずず、と音をたてて飲んだ。ぬるいなあと一言文句をいって、細い瞳でもう一度私を捉えてにやりと笑い、床においたリュックからハイライトを取り出すと火をつけた。
「君は僕がいない間なにをしていたのかな。その様子じゃぁ何もしなかったんだろう、なぜなにもしないのかな。変わる気も無いくせに文句だけは立派だなんて、いやな女だな。どうせ微かな記憶を頼りにして、空っぽのお母さんを言い訳にして、父で同情を買おうとして、何も知らないくせに鉄塔とネリを悪者にしようとして、君ほど嫌なヒロインはいないんじゃないかな。まあまず君は、ヒロインの条件を満たしていないけどね」
なにが面白かったのか、サトウ君は大きな口を大きくあけ、大きな声で笑った。口から煙を吐き出して、飲みかけのコーヒーに灰を落とした。十五時の我が家は十五時のまま動かない。掌はじんわりと汗をかいて、意識が遠くに引っ張られてゆく。サトウ君は私の意識の変化を敏感に感じ取り(その細い瞳で、ぼさぼさの髪の毛で、大きな口で)、唐突に私の頬をはたいた。痛みがじんじんと伝わって、また意識はこちらに戻ってくる。笑ったままもう一度私の頬をはたき、吸いかけのタバコをコーヒーの中に放り込んだ。
「君は逃げ足だけは早いんだ。そんなんだと、バカになるよ」
男性特有のごつごつと骨ばった大きな手が私の頭を撫でた。ペットでも見るかのように私を見つめ、愛しそうに笑う(私の勘違いかもしれない)。
「バカにはなりたくないだろう」
ゆっくりと頷いてみせると、サトウ君も大きく頷いて「その調子だよ」ともう一度私の頭を撫でた。サトウ君の触れる部分だけが熱を持って、彼といるこの久々の時間に唇がうれしそうにひくついて、笑った。
「君はもう十分文句を言っただろう。なんで動こうとしないんだい」
私はゆっくりと瞳を閉じて、この時間を咀嚼し燕下した。東京の隅にまで探しに行ったサトウ君の香りが、現実的な実感を伴って私の鼻腔をさしている。熱を伴って目の前にいる。彼と最後に話しをしたのはいつのことだったか、その記憶さえ握り潰されていてもはやわからない。
「僕はこれから鉄塔に会いに行くよ。君もいくよね」
瞳を閉じたまま、私は頷いた。他人任せの私の物語は、父の物語のように暴発してくれるのだろうか。
もうちょっと頑張れよ、とか しょうがねえ応援してやる、とか どれもこれも励みになります、がんばるぞー。