邦人作曲家シリーズvol.14:芦川聡(text:小沼純一)
邦人作曲家シリーズとは
タワーレコードが日本に上陸したのが、1979年。米国タワーレコードの一事業部として輸入盤を取り扱っていました。アメリカ本国には、「PULSE!」というフリーマガジンがあり、日本にも「bounce」がありました。日本のタワーレコードがクラシック商品を取り扱うことになり、生れたのが「musée」です。1996年のことです。すでに店頭には、現代音楽、実験音楽、エレクトロ、アンビエント、サウンドアートなどなどの作家の作品を集めて陳列するコーナーがありました。CDや本は、作家名順に並べられていましたが、必ず、誰かにとって??となる名前がありました。そこで「musée」の誌上に、作家を紹介して、あらゆる名前の秘密を解き明かせずとも、どのような音楽を作っているアーティストの作品、CDが並べられているのか、その手がかりとなる連載を始めました。それがきっかけで始まった「邦人作曲家シリーズ」です。いまではすっかりその制作スタイルや、制作の現場が変わったアーティストもいらっしゃいますが、あらためてこの日本における音楽制作のパースペクティブを再考するためにも、アーカイブを公開することに一定の意味があると考えました。ご理解、ご協力いただきましたすべてのアーティストに感謝いたします。
*1997年5月(musée vol.7)~2001年7月(musée vol.32)に掲載されたものを転載
芦川聡
TEXT/小沼純一
*musée 1999年9月20日(#21)掲載
いまからおよそ十五年ほど前、三十になるかならぬかという一人の男が、「“音をデザイン”したり、映像や空間のプランニング、プロデュースをする」会社を設立した。社名は「サウンド・プロセス・デザイン」。「環境音楽」の語が無自覚に、なんとなくムードとしてどこでも流通してしまったり、「環境音楽」とはこんなものだと十人が十人勝手にイメージし、しかも実体などはあるようでなく、ないようであるか、わからない現在にはるかに先駆けてのことだった。その名は芦川聡、作曲家である。しかし彼はこの会社を起こし、二枚のLPレコードをリリースした直後、交通事故で亡くなってしまう。
芦川聡が残した文章は、その突然の死の三年後、知人達の手によってまとめられ、『波の記譜法〜環境音楽とはなにか』として発行され、「環境音楽」についての諸々のアプローチも世間に伝わるようになった。ひとによってはライヒの『18人の奏者のための音楽』のライナーノートで、彼の文章に触れたひともいるだろう。だが、いつしか日本がバブル期を迎え、英語から借りた「アンビエント」なる語が流通し、ファッション化するなかで、また、LPからCDへとメディアが変化するなかで、先の本はずっと静かで隠れたバイブルではありつづけながらも、芦川聡の名は、少しずつ、ひとの記憶から遠ざかってしまったかのようだった。少なくとも、つねにひとの口から発される名ではなくなっているかのようだった。
LPでしか手にすることのなかった芦川聡の『スティル・ウェイ』が、吉村弘の『ナイン・ポスト・カード』とともに、CD化されたのはこの夏である。レーベルは「CRESCENT(クレセント)」、先の「サウンド・プロセス・デザイン」からのものだ。
この音楽を聴くのは何年ぶりだろう。そうだ、この音だ、と思うのは確かなのだが、しかし、かつて以上に新鮮なのである。ヴァイブ、ハープ、ピアノ、そしてフルート/サックスという組み合わせを少しずつ変えながら、ひとつの音が立ちあがっては、ふっと減衰し、休止と交わりながら織りあげてゆく、柔らかい質感。ひびいてゆく音の糸は、ゆっくりした反復音型をつくりながら、ホケットのように、一度ずつ、色合いが異なって、あらわれる。
じつのところ、芦川聡の名は、ぼくにとって、十代半ばから二十代はじめにかけて、私的な感慨ぬきで語れぬものでもある。ここでいささか、個人的な回想を記すことを許していただければと思う。
作曲をやりたいとひたすらに望み、それらしき真似事をしたり、情報を得たいと躍起になっていた時期、一柳慧さんが、無学な青年に教えてくれたのは、西武美術館とともに、そこで美術書と現代音楽系のレコードを集めた店がオープンするから、そこに行ってみるといいよ、とのことだった。それが「アール・ヴィヴァン」で、ぼくはそこで何年間か、あたかもひとつの学校のように、積み重なっている画集やながれている音楽から、諸々の知識を得ることになる。
音楽コーナーの初代の担当は、現在広島大学で教鞭をとられている音楽学者の若尾裕さんの奥方、若尾久美さんだった(つい最近、彼女がジョエル・レアンドルとジョン・ケージ作品で共演しているCDを店頭でみつけ、とても懐かしかった)。久美さんの後、たしか二人か三人担当が交代して、ぼくは芦川さんに顔を合わせた。
まだまだヨーロッパ前衛に目がむいていることの多かったぼくに、ケージやライリー、カーデューを教えてくれたのはほかならぬ彼だったし、当時としてはおもいっきり高かったDG盤のライヒ作品集を、小遣いが貯まるまで「お取りおき」にしてくれたのも彼だった。しかし、音楽の話はするものの、芦川さんは自分の作曲についてはなかなか口が重かった。ごくさりげなく、これ、良かったら来てよとチラシをくれたのが、作曲をやっていることを知った最初で、そこには彼の名とともに、店で見掛けることもあった藤枝守さんの名もあった。
何年か経ち、ぼくは作曲を断念し、「アール・ヴィヴァン」に足をむけることもめっきり減った。何カ月かに一度、愛想うかがいのように、音楽コーナーに顔をだすのがせいぜいだった。そんな或る日、たしか、芦川さんが短からぬアメリカ旅行——いまに較べると、ずっと海外に行くことは珍しいことだった——から戻ってきて、あまり時が経っていない頃だったと思う。最近、面白いと思うのは何?と尋ねたら、いつもの穏やかで、ぼくにはなんとなくシニックにみえなくもない様子で、彼は、そう、三味線だな、と答えたのだ。当時、まだまだ西洋的なものにどっぷり漬かっていたぼくは耳を疑った。え、ほんと?からかってるんじゃないの? 芦川さんはまったく表情を変えずに、ほんとだよ、と言う。そして、ぼくがその言わんとすることがわかるのは、まさに『スティル・ウェイ』を手にしてからであり、実感としてつよくわかるようになるのは、十年ほども必要だったのだ。
『スティル・ウェイ』を久しぶりに聴きながら、ふと、疑念がよぎる——こんなふうに「ヘッドフォン・ステレオ」で、「聴いて」しまっていいものだろうか、と。メッセージの多い音楽を嫌い、聴き手の想像力を刺激する音楽を求めた芦川聡の作品は、なんらかの空間のなかで、聴覚的なもの以外のノイズと共存しながら、触れられるべきではなかったか。しかし、と、さらに思う。この『スティル・ウェイ』が「環境音楽」として「使われる」というのではなく、音楽と聴き手の新しい関係をつくるための場でありメディアであるとしたら、どうか。それはヘッドフォン・ステレオでじっくりと「聴き」ながら、同時に、いつのまにかそこから意識がよそに飛んでまた戻ってくる、そんなことを繰りかえすことで、「聴き/聞き手」の耳を、心身を鍛えるものではないか。いや、鍛えるなどという粗雑な語彙はやめておこう。いつのまにか「慣れる」とか「変われる」とか、そんなところから、捉えてみればいいのではないか。
おそらく、『スティル・ウェイ』のCD化は、ただLPからCDにメディアが変わったという以上の意味をもっている。それは、LPとCDを聴く、まさに「聴き手」のいる「環境」のちがいにほかなるまい。そしてぼくはこんなふうに言い換える、「環境音楽」ではなく、「環境=音楽」なのだ、と。
■プロフィール
アール・ヴィヴァンを経て82年にサウンド・プロセス(83年にサウンド・プロセス・デザインに発展)を設立、自身や吉村弘、広瀬豊などのアルバムを制作したが、83年に交通事故で急逝。
『波の記譜法〜環境音楽とはなにか』
時事通信社
『都市の音』『街のなかでみつけた音』
吉村弘
春秋社
スティル・ウェイ
芦川聡
[CRESCENT CRESCD-006]
ナイン・ポスト・カード
吉村弘
[CRESCENT CRESCD-007]