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ヒゲダンの「Pretender」の歌詞をマジメに解釈してみた

本稿は、4つの記事からなる『「Pretender」が教えてくれる』シリーズの最後である歌詞解釈編だ。わからない箇所があれば以前の記事を読んでいただきたい。

第6章:活動家 ―Official髭男dism―

「髭男」は活動家

ようやく「髭男」の話に戻ってくることができた。無謀にもここまで話が広がってしまったが、私は「髭男」によって気づきを得て、学びを社会に伝えるべく突き動かされたと言っても過言ではない。

ここまでで多くの「〇〇主義」という言葉が登場した。これらを英語にするとこうなる。
資本主義 - “Capitalism”
自由主義 - “Liberalism”
全体主義 - “Totalitarianism”
菜食主義 - “Vegetarianism”

ここでもう一度「Official髭男dism」という文字をよく見ていただきたい。もはや当たり前になりすぎて忘れてしまっていたが、Official髭男d「ism」なのである。Official髭男「主義」だ。これはまさに、歌で社会に議論を促し、世界を変えようとする思想の表れ、としか言いようがない。

そして「髭男」は『Pretender』を通じてわたしに社会への問いを投げかけた。「髭男」はもはやアーティストの枠を超えた「思想家」であり「活動家」なのである。

そうであるが故に、私には世の中で幅をきかせる『Pretender』の誤った解釈を正す義務がある。序論でも述べたように、この曲は男女の薄っぺらい恋愛についての歌ではない。『Pretender』は人間が現代社会で労働とどう向き合うべきかについて歌った曲なのである。それでは見ていこう。

ブルシット・ジョブと日本の労働社会(Aメロ~キーボードソロ前まで)

まずAメロだ。

君とのラブストーリー
それは予想通り
いざ始まればひとり芝居だ
ずっとそばにいたって
結局ただの観客だ

当然ここでの「君」とは、主人公が就いている労働のことを指す。

「転職が当たり前となった現代では、期待を胸に少しでも条件のよい仕事を探すが、いざ働いてみると数ヶ月で社内の政治やくだらない事情に失望する。我慢して続けているうちに、必要のない仕事をさも重要であるかのように『芝居』をしなければいけなくなる。熱心に見えるかもしれないが、もうすでに『観客』のように他人事である。」

さらに現状の説明が続く。

感情のないアイムソーリー
それはいつも通り
慣れてしまえば悪くはないけど
君とのロマンスは人生柄
続きはしないことを知った

「理不尽に怒られてもテキトーに謝っておけば給料減らされたり、クビになったりすることはない。慣れれば何の問題もないのだろうけど、小さい嘘をつき続けることは私にはできない。」

主人公が置かれた状況がより詳細になったところで、続くBメロではシンコペーションの変化とともに、Aメロで展開された現実とは対照的な、仕事に対する理想の向き合い方についての要素分解が行われている。

もっと違う設定で もっと違う関係で
出会える世界線 選べたらよかった
もっと違う性格で もっと違う価値観で
愛を伝えられたらいいな そう願っても無駄だから

「今とは異なる職種で、異なる働き方ができたら悩まずに済んだのかもしれない。逆に今の仕事のままでも自分が違っていたら、『やり甲斐があって楽しい』などと言えたのかもしれない。」

Bメロで理想を思い描くことにより、サビで提示される主人公の抱く葛藤の現実味がより一層際立つ。

グッバイ
君の運命のヒトは僕じゃない
辛いけど否めない でも離れ難いのさ
その髪に触れただけで 痛いや いやでも
甘いな いやいや

グッバイ
それじゃ僕にとって君は何?
答えは分からない 分かりたくもないのさ
たったひとつ確かなことがあるとするのならば
「君は綺麗だ」

「グッバイ」で仕事との決別を告げようとするものの、辞めることで収入が一切なくなることに不安を覚え、主人公は決意が揺らいでいる。決められない理由は収入だけではない。触れたら「痛い」が、一方で「甘」くもある「その髪」、つまり〈労働を介して得られる経験〉も決意が揺らぐ要因となっている。

そして「君」における「綺麗」とは、労働における最もわかりやすい魅力、〈給料支払いの良さ〉と推論するのが妥当だろう。労働と自身の関係性が曖昧になったことで苛立ちを感じるも、少なくとも「君は綺麗だ」で現在の労働が安定的な収入源であることを確認して1サビが終わる。

ここまでで、ブルシット・ジョブで登場したキーワードである「重要であるかのようなふりをしなければいけないこと」「金払いの良さ」が描かれている。

誰かが偉そうに
語る恋愛の論理
何ひとつとしてピンとこなくて
飛行機の窓から見下ろした
知らない街の夜景みたいだ

2番のAメロではブルシット・ジョブに就く主人公の心情が、「恋愛の論理」を媒介に描かれる。

「労働がどうでもいい自分には、本屋に並ぶ『仕事ができる人の思考法』のようなビジネス書に書いてあることなど何ひとつピンとこない。もちろん仕事が楽しい人にとっては役に立つのかもしれないが、そうした世界と自分は無縁である。」

もっと違う設定で もっと違う関係で
出会える世界線 選べたらよかった
いたって純な心で 叶った恋を抱きしめて
「好きだ」とか無責任に言えたらいいな
そう願っても虚しいのさ

1B同様、2番のBメロでも理想が描かれる。私は大昔のYouTuberの広告を思い出してしまった。

「『好き』を仕事にすることができた人の体験談みたいに自分も無責任に成功体験を語ってみたかった」

グッバイ
繋いだ手の向こうにエンドライン
引き伸ばすたびに 疼きだす未来には
君はいない その事実に Cry...
そりゃ苦しいよな

主人公は惰性で現在の労働に従事しており、常に転職という「エンドライン」を見据えている。この先ずっとこの労働を続けることで精神に異常をきたす可能性があるが、だからと言って「綺麗」な「君」から離れることは収入が断たれることを意味する。

上村氏の調査結果にもあったように、現代の日本の労働者の約3割は自分の仕事に面白さもやり甲斐も感じていない。それにも関わらず労働を続けなければならず、「その事実に Cry…」した主人公は日本の労働社会の不健康さに気づいてしまい、「そりゃ苦しいよな」と気持ちを吐露する。

ここまでで、グレーバーの『ブルシット・ジョブ』の内容と日本の労働社会についての内容が見事なまでに要約されている。なるほど『Pretender』とは、無意味ことを意味があるかのようにしなければいけないブルシット・ジョブにつく人のことを指しており、クソどうでもいいジョブを辞めたくても辞められない日本の労働社会の不健康さを端的に指摘したうえで、聴く人に「苦しいよな」と寄り添う曲なのだ。

作曲者の藤原氏は間違いなく翻訳前のグレーバーのブルシット・ジョブ(2018)を読んでおり、上村氏の研究(2021)を踏まえたうえでこの曲は作られていると断言してよい。

しかし最後の一節、「ロマンスの定め」によってこの曲は異なる様子を呈し始める。

自由と実存(キーボードソロ~ラスサビまで)

この曲において最も重要な主張は、最後のセクションにある「ロマンスの定め」に込められている。

グッバイ
君の運命のヒトは僕じゃない
辛いけど否めない でも離れ難いのさ
その髪に触れただけで
痛いや いやでも 甘いな いやいや

グッバイ
それじゃ僕にとって君は何?
答えは分からない 分かりたくもないのさ
たったひとつ確かなことがあるとするのならば
「君は綺麗だ」

それもこれもロマンスの定めなら 悪くないよな
永遠も約束もないけれど
「とても綺麗だ」

この曲においてもっとも重要な一節である「ロマンスの定め」とはなにか。それはマックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』における〈職業召命観〉だ。

職業召命観とは、キリスト教における予定説に関連する概念であり、ヴェーバーによるとこの職業召命観が近代資本主義の発展に寄与する一つの大きな要因となった。職業召命観を理解するために、まずプロテスタントにおける〈予定説〉について説明したい。

予定説とは、「魂が天国に行くか地獄に行くかは、神が人間を創ったときに既に決定されており、生前の行いは最後の審判の結果に影響しない」とする説である。宗教と聞くとイメージしがちな「徳を積めば天国に行ける」という考え方とは反対である。

予定説はカルヴァン派の教義の中で重要とされるもので、カルヴァン派(ルター派)は、当時買えば魂が救われるとされる免罪符を発行していたカトリック教会を、キリスト教を堕落させているとして批判した。のちにカルヴァン派(ルター派)はプロテスタントと呼ばれるようになる。

プロテスタントの教義の中心にある「アンチ免罪符主義(信仰義認: 魂は信仰によってのみ救われる)」と予定説には一見して矛盾があるように思われるかもしれない。「もうすでに天国に行くかどうかは決定されているので信仰しているかは関係なく、信仰によって救われるというのは矛盾している」と。

ここでは思考のコペルニクス的転回が必要になる。それはつまり「救済が確定しているからこそ、信仰することができている」ということだ。「救済が確定しているのであればもう律儀に信仰しなくていいのでは?」と思うかもしれないが(わたしも思ったが)、神に選ばれた者としての誇りや、選ばれたことへの感謝の気持ちを表現するために信仰を続けるのだと解釈しておこう。つまり「わたし(教徒)が今信仰することができているのは、神がわたしをお創りになったときにわたし自身の救済が確定しているからであり、その感謝を信仰という形で神に感謝しなければいけない」ということだ。

〈職業召命観〉の説明に戻る。創造の時点で神によって救済が確定しているということは、就いている仕事も同様に神の思し召しであるということになる。神から任された仕事に取り組むことは責任を果たすことであり、神への感謝の表現であり、つまり信仰である。信仰の表現としての「労働」、これが職業召命観であり、近代資本主義発展の要因となった。

話を「ロマンスの定め」に戻す。これに続く「永遠も約束もないけれど」は、職業召命観がヴェーバーが執筆した1905年の文脈のまま現代日本で語られるべきではないという留保だ。当時において無意味で無価値な労働に対して高い給与が発生するという異様な事態は想定されていない。誰もがそれなりに社会的責任を認識しながら労働に従事していたはずだ。少なくとも自分の労働がだれのためになっているかは今ほど複雑にはなっていなかっただろう。

Aメロ・Bメロ・サビとみてきたように、不健康な現代日本の労働社会において「永遠」なる神から「約束」された労働など存在しない。転職することがかつてないほど一般的になっているのをみても、ある1つの職を「召命だと思って全うしなさい」という教えはあまりに時代に遡行した考え方だ。前章でみたように週40時間のうち20時間以上の労働は適切に被雇用者に還元されていないという点でもそうだ。

では〈職業召命観〉を現代においてどのように解釈すべきか。オーストリアの心理学者であるV・E・フランクルは、自身のナチスの強制収容所に収監された経験をつづった『夜と霧』の中で、生きる意味についてこう述べている。

わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすらに、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ

V・E・フランクル 『夜と霧』

わたしたちは期待する側ではなく、期待される側である。言い換えれば、生きる意味を問うことの中に生きる意味はなく、生きることの中に生きる意味がある。つまりこれはアーレントの「活動」であり、尾高の「職分」なのである。社会において自己実現し、責任を果たすことが「定め」なのだ。

そうであるならば、キーボードソロが主人公にとって社会的責任について考えるきっかけを表現しており、ラスサビにおける「君」とは、1番と打って変わって、ブルシット・ジョブに甘んじて社会的責任から逃避していた〈主人公自身〉と解釈することはできないだろうか。

主人公はそれまで、給料がいいという理由だけで「Pretender」になっていた。そこには社会的責任も、自己実現も、生きる意味も存在しない。そして甘んじていた自分と「グッバイ」することは「辛」く苦しい。まさに『自由論』において誠実な態度を保ち続けるのが苦しく困難であるのと同じである。しかしこのまま「Pretender」であり続けることは社会の不健康さを肯定するものであり、「グッバイ」しなければいけないことは「辛いけど否めない」のだ。

それでも「でも離れがたい」とは、リベラリズムの失敗でも述べた、人間の能力には限界があるということだ。これを哲学の用語で〈有限性〉と呼ぶが、この有限性には「人間だから仕方ないよ」という「甘さ」がある。しかし主人公はそれでもその「甘さ」と「グッバイ」しなければいけないことを自覚している。

続く「それじゃ僕にとって君は何?答えは分からない 分かりたくもないのさ」は、人間の有限性(現実)とリベラリズムの無限性(理想)の狭間に位置する存在としての不安を表現している。

実存哲学の祖と呼ばれるキルケゴールは理想と現実の埋めることのできない差に絶望することを「死にいたる病」と呼んだ。キルケゴールにおける理想とは「神(の無限性)」のことを指し、現実とは「人間(の有限性)」のことを指すが、この神と人間の関係は、現代におけるリベラリズムと人間の関係と酷似している。つまりここでは実存の問題について取り上げられていると解釈できる。緩い説明だが、実存とは「人間がどのように生きるべきかを問うこと」だと思ってくれれば大丈夫だ。

この実存の問いについて、主人公は「確かなこと」として「君」つまりブルシット・ジョブに甘んじていた自分は「綺麗」だと肯定している。一見逆説的だが、これは自身の有限性(現実)を認めなければ無限性(理想)を認識することすらできないという反証可能性の話でもあり、ヴィーガニズムとフェミニズムでも述べたように、理想は理想のままではなく、有限性の文脈において再構築することによって初めて意味を成すということでもある。つまり自分ができないことを認識しなければ、できるようになるための努力すらできないのと同じであり、人間社会を知らなければ理想をどのように現実に落とし込むべきかわからないままなのである。

自由な世界に向けて

このように現代の労働社会の不健康さを明らかにし、有限性と無限性の葛藤の中でBI導入のための「活動」を行い、その結果ディーセントワークが達成され、健康になった社会では、人々の仕事に自己実現と社会的責任という〈生命〉が再び吹き込まれる。こうして自由になった社会がわたしたちに期待することを〈活動〉によって責任を果たす世界は「悪くない」どころか「とても綺麗」であると結論付けている。最後の一文の「とても綺麗だ」が「君は綺麗だ」でないのは、ここでの主語が〈自由な世界〉だからだ。

以上が私の「Pretender」の解釈だ。各項目の指摘の的確さからも、これはもはや曲というよりも論文というべきだ。人間についての深い理解を持ちながら、無限性への敬意を表しており、それでいて曲を聴いた人々を「活動」へと促し、この曲自体が社会的責任を果たそうとしているという、決して一回聴いただけでは味わいきれないほどの深みがある。

少なくともOfficial髭男dismが社会的な示唆を持つバンドであることは理解いただけただろう。ぜひわたしの解釈を読みながら「Pretender」を聴いてみてほしい。まったく違った曲に聴こえるはずだ。

今回は取り上げなかったが、実はもう1曲、明らかに労働について歌った曲がある。それは「コーヒーとシロップ」という曲だ。今回は掘り下げないが気になる方はそちらもチェックしてみてはいかがだろうか。

結びと限界

結び

最初にここまで読んでいただいたことに感謝したい。もしかすると情報量が多すぎたかもしれない。しかし「Pretenderは労働の歌である」という仮説の設定以外は、なるべく誠実な態度で記述したつもりだ。なので実存に関しては大学のレポートくらいなら参考になるかもしれない(引用はしないでください)。何より学問って面白いなと思ってもらえたり、政治について議論するきっかけになってくれればこの上ない喜びである。そうでなくとも今後使えなさそうな知識を持ち帰って遊んでくれるだけでも嬉しく思う。

ちなみに「Pretender」はリリースが2019年なので、2021年の上村氏の論文も、英語版でなければ『ブルシット・ジョブ』(2020)もまだ出版されていないため、これらを読んでから作曲したという記述は嘘になる。しかしこの曲が労働について書かれていないということの証明にはならない。なのでご自身で聴いて自由に解釈してほしい。そして「こうとも聴ける」という解釈があればぜひコメントで展開していただきたい。

最後に本稿のリミテーションを記述して終わりたい。

リミテーション

変化への反発
まず、BIが導入されるとき、その導入の始めはやはり社会のあらゆるところ(特に高収入層)に負荷がかかり、強い反発があるだろう。これは免れられない。歪んでいるものを矯正しようとすると普段負荷がかかっていなかった場所にかかるようになるのは何においても言えることだ。

そしてBI導入は長期的な政策になるはずだ。なので若い世代の選挙権の拡大、具体的には選挙権の年齢制限の撤廃といった改革がなければ進みは遅いだろう。その政策の実現目処が10年後、20年後と長期化すれば実際に導入する頃にはもう関係ないと思う有権者が増えてしまう。

大阪府知事が5月に、0歳にも選挙権があったほうが良いというような旨の発言をしている。結局大人が代理で投票するからあまり変わらないという指摘がされているが、この政策の意図は子育てをする若い世代の家族が今よりも投票数という形で意思表示できるようにすべきだ、ということだろう。

有権者の年齢層が高い方に比重が偏った結果、政策は当然のように高い年齢層向けのものが多くなる。『自由論』に沿って考えれば、誠実な人は先が長くない自分よりも将来のある人のためも考えて投票するはずだが、長期的に将来を見据えた政策よりも目先の豊かさが強調された政策ばかりが取り沙汰されている。こういったポピュリズムもリベラリズムの失敗としてよく例に出される。

リベラリズムが失敗していることを踏まえると、大人が代理で投票することになったとしても、比較的自分の子どものことを考える傾向にあるはずの家族という単位に政治的発言力を強制的に持たせることは極めて自然である。もしくは現代版姥捨山として、一定の年齢に達したとき政治的影響力をなくすなどの対策が必要であることを意味する。姥捨山は個人的に賛成ではないので、選挙権の拡大が先決だろうと思っている。

変化を起こすことは、それが改善でも改悪でも、必ず批判を生む。人はああ言えばこう言い、こう言えばああ言う。風物詩のようなものだと思って自由へ突き進むしかない。

人間の能力の見積もりを途方もなく間違えている可能性
次はBI導入されたとしてその効果の過度な楽観視だ。BIの効果については井上氏の著作を参考にしているが、それでも現実はもっと厳しいかもしれない。ホームレスを軟禁して生活保護を巻き上げる反社ビジネスを龍が如くで見たことがあるが、実際にあるかどうかは別としてBIの場合でも、BIの受給権利をビジネスに転用される可能性はあるかもしれない。

犯罪まがいのことでなくとも、労働意欲の低下について受給開始の時点では自粛期間のように市場規模が縮小し、しばらく経済が冷え込むかもしれない。そこから回復するまでの期間はやはり予測がつかない。

このように想定している人間像を下方修正しなければいけないかもしれない。

わたし自身の有限性
私が人生になにを期待されているのかについて考えたとき、やはり書いて伝えることだと思った。しかし無駄な知識を楽しんでいることがわたし個人の本質であるようにも思える。相互補完的なことをわざわざ二分化させ対立させるのは人間の悪い癖だ。

リベラリズムに従うならばすべてを徹底的に調べ上げなければいけない。しかしそれはいつまで経っても本稿のリリースができないことを意味する。また無限性と有限性の話になるが、無限性について表現することは、必然的に誤りを含んでしまう。なぜなら人間が表現するとは有限性の文脈で表現することだからだ。これを恐れてしまうと、知識を共有することも、知を積み重ねることも、歴史も、未来も無くなってしまう。

これは単なる言い訳だが、確かでない情報も反証可能性の観点から批判的思考に不可欠である。ネットの情報に関してフェイクニュースだの容易に批判されるが、本質は発信する側でなく、情報を受容する側だろう。フェイクニュースを規制することよりも、読み手側がその情報が誠実な態度から発せられているかを吟味し、そして自身が感情的に情報を選び取っていないか客観視できるようになることが本質的である。発信から誤りを完全に取り除くことは不可能だからだ。建設的な議論に発展するかは読み手次第ということだ。

この点において比較的喜ばしいことは、人工知能など技術の発展により考証する機会は増えそうだということだ。人間の有限性が拡張されれば知の成長は加速するだろう。成長が本当に善であるかはわからないが。

参考文献

-- 酒井 隆史(2021)『ブルシット・ジョブの謎 クソどうでもいい仕事はなぜ増えるか 』講談社現代新書.
-- マックス ヴェーバー(1904)『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波文庫
-- ヴィクトール・E・フランクル(2002)『夜と霧』みすず書房
-- セーレン・キルケゴール(1996)『死にいたる病』ちくま学芸文庫

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