きょう、ふと思ったこと。 ひとりでご飯たべてるひと、多いんちゃうかな。 働いてるとこの、就労継続支援の作業所に通ってくる人のなかでも、 朝も昼も夜も、ひとりで食べてるひと、いるんちゃうかな。 前は、コロナの前は、それでもお昼はみんな一緒だった。 いまは、午前か午後だけだから、お昼を食べるってこともなくなった。 あの、 もしかして、 みんなでおにぎりとお味噌汁作って食べたりとか出来るかな。 takedahrsによるPixabayからの画像
賞賛と承認はちがうよね って そういえばそうだ。 夫に指摘されて、改めて気づく。 賞賛、が、だれにでも「効く」わけではない。 たとえば、 「かわなみさんてすごいですね」 で、続くことばが、言われてもちっともささらん。はずしまくりやん。わかってないんやなー。そこ??みたいなときもある。 それは、受け取る側のパーソナリティにもよるらしいが。 はまっていない賞賛は、苦笑いにしかならないし、私自身、賞賛という行為を、本気のときしか、行わない。 むしろ、承認、のほうが
幼児教育の現場に触れてあらためて感じたことがあります。 それは、わたしの子どもたちが幼い頃、心をこめて関わってもらっていたんだ、ということ。 幼稚舎での日々。 息子ふたりは、同じ幼稚園でお世話になりました。 とても質素な建物だけれど、丁寧に手入れをされて、 おもちゃも、遊具も、古いけれども、 大切に扱えるように並べられて、それが毎日繰り返されていた・・ 子どもたちが、造形をするときは、 ひとりひとりが、自分のペースで、自分の思う通りに、存分に作れるように、
私は今、修士課程の1年です。同時に、 社会ではわずかばかりの賃金をもらい働く人でもあり、 来年度の学費を払うために、実家にこれまた少しばかり仕送りをするために、春休みには、就労時間を増やしています。 しかし、 わたしの人としての特性と、人生の流れの移り変わりにより、 どこの職場でも、最低賃金で、働いています。(非常勤・パート) よって、隙間の時間を埋めるように働いても、今もって、まったく貯金がない。 こんなことを書くのは、さて、いっちょ自分で何かやってみようじゃ
たいていのことは 待てばうまくいく
ああ、きっとわかってもらえてる、という感覚 それを、自分が提供したくて もしかしたらできるかもしれないと思うから、 「人の話を聴く」ことをしたい
いろいろ考えすぎて(そうも見えないんだけども) 正直に居ることが出来なくなってる(ような気がして) どう思われるか、どう映るか考えずに こんなことが好きで こういうふうに考えて こういうことやってる というのを記しておこうと思った次第