【エッセイ】それでも、私はクリエイターでありたい。
「書くの、楽しい?」
この世界では、きっと毎日のように誰かがこの問いかけををしている。
ある人は「なぜ書くのか」というエッセイで。
ある人は「文章の書き方」というコンテンツの導入で。
そして、意味目的を見失わないための自問自答で。
私の中の私にも聞いてみる。
「書くの、楽しい?」
「いいえ。」
私は、文章を書くという行為に「楽しさ」を見いだせていない。
ファイルを開く。
画面とにらめっこしながら、カタカタとキーボードをかき鳴らして、時間を消費していく。
ふいに手が止まる。
頭の中にあるイメージが言葉にできず、もだえる。
「保存」をクリックして、逃げ出す。
何時間、ときには何日も経ってから、またファイルを開く。
妥協に妥協を重ね、なんとかまとめ上げる。
投稿する。
このどこに「楽しい」が隠れているのか、私にはまだわからない。
書くのはつらい。
けれど、ちょっとだけ「面白い」とも思えてしまう。
好きなアーティストのリリックビデオを作ってたり。
アニメのシーンを切り貼りして遊んだり。
かつての私は、趣味でそんなことをしていた。
ただ、作ったものを発信をするつもりはなかった。
発信したところで、それは世の中にあふれる「二次創作」の一つに過ぎないし、比較対象にならないほどハイクオリティなものを作る人なんて、たくさんいる。
この段階で、私は創作に意義を見い出していない。
あくまで「自己満足」のための創作。
一人でコソコソと楽しむだけだから、成長することを望んでいたわけではないし、フィードバックも得ることはなかった。
しかしどうやらヒトは、自分の行動に意味とか理由をつけないとやっていけなくなる生き物らしい。
創作には、それなりの時間とコストが付き物である。
高校生活の折り返しからは、「入試で忙しくなるから」「メンタルが持たないから」と自分に蓋をした。
自分のことだから、やめるのも自由。はじめるのも自由。
それから1年半、創作物をたんたんと消費する日々。
時間の許す限りパソコンとにらめっこ。
アニメや音楽など、私の「スキ」はここで大きく広がった。
得られたのは、新たな世界。
そして、「私も創作したい。」という気持ち。
この気持ちは、時間をかけて風船のように膨らんでいく。
風船は今年になって、破裂した。
トリガーは、結局、誰かの創作物。
このときの私は、「作品に衝撃を受けた」ではなく、「作品に混乱させられた」というのが正しい。
軽いパニック症状だったのかもしれない。
鳴り止まない心臓と、謎のハイテンション。
それを抑え込んで、気持のやり場を探した。
その結果、私が選んだのは、
「作品について、文章を書く。」
正直、この判断は、私の人生の中でも一番危険なものだ。
「書く」「読む」から目をそらし続けてきた人間が、テンポラリーな衝動でその世界に飛び込もうとするのは、あまりにも無謀すぎる。
日常生活で心がバッキバキになってしまっていたとはいえ、なぜ脳からその発想が湧き出てきたのか、いまだによくわかっていない。
ただ、ここで落ち着いて「なぜ」を考えていた世界線があったとしたら、私はここにいない。
パラレルワールドでは、普通の大学生になっていたのかもしれない。はたまた、差し伸べられた救いすら拒み、取り返しのつかない人間になっていたのかもしれない。
ある程度組み立てていたビジョン、私はこれを「予定未来」と呼んでいるのだけれど、これを大きくゆがめてしまったのが、文章を書くという選択肢だった。
とはいえ、このときの私は文章を書ける場所を探していたので、「なぜ」なんて考えようともしていなかった。
そうして、noteという小さな海湖にたどりついた。
はじめのころはかなりひどい文章。
勢いで「えいや!」と投稿したものを見返してみる。
誤字脱字がそこら中に散らばっているし、文章として成立していないものもある。
書いた本人ですら???と思わざるを得ない。
これを読んでくれた人は、どう思ったのだろう。
いざそれを考えると、読者と作品に対して、申し訳なさでいっぱいになった。
つたない文章を、人に読ませるということ。自分に文章力がないこと。
恥ずかしかった。「書けない」というのが。
だから、時間をかけて何回もリライトした。
いっそのこと消してしまおうとも思ったけれど、ちゃんと発信するということにも意味はあると思い、満足がいくまで更新し続けた。
投稿を続けていくと、いろいろなリアクションが来る。
スキ、コメント、そしてフォロー……。
自分が時間をかけて書いたものに、反応が付く。
それは嬉しい。
けれど、noteにおいて、リアクションの価値は均一じゃないことを思い知らされた。
スキはスキでも、短時間で一気に押されたり。
脈絡のないフォローをされて、切られたり。
流れ作業のようにマガジンに追加されたり。
たいていのnoteユーザーは、温かさを持ってる。
けれど、全体がそうじゃない。人によっては、冷たいし、寒い。
この人たちにとっては、私の「書く」は、どうでもいいのだ。
メンタルにくるし、普通につらい。
どうせ何も見ずにいなくなるくらいなら、はじめから触れないでほしい。
その人たちがどれだけ凄くても、影響力があっても。
人を「みる」ということの意味を薄れさせていく、そんな世界の在り方に私は価値を感じない。
だから、私は「書く」で変えたいと思った。
自分の紡いだ言葉で、書き手がもっと書きたくなるように。
せめて、私のもとに来てくれた、記事をちゃんと読んでくれる人を。
マイナスな部分を「それでもいいよ」と受け止めてくれた人を。
私は裏切りたくない。
いい文章が書けるようになること、書くことで文章のあり方を問うこと。
以前のアカウントを通して得られた、書く意味理由。
……と言いたいところだが、実際この2つの要素は、私がnoteから離れることを止めることはできなかった。
意識すればするほど、何も書けなくなる。
いわゆる「note疲れ」だろうか。
過去のエッセイを見返すと、どこかつらそうにしている。
結局のところ、夏のきびしい暑さとともに、読むのも、書くのもやめた。
書くことは、痛みを伴う。
記憶の奥深くまで潜り込んで、それを不特定多数に伝わるようにしなければならない。
自分を知るということ。
それは時に今を助けてくれるし、時に過去に縛られる。
その苦痛と、意味理由を天秤にかけてみても、天秤は左に傾く。
「書かない」ことで精神が安定するならば、そのほうがよっぽどいいから。
けれど、この夏の間「書けない」状態であったことが、ものすごく苦しかった。
口を閉じ続ければ続けるほどに、とめどない思考は煮詰まっていく。
次々に加えられる、食材とスパイスたち。
アクを取り除くこともできない。
そうしてできるのは、思考の闇鍋。
今の私にとっては「書かない」も「書けない」も、どっちも、つらいのだ。
目をつむり、耳をふさぎ、口を閉じ、とめどない思考の溜めるのか。
悩んで、悩んで、なんとかして文章を書きあげるのか。
どちらを選んでも苦しいのなら、それを「形」として残せるほうがいい。
だから、私は後者を選んだ。
ここまで、私の心境を書き出してみたが、やはり私は「書くのを楽しむ」という境地にはたどり着いていない。
その概念は、地平線の彼方まで歩き続けばわかるのか、はたまた別の次元のものなのか。
わからない。
でも、文章がもつ力を、私は知りたい。
そう思えた。
いつか、その力を使いこなすことができたら。
文章の中に、思考・感情をそっくりそのまま宿らせることができるのなら。
私は、可能性を秘めている文章という存在を「面白い」と思ってしまう。
現代文は好きじゃないし、高校生になってからほとんど文章に触れてこなかった私。
もともと、誰かに見られることも好きじゃない。
自信がないから、意志だけで生きてきた。
そんな私が、この世界にいたいと思ってしまう。
だから、私はもう一度、はじめる。
この前の自己紹介には、毒を盛った。
私には、まだ自分の言葉で伝えられないことが、たくさんある。
思考と感情を、ちゃんと書く。
それまで、私が逃げないように。逃げて後悔しないようにするために。
炭酸が抜けてしまったラムネのような、私の18年。
中身が瓶からこぼれてしまった、私の半年。
それに落とし前をつける。
時間はかかるし、悩んで苦しんでの繰り返し。
それでも、私はクリエイターでありたい。
だから、まだ書き続ける。