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11/28 なぜ本名でTwitterをやっているか
私がかろうじて大学に入ることが出来たのは、悪名高い推薦入試制度のおかげである。
他の受験生が5教科、3教科、あるいは専門学校や短大に進む生徒がそれぞれの分野について学んでいるの尻目に、なんだか楽そうかつ早々に受験を終了させてゆく雰囲気が反感を買っており「推薦入試は入試ではない」ということが度々言われるのは私の出身高校だけでなく、全国的なことらしい。
特に、私が使ったのは「AO入試」というややマイナーな入試方法であり、学期末試験や提出課題の出来が反映されて成績優秀者として各学校から送り出される「指定校推薦」以上に「あんなものは入試ではない」との悪評を買っていた。
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周囲からの「あれは受験とは言わん、はっきり言って逃げだ」という声は、実のところ英語やら数学やらをコツコツ勉強することが耐えがたかったゆえにAO入試を選んだ18歳の私に刺さり続けた。
ついに私は「一般入試は才能のない人間がやることだ!!!」というイキリ散らかした戦闘的スタンスを取ることで心の平穏を保つ方向へと方針転換し、メジャーデビューでも決まったかのような才能顔で卒業まで過ごすこととなった。
0点取っても大学には入れる
というわけで、小論文、面接、そして事前に課題図書を読んだうえでの筆記試験をクリアし、私は大学生になった。
私が受験した國學院大学文学部哲学科AO入試の受験要項には「一般的な面接で重視される外交的な朗らかさは重視しません」とハッキリ書かれていた。
言葉を選ばずに言えばこれは「社会性を問わない」ということである。そのせいか、このAO入試においては内申点が問われなかった。すなわち、高校でいくら壊滅的な成績を取り、出席日数がバカみたいに足りなくとも小論文、筆記試験、そして面接さえ通ればそれで良いということを意味している。そんなことまで書かないと志望者が集まらないほど不人気だったのでは?と今となっては思わなくもないが、
兎にも角にもおかげで私は大学生になれたので、なにも文句はない。高校生の私は二年次に相当学校を休みがちな時期があり、そして数学がわからなすぎて0点を取っていた。
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当然、内申点など地の底にあったため推薦入試は考えていなかった。推薦には内申点が必要だと思っていたからだ。しかし大学には行きたい。とはいえ受験勉強もしたくない!と寝言をほざいていた。
そして、宮本と当時流行っていたスマホのクイズアプリ「みんなで早押しクイズ」通称「みんはや」をひたすらやっていた。私と宮本はクラス内でも極端に受験というものに関心がなく、高校3年生にも関わらず進路の話をほとんどしたことがなかった。
唯一したことといえば、2人で何故かぼんやりと憧れていた早稲田大学のオープンキャンパスに行ってカレーを食ったことである。宮本は高校の学食でも毎日カレーを食べており、そしてカレーを作るおばちゃんたちの人間関係を熟知していた。別に宮本は彼女たちと仲が良いというわけではなかったはずだが、ともかく彼は学食キッチン内の人間関係に異様に明るかった。
あるとき聞いた話によれば、とあるおばちゃんがキッチンからいなくなったことにより上下関係の均衡が崩れ、結果的にカレーの味が変わったのだという。そんなことあるわけないだろ、と思っていたが、彼はもともと「ステンレスの弁当箱に入れた食べ物には金属の味がつくから食べられない」と主張するほど食に敏感な男だったので、カレーの味は本当に変わっていたのかもしれない。ちなみに、彼が弁当ではなく学食を食べていたのはそういう理由でもあった。
さて、私と宮本は受験への関心も意欲もひたすら低空飛行のまま高校三年生の夏──いわゆる受験の天王山を迎えていたのだが、私は正直、宮本に対して「まぁこいつはどうにかなるだろ」と思っていた。彼はかつて私と同じく吹奏楽部に入っていたのだが、受験勉強に専念するということで2年にあがる直前の冬に退部していたからである。おそらく、そこからずっと勉強していたはずだ。
というわけで、私は「こいつは一緒にダラダラしているように見えても、実は大学に行けるポテンシャルを持っているぞ」と密かに確信しており、一方で吹部も引退まで楽しんだあと、現在は高校生最後の文化祭準備をぼんやり手伝っているだけの自分はヤバいのでは?と焦りを募らせていたのだった。
迷走、3つの大学
國學院大學、ダンボールを切りながら
とはいえ、ただ焦っていただけで何も行動はしなかった。「どうしたもんかなあー」と言いながら、段ボールを切ったりしていたのである。塾とか行ってなかったのか?と思われるだろうが、もちろん行っていた。
とはいえ、そこは自習中心の「学習サロン」という意味不明な看板を掲げるよくわからない塾だったので、講師も特に私を焚き付けるようなこともなく「まぁなんとかなるんじゃないのか」と楽観視していた。そんなとき、同じクラスの江藤という女子が「内申点が必要ない、小論文と面接と筆記だけで受けられる推薦入試」で國學院大學を受けるという話を聞いた。
江藤は私の友人の友人ぐらいの関係性であり、興味は近いものの基本的に意見が合わないのでお互いうっすらと軽んじていた。彼女は2024年現在、インターネットを通じて出会った恋人と暮らすべく沖縄への就職を決め、移住して一瞬で彼と別れたのち別の恋人を作って現在同棲している。結婚も近いだろう。元気そうで何よりだ。
江藤の成績はよく知らなかったが、とにかく受験方法は楽そうだったし、そう難易度が高いわけでもないだろう、ということで彼女と同じ入試を受けることにした。受験の天王山、高校3年生の夏も終わりかけていたころである。
武蔵野美術大学、行かないほうがカッコいい
私のいた高校では9月に文化祭がある。その前日か前々日に必要な小論文を書き上げ、担任だった国語教師に見せた。特に問題ないということでそれを提出し、そのまま本番へと駒を進めて合格、無事國學院大学への入学資格を得た。とはいえ、この合格がわかった時点ではまだ10月か11月である。
私にはまだぼんやり「受験、やろうかなぁ〜」という想いがあり、とりあえず國學院大學はすべり止めとして、法政大学を受けようと決めた。法政大学には国語1科目で受験可能な枠があり、まぁなんかこれならいけるだろうと思っていたからである。
……さて、表面上で狙っているのは法政大学だったのたが、当時の私は密かに「武蔵野美術大学クリエイティブイノベーション学科」への受験を考えていた。「クリエイティブイノベーション」というのが何なのかは全くわからなかったが、当時の私は「これから創作や芸術を志すぞ!」という意思があり、とはいえ特に絵や映像をつくった経験があったわけではなかったので、とりあえずそういった実作の経験がなくても入れそうな「クリエイティブイノベーション学科」を志望したのだった。
私は当時、そこで映画の脚本家かプロデューサーになることを強く考えており、武蔵野美術大学で仲間を増やそうという野望を持っていた……のだが、私の周囲にいる美大、芸大志望の友人と喋っているうちにある考えに取り憑かれるようになった。
美大とか芸大に行ってないのに、クリエイターになる方がカッコいいんじゃないか!?
突然こう思ったのを機に、私は武蔵美受験をやめることになる。そもそも受けたとて合格はしなかったと思うが、ともかく「美大とか芸大に行ってないのに、クリエイターになる方がカッコいいんじゃないか!?」という確信によって、私の密かな受験計画は終了した。
法政大学、モンスターエナジー
ところで、法政大学への受験がまだ残っている。こちらの対策もしたはしたのだが、あまり身を入れた覚えはない。明確に記憶しているのは受験前日の夜のことだ。これまでほとんど対策をしていなかったも関わらず、前日の夜にめちゃめちゃ焦ってきた。
ヤバい!!!明日は受からないのではないか!!……対策していないのだから当然だろう、と言われるだろうが、そんなことは私もわかる。
怠け続けていたはずの私は「一年をかけて準備してきたのに、本番で成果が出なかったらどうしよう……」という心配に駆られるしごく真っ当な受験生と同じレベルで不安がっており、結局一睡もできなかった。
準備もしてこなかったうえに眠れもしなかったのに出来るわけがない、と意気消沈して受験会場へ向かった私はふと「モンスターエナジーを飲んでみるか」と思った。
これまでエネルギー飲料というのをついぞ飲んだことはなかったのだが、眠気を覚ますにはこれが一番なのではないか?と思って市ヶ谷駅のコンビニで白のモンスターエナジーを購入し、飲みながら会場へ向かっていた。
馬鹿みたいにハイになってきた。はじめて飲んだことによる何かしらの暗示が働いたのか、私はモンエナを飲んだことで尋常じゃなく高揚し、同じく駅から会場へ向かうたくさんの受験生に話しかけたりしたのである。さぞ鬱陶しかったに違いない。
「なんで皆そんな真剣な顔なんだろう!もっと楽しそうにすれば良いのに!!」と思いながらニコニコで受験に臨んだ私はおそらく会場で一番の低成績を叩き出し、行きとは正反対の沈痛な顔でトボトボ駅へと戻った。おまけに頭も痛かったので、最低の気分だったと記憶している。
カレー
そういうわけで、私は結局一番最初に受かった國學院大學へと進んだ。現在は立教大学の大学院にいる。大学生らしく、どちらのキャンパスでも学食を食べるだが、やはりそのたびに宮本のことを思い出す。彼とは高校の卒業式以来、音信不通になってしまったからだ。卒業式の日、あまり言葉を交わした記憶もない。もうずいぶん前のことだから正確に覚えているわけではないが、なんとなく話しかけることがためらわれるような空気だった気がする。それから何度かLINEや電話をしたが、返事が来ることはなかった。元担任からの連絡にも応えないらしい。高校までの知人は縁を切られたと考えて良いだろう。だから、こちらから連絡することはない。
けれども、彼がちょっと懐かしくなって私の名前をネットで検索してみたりしないかな?と少し期待している。そういうわけで、本名フルネームでTwitterをやっている。もちろん、それはあくまで理由の一つだけれども。
もしそれを宮本が見ることがあれば、私がまだ就職していないとか、HOTALOOPというグループの愛瀬あおいというメンバーを推しているとか、とにかく今も元気でやっている、ということがわかる。伝われば良いな、と思っている。
なお、今も「みんなで早押しクイズ」をときどきやることがある。とはいえ、そちらのアカウントは本名ではない。高校時代に設定してから、変えたことがない。