河野太郎氏、”媚中の土壌” ② 親子で進めた”媚中外交” 中国共産党教育機関と「研修交流」を実現させた父・河野洋平氏
◆”親の代から媚中外交”~今日までの政界、経済界の”媚中ステージ”をどっかり据え付けた河野太郎大臣の父~河野洋平氏
内閣府の規制改革推進タスクフォースに「中国国有企業ロゴ」付き資料を持ち込んだとして問題になった同委員・大林ミカ氏が事業局長を務める自然エネルギー財団(設立者・孫正義氏)とその媚中ぶりが極めつけとでもいうべき河野太郎大臣(デジタル担当)との関係が大きくクローズアップされている。既に筆者のYouTubeチャンネルでも繰り返し取り上げ、本noteでも記事をリリースしたが(4月1日配信「河野太郎”媚中の土壌”① 分け前が毎年の政治献金に~中国共産党と『利益共同体』=ファミリー企業・日本端子」)、今回、これらのさらなる根源としての父・河野洋平氏(元外相・自民党総裁)が日中外交の中で実行したとんでもない事績を紹介したい。
しかし、実は以下に示すものは「インテリジェンス・ウェポン」がメルマガだった時期である2021年9月、自民党総裁選の時期に候補として出馬した河野太郎氏の背景について”警鐘”を鳴らす意味で暴露した内容だ。「ロゴ問題」などで、あらためて河野太郎大臣のおかしな姿勢、言動に気づいた方々に銘記してもらうことは意義あると思われるので、敢えてリライトしてお示しすることにした(元のメルマガは、2021年9月24日配信)。
◆外務大臣が進んで「親中エージェント養成」に協力⁉ 中国共産党中央党校と日本各界若手の”人的交流”を外交の一環として推進~河野洋平氏
実は、河野洋平元官房長官・外務大臣を窓口に中国共産党中央党校と日本の各界人士との「研修交流」が実施されていた。しかもこれは、対中外交の一環として、外務大臣としての職権を用いて、中国側と諮ってスキームを作り、なんと9~10回にわたる相互訪問による事業として実行されたものだった。もちろん、外務省が推進する事業として公費投入がされ、河野洋平氏自身は外務大臣退任後もこの”交流事業”の「最高顧問」として参加を続けていた。
今日の目で見るなら、以下に示す事業内容は日本自らが中国共産党のために「親中エージェント養成」を公費まで投入して引き受けるようなもので、しかも交流先が中国共産党の共産主義イデオロギー教育のための党校であるところは余りに異常である。いったいどういうことなのか?
外務省HPには、平成21年(2009年)11月付で「中国共産党中央党校との交流事業について」との内容が記載されている。概要説明は次の通りだ。
<外務省HPより>
1.本事業の経緯
平成12年8月、河野洋平外務大臣(当時)と曾慶紅(そうけいこう)中国共産党中央組織部長(当時)とで、中国共産党中央党校(党幹部の最高養成機関)研修生と我が国官民の人材の相互交流を実施することで合意したもの。これまで、日中相互に合計19回の訪問団を派遣。
2.本事業(訪中プログラム)の特徴
(1)中国共産党中央組織部が直接、我が国官民一行を大規模、かつ定期的に中国に招待するユニークなプログラムであり、中国側も極めて重視している。
(2)中国共産党は本事業の中国滞在日程の調整段階から、地方を含む視察先の党組織を動員して、積極的に準備を行っており、中国側の他の招待とは異なる切り口による密度の濃いプログラムが期待できる(なお、平成13年度、平成14年度は、曾慶紅組織部長との会見、平成15年度、平成16年度は賀国強組織部長との会見、平成17年度、18年度は王東明組織部副部長、平成19年度は曾慶紅国家副主席、平成21年度は曾慶紅前国家副主席その他国家要人、地方政府要人等との会見を実施。)。
(3)中国滞在中は中央党校研修生との意見交換も予定されている。中央党校は党の高級・中級幹部及び幹部候補生の政策能力や理論水準を高めるための党中枢の研究教育機関であり、本事業を通じた交流は、中国で将来の要人となり得る若手幹部の知己を得る極めて重要な機会となる(なお、中央党校の元校長は胡錦涛国家主席、前校長は曾慶紅前国家副主席、現校長は習近平国家副主席)。
(参考)外務省HP「中国共産党中央党校との交流事業について」2009/11 以下、一応アドレスを示すが、現在、掲載から外されている。しかし、この事業に関連した記事は多数、発見できる。
https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/kyosanto_koryu.html
習近平国家副主席(当時)が校長を務めていることも含め、以上を見ただけでも大変に重大な「事業」であることが分かる。おまけに、この説明以下についている経過報告では、日本側からの訪中(9回)、中国側からの訪日(10回)について参加人員が示されており、これだけの人数が相互に「若手幹部の知己を得る極めて重要な機会」を得て結びつきを強めたということだ。
<日本側からの訪中>
・第1回(2001/7/20~28)32名
・第2回(2002/7/21~27)26名
・第3回(2003/9/7~14)42名
・第4回(2004/9/5~11)54名
・第5回(2005/9/21~27)45名
・第6回(2006/9/13~19)46名
・第7回(2007/9/3~9)44名
・第8回(2008/9/23~29)38名
・第9回(2009/10/12~18)60名
※計387名
<中国側からの訪日>
・第1回(2000/12/11~20)50名
・第2回(2001/10/8~17)80名
・第3回(2002/10/8~17)100名
・第4回(2003/11/4~13)103名
・第5回(2004/10/20~29)97名
・第6回(2005/11/21~30)76名
・第7回(2006/10/23~11/1)82名
・第8回(2007/11/7~16)76名
・第9回(2008/10/22~31)90名
・第10回(2009/11/4~13)90名
※計844名
これらの人数には、同一人が複数回参加している場合も含まれるだろうが、日本側から387名の「官民」若手とはどんな人たちか、調べる必要がありそうだ。また、中国側からの訪日人数が844名にものぼるのことに、「これを機に日本に食い込み、浸透を!」という中国共産党の意気込みを感じるのは、考えすぎだろうか?
ちなみに現在、確認できるものとして、中国共産党党校側からの第10回訪日団は、政府が研修や政策研究・教育の場として設けた政策研究大学院大学で研修団としての受け入れを行っている。同大学のホームページの「研修事業」の記録で2009年11月5日付で以下のような記載がある。
「2009年11月5日、中国共産党中央党校 李書磊(リショライ)副校長を団長とする中国青年指導幹部訪日団95名が本学を訪問しました。本学では平成17年よりこのような研修団の受入を行っており、中国共産党中央党校研修生と我が国の官民の人材相互交流を目的とした、外務省の招へい事業の一環としたものです」
「当日は想海楼ホールにおいて八田学長、李書磊副校長の挨拶の後、衆議院議員・民主党副幹事長の細野豪志氏から『日本の新しい政治』について講演をして頂きました。…午後からは『行政組』『環境組』『地方開発組』の3部屋に分かれて分科会を行いました。『行政組』は増山幹高本学教授から『日本の政治』と題した講義を、『環境組』は資源エネルギー庁の増山壽一氏から『日本の省エネルギー・新エネルギー政策』とJ-Powerの中山寿美枝氏から『地球温暖化問題と石炭火力発電』と題した講義を、『地方開発組』は橋本久義本学教授から『日本の産業政策と中小企業振興』と題した講義を受け、その後、どの組でも議論や質疑応答が盛んに行われました」
(参考)「研修事業~中国青年指導幹部訪日団95名受け入れ実施」2009/11/5 政策研究大学院大学HP
上記を見ればわかるように、外務省記録「90名」よりも多い95名が中国からの「研修団」として政策研究大学院大学に受け入れられたようだ。そして、この時は政権交代があったばかりで、民主党等の連合政権だったことから、基調講演を当時の民主党副幹事長の細野豪志衆院議員(現在は自民党)が行っている。河野洋平元外務大臣が作り出した事業は、民主党連合政権にも引き継がれたのだ。
政策研究大学院大学で実施された研修「分科会」でも、現在の日中関係の機微に触れる内容が取り上げられたことが分かる。現職の幹部官僚などから「日本の省エネルギー・新エネルギー政策」「地球温暖化問題と石炭火力発電」が講義され、中国若手幹部官僚(党官僚、政府官僚)との質疑応答がされたというのだから、”手の内あかし”そのもので、なんともはや…。
この中国共産党中央党校の訪日団(第10回)については、現在も「来日」にあたっての外務省の報道発表文が外務省のHP上に掲載されている。
「中国共産党中央党校訪日団90名(団長:李書磊(り・しょらい) 中央党校副校長)は、11月4日(水曜日)から13日(金曜日)まで、中央党校交流事業の一環として我が国を訪問します。
中国共産党中央党校訪日団一行は、東京滞在中、外務省関係者、財界関係者、有識者等と意見交換を行うほか、3班に分かれて兵庫県、福岡県、北海道をそれぞれ訪問し、行政、環境、地方開発に関して、関係機関の視察及び意見交換を行う予定です。なお、11月5日(木曜日)には一行の訪日を歓迎して、福山哲郎副大臣主催によるレセプションが行われます。
中国共産党中央党校交流事業は、平成12年8月、河野洋平外務大臣(当時)と曾慶紅(そう・けいこう)中国共産党中央組織部長(当時)との間の合意に基づき開始された相互交流事業であり、これまで中国より9回の訪日団を受け入れ、我が国よりも9回訪中団を派遣しています。
(注) 『中国共産党中央党校』とは、党の高級・中級幹部、幹部候補生の教養・政策能力・理論水準を高めるための研修や会議を行う中国共産党の中枢研究教育機関。現在の校長は習近平国家副主席であり、かつて胡錦濤国家主席、曾慶紅前国家副主席が校長を務めた」
(参考)「中国共産党中央党校訪日団の来日」2009/11/2 外務省HP
https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/21/11/1196963_1109.html
◆中国共産党そのものとの交流事業の先頭に立ち続ける河野洋平氏~同氏と曾慶紅氏の協議で始まった相互訪問事業の隠された意義
さらに、外務省説明には日本側からの第10回訪中事業の部分に参加者として次のような記載がある。
「最高顧問=河野洋平前衆議院議長 団長=阿南惟茂(あなみこれしげ)外務省参与兼大使、前中国大使」
河野洋平氏が先頭に立って推進していることを鮮やかに示している。団長の阿南氏は大東亜戦争終戦時に自決した阿南惟幾(あなみこれちか)陸軍大将の五男で在北京大使を2001~06年に務めていた。
2000年8月に河野洋平氏が曾慶紅中共中央組織部長と協議・合意して「中国共産党中央党校」との交流事業が始まったことの隠された意義について考えてみたい。そもそも、外務大臣が相互交流を提起するなら、相互主義・対等主義の立場で中国側も政府機関や周辺団体がカウンターパートになるべきだ(実際、通常の中国からの訪日団はJICAが受け入れ団体になっている)。
なぜ、中国の執権(独裁)党である中国共産党の、それも「党の高級・中級幹部及び幹部候補生の政策能力や理論水準を高めるための党中枢の研究教育機関」である中国共産党中央党校が交流先になるのか? 中共の指導思想である「毛沢東思想」やマルクス・レーニン主義、その時々の例えば「偉大な中華民族の復興」路線のような「習近平思想」の核心部分を日本側「官民若手」に学ばせようというのか?
はっきり言うなら、中国側の意図は将来に向けて、日本側で官僚や財界のトップ、上級幹部になる人々を「親中的」に養成したいということだ。中国共産党流の「改革・開放」路線に基づく市場経済を通じた社会主義建設路線や「中国の特色をもった社会主義」の内容を系統的に理解してもらい、また交流を通じて形成される人的つながりによって長期にわたる日本とのパイプを作る、というのがやや”きれいごと”風に整理した言い方だろう。
一方で、河野洋平氏のカウンターパートである曾慶紅という人物の出自、中国共産党内の役割をよく知っておく必要がある。まず彼を特徴づけるのは、江沢民元国家主席の最側近の一人として党上海市委員会から出世街道を歩んだ「上海閥」に属している人物だということだ。
そして、上海市という「中国きっての国際都市」を舞台に対日工作で活躍し、故・野中広務、古賀誠、二階俊博の3自民党歴代幹事長との親交を深め、自民党内での「親中派」拡大に務めてきた中心人物でもある。筆者は、中国共産党幹部OBから、この人物を考える上で、「北京は政治、上海は諜報ということを頭におく必要がある」と説明されたことがある。つまり、対外諜報工作を主務とする幹部だということだ。
(参考)Wikipedia「曾慶紅」
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%BD%E6%85%B6%E7%B4%85
その党幹部OBは、およそ次のようなことを述べていた。
「曾慶紅氏とつながるということは、中国の諜報分野の工作窓口になるということだ。彼は国際都市・上海の党幹部として1980年代以来、諜報分野で働いてきた。時には江沢民主席の”政敵”を貶めるため、汚職調査で党や軍幹部を追放したり、逮捕させたりという粛清活動で辣腕を振るった。香港、厦門を通じた対外工作や『両岸関係』(中国大陸側と台湾との関係)工作にも責任幹部として携わってきたのが彼だ」
つまり、河野洋平外務大臣は本来ならカウンターパートである中国外交部長(外務大臣、2000年当時は唐家璇(とうかせん)氏)や中国共産党中央対外連絡部長(党外交責任者で地位は外務大臣より上、当時は戴秉国(たいへいこく)氏)ではなく、中国共産党部内を統括する組織部長でありつつ諜報分野での実力者でもある曾慶紅氏と交渉・合意するという国家間関係としても極めて特異なステージに載せられてしまっていたのだ。これはすなわち、河野洋平氏が中国共産党側にとって特別な”ターゲット”であったことを如実に示すものでもある。
そして、こうした特異なステージに載せられ、中国側の意向に沿った動きを作り出していく過程でその見返りとして1995年以来、中国現地でファミリー企業=日本端子(株)の子会社を中国側国有企業と合弁で設立したり「独資」(日本から持ち込んだ単独資本)で工場を設立することが可能になったと見るのが、自然だ。ちなみに北京での子会社設立は、河野洋平氏が1回目に外務大臣を務めている時期と重なる。また、当時、日本端子の対中事業を担当していたのが、同社の当時の取締役だった河野太郎氏だという。
中国側にとって、河野洋平氏が2度にわたって外相就任した時期(1994.6.30-96.1.11、1999.10.5-2001.4.26)は正に”チャンス”と見なされていたのに違いない。そして、経過を見る限り河野洋平大臣は中国側の期待を裏切らない活躍をしたといえよう。
◆外務省”チャイナスクール”が果たした橋渡しとしての役割
さて、曾慶紅氏と河野洋平氏の橋渡し役は、誰が果たしたのか? やはり、これは外務省”チャイナスクール”であるのが確実な線だ。そこで浮上するのが、”チャイナスクール”重鎮の一人、元駐北京大使の阿南惟茂氏である。
阿南氏については、次のようなエピソードがある。これは日本共産党参議院議員だった故・吉岡吉典氏(1928-2009、参議院議員は1986-2004の3期18年)から聞いた話しだ。吉岡氏はしばしば外務官僚と意見交換のため会食しており、阿南氏からそうした席で話された内容だった。
「阿南さんは、こんなことを言っていたよ。『中国共産党にぜひ、民主的な規制を資本主義経済に採り入れることの必要性を日本共産党からよく教えてあげて欲しい。彼らは資本主義経済の運営に民主主義的ルールが無いと”弱肉強食”で格差拡大につながり、環境破壊にもなることがよく分かってない。日本の中で”大企業の横暴を規制せよ”と主張している御党が共産主義者の立場で説明すれば、理解が進むのではないか』『このままでは、中国共産党政権はいずれ民衆から拒絶され大激動になりかねない』」
忙しい国会会期中に議員会館内事務所で遅い晩酌をやりながら聞かせてくれた話だが、この時若かった日本共産党の国会議員秘書だった私は外務省チャイナスクールの何たるかを十分には認識しておらず、「日本の外交官でも相手国をこんなに心配している人がいるんだなあ」との印象と共に阿南氏の名を記憶にとどめることになった。
そして、実は共産党から離れた後、政府関係の交流事業の手伝いに従事している際に阿南大使(北京在任2001-2006)夫人の豪華な写真エッセイ集が8カ国版で北京で出版されるという事態を目のあたりにすることとなった(2006年)。「なんだ、阿南さんは向こうにすっかり取り込まれているんじゃないか!」と痛感することになってしまった。このエッセイ集に対して、かなり大きな額面が「印税」として中国側から阿南氏に支払われたのは確実で、しかも日本語版の6000部のほとんどは日本の外務省が公費で買い取り、各方面に配布していたことも後日知った。
2021年の自民党総裁選前後、そして今回の「ロゴ問題」などで浮上した河野太郎氏ファミリー企業問題は、以上のように中国側からの綿密な働きかけ、日本にとって宿痾となっている「親中派」(政官民)の蠢きの中で生まれ、肥大化していったのだということを銘記すべきだ。完全に中国共産党と利益共同体を形成している”媚中父子”に、日本政治の中枢への影響力をこれ以上、維持させておくべきではない。
(了)
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