”赤い宮様”の平和憲法論~枢密院議員・三笠宮崇仁親王の「戦争放棄」規定に関する発言~三笠宮崇仁妃百合子さまの薨去に際し、宮家当主の原点を見つめて
◆三笠宮崇仁親王の事績~大東亜戦争の現場に情報将校として向き合う
三笠宮崇仁親王妃殿下・百合子さまが薨去されたとの報に接し、最近YouTube配信を中心に触れていた同宮家をめぐる問題をあらためて見つめ直すことを企図して、宮家の最初の当主であった崇仁親王の戦時中の事績について取り上げる番組を11月15日に配信した。これは、崇仁親王が1943年(昭和18年)1月から翌44年1月にかけて陸軍の支那派遣軍総司令部に参謀将校(第二部=情報担当)として派遣され、その任を終えて帰国する前に同地の尉官級(少尉、中尉、大尉)に対する講話を行ったという事績について、その内容を平易に解説したものだ。
(参考)「三笠宮家の原点!!!赤い宮さま・帝国陸軍将校 三笠宮崇仁親王 ヒゲ殿下の父 三笠宮百合子さま追悼配信」2024/11/15 古是三春_篠原常一郎
https://www.youtube.com/live/AlPwJF2ZJk8?si=SwRtzvcbQ-Ok62Tt
三笠宮崇仁親王はこの時、階級は少佐(赴任当初は大尉)で司令部付参謀としては高位ではなかったが、「宮さま将校」として御付きの武官も配属される特別待遇であり、行動の自由もかなりあった。皇族としてのその身分を十分に利用し、大東亜戦争中~末期の最前線の状況を調査視察。現地で軍部隊が引き起こす犯罪や残虐行為を含む問題点も洗い出し、これらが「早期に中国との和平をもたらし、日華事変の収束をはかる」という昭和天皇が強く希望し、支那派遣軍がその主任務とすべき目標を達成する上での最大の障害をなしていることを看破。
こうした問題をふまえて、満州事変(1931年)以来の軍の暴走と統帥権を無視した天皇をあざむく勝手な行動をも振り返り、「事変早期収束」を図る上で、捕虜惨殺や中国民衆とのトラブル(相手の意に沿わぬ食糧や物資の挑発から、略奪、婦女暴行のような犯罪まで)引き起こしのようなことを「綱紀の粛正」で根絶し、「日本人として日本人本来の姿にかえって」事態収束を図ること、これまでを厳格に反省しことにあたることを中心に説いた講話をまとめ、離任にあたっての「尉官教育」として実施させたのであった。
この事績については、過去、何度かメディアにも取り上げられたが、かなり一面的な内容で三笠宮崇仁親王がまるで「反戦を訴えた」かのような伝わり方がほとんどだった。しかし、実際に講話を原稿とした崇仁親王の「支那事変に対する日本人としての内省」を読むなら軍として過去に国際法を尊重した活動のあり方に立ち返り、また現地で中国人の生活と思想、習俗を理解・尊重していくことで、「事変の早期収束」が図られるというあくまでも軍として軍事的勝利を収めながら、民意をも味方にして地域に平和を確立していくという方向を唱えたものであることが理解できる。
いわゆる「戦争反対」的な立場で、軍事的降伏をも意味するような講話をした訳ではない。しかしながら、崇仁親王が帰国した直後、支那派遣軍総司令部は(おそらく陸軍上層部の意向も受けて)講話を聞いた尉官約120~130名などに対して「緘口令」を発し、印刷された講話内容も回収して焼却処分とした。このことにより、あたかも崇仁殿下が皇族という立場に守られながら反軍的な言動を行ったかのように事績が”使われた”という印象が強い。
しかし、実際は講話はこれを聞いた現場指揮官(尉官)を通じて軍部隊に強く影響を及ぼし、戦争末期にもかかわらず支那派遣軍が重要な大作戦(第一次大陸打通作戦)を成功させる力にもなったというのが、本当のところだ。YouTube配信では細部に至る解説は出来なかったが、興味のある向きはぜひご覧いただきたい。
◆戦後の新憲法論議でも枢密院議員として積極的な発言
皇族としてものおじせずに現場に出て、意見をはっきり述べるという三笠宮崇仁親王の姿勢は、戦争が終わった直後も変わらなかった。1946年(昭和21年)6月8日の枢密院本会議で憲法審査が行われた際、新憲法草案に前文から盛り込まれた「戦争放棄」について、これに積極的な賛意を示す発言を行ったことも、こうしたことを示すエピソードのひとつだ。
新憲法草案は、ポツダム宣言受諾による国際公約で「平和・民主国家を建設」することを約した日本側が、それに相応しい憲法案を出さないことに業を煮やした連合国軍総司令部(GHQ)側が「これに基づいて作成せよ」と日本側に示した原案に基づいて起草、議会提案されたものだ。その精神は、完全に日本を「非軍事化」することも含まれたが、この草案については当時合法化されて活動を再開した日本共産党が「戦争などには正当な防衛的戦争もあるのであり、戦争を行う権利を否定することは国家主権を奪われることに等しい」として反対した他は、概ねどの党派、議員も賛成するに至り、47年(昭和22年)5月には施行されるに至った。
その中で、枢密院議員という立場だが、皇族が新憲法草案について意見を開陳した事績は公的には崇仁親王のものが唯一と言ってよいものだ。崇仁親王は、戦時中に支那派遣軍総司令部に情報参謀将校として配属された際に戦線現地で見聞した事績をも例として開陳しながら、草案の「戦争放棄」原則を支持する考えを示した。
ただし、「当面はこれで行くべき」として将来、状況の変化(日本の国際社会の中での地位の回復)をふまえて憲法が変えられていくことについて否定はしておらず、その内容には「戦争放棄」原則の見直しも含まれるであろうことが示唆されている。
この枢密院での発言はほとんど知られていないものだが、この度、三笠宮家の原点を考える上で資料探索を行った際、当時の総合雑誌『改造』(1919年(大正8年)創刊、1955年(昭和30年)廃刊)の中の三笠宮崇仁親王執筆記事「『こっとう』の書ー戦争の放棄についてー」に掲載されているのを発見した。旧かな・漢字が多用されているものを現代用法にあらため、以下に紹介することとしたい。
以下、崇仁親王の枢密院議員としての本会議発言をそのまま掲載する。
◆戦争の放棄について(憲法第二章)
第二章の戦争放棄については相当心配されている向きもあるが、然し私は次の諸点で本原案を支持するものである。
<国際関係の仲間入りをする為には日本は真に平和を愛し絶対に侵略を行わないという表裏一致した誠心のこもった言動をして以て世界の信頼を回復せねばならない>
先ず対外問題として第一は満州事変以来日本の表裏言行不一致の侵略的行動については全世界の人心を極度に不安ならしめ、且全世界の信頼を失っていることは太平洋戦争で日本が全く孤立したことで明瞭である。従って将来国際関係の仲間入りをする為には日本は真に平和を愛し絶対に侵略を行わないという表裏一致した誠心のこもった言動をして以て世界の信頼を回復せねばならない。勿論之には単に憲法の条文だけでは不十分であり、国民の一人一人が徹底した平和主義者にならねばならぬが、とにかく之を憲法に明記することは確にその第一歩であるということができる。
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