共産党人生の徒然 ―3
査問体質―民主集中制組織の悪弊
査問の実態は「党内不倫の洗い出し」?
『アフター・ザ・レッド』を読む
最近、人に勧められて『アフター・ザ・レッド 連合赤軍 兵士たちの四〇年』(朝山実著、角川書店)を読んだことがあります。約四〇年前に起きたあさま山荘事件、同志たちを〝総括〟と称して次々に〝処刑〟した山岳アジト事件など、高度経済成長後期の日本を震撼させた連合赤軍の面々をモチーフにしたものでした。この本は、当時のメンバーたちの人間模様とその後をたどったノンフィクション作品ですね。
連合赤軍は、旅客機ハイジャック(よど号事件)によって北朝鮮へ逃亡した、田宮高麿らが率いた共産主義者同盟赤軍派と永田洋子、坂口弘らが率いた日本共産党(革命左派)神奈川県委員会=京浜安保共闘が合流して結成され、一九七一~七二年にかけて活動した新左翼過激派テロ組織です。日本共産党(もちろん、代々木党本部の方)流にいうなら、「ニセ左翼暴力集団」の代表的なセクトといったところでしょうか。この「ニセ左翼」という言葉には、共産主義運動を名乗って暴力的な運動やテロをやるこうした団体が、「真の左翼」である日本共産党にとって迷惑至極だ、という想いがこもっています。実際、党員時代の自分もそういう意識でした。
連合赤軍については、コミック誌で『レッド』(山本直樹作)という作品が連載されたり、映画「実録・連合赤軍 あさま山荘への道みち程」(若松孝二監督)が製作されたりで、一時 はちょっとしたブームでした。筆者は、どうも「ニセ左翼暴力集団」という共産党員時代に刷り込まれた言葉のバイアスがかかると、いまだに何となく生理的な拒否反応を感じてしまいます。そんなことから、連合赤軍に加わり事件を起こした人々、「武装闘争による革命」を、人生をかけた仕事として信じて活動した人々の、人間としての姿や葛藤を知ろうと思ったことがほとんどありませんでした。
実は、よど号ハイジャック犯のお子さんと面接する機会があり、育ちの良さを感じさせるとてもにこやかで、礼儀正しいことにびっくりしました。「ああいう事件を起こす人やそれにつながる方々も、普通に家族があり人間としての営みがあるのだなあ」との感慨をつよく持ちました。まあ、それも又、問題をはらんではいるのですが・・・。彼ら、彼女らの親たちがやったハイジャックや「日本人拉致」は、逮捕された一部以外、いまだ裁かれていないですしね。
その上で、前記の本を読むと連合赤軍のリーダーや〝兵士〟たちが、それぞれ強烈な個性を持ちつつ恋愛もし、まじめに人生を見つめる普通の人間としての感性をも、あわせ持つ人々だったのだということを実感することができました。また、その〝まじめさ〟が屈折して陰惨な事件を引き起こさせる、集団的ベクトルとして働いたように思えてなりませんでした。これは最近、私が拉致問題がらみで追及しているチュチェ思想研究会のメンバーについても、同じように思うところでもあります。
その中で特に深く感じるところがあったのは、連合赤軍の幹部たちが山中でいっしょに暮らし「軍事訓練」をする中での同志たちの言動に、「反革命」の芽を見出したり脱走する惧おそれを見て取ったりすることで、不信を強めて繰り返した暴力的な〝総括〟です。他のメンバーを動員しての手厳しい批判を加えた上で、本人自身の自己批判を求め、それが不十分と見なすとリンチを加え、最終的には「処刑」する。そして、一二人の仲間の生命を奪ったという陰惨さでした。
〝総括〟は先行きの見えない「革命闘争」の中で組織の中に渦巻いた相互不信、更には個人的な妬みや嫌悪感までが増幅され、相手に「反革命」のレッテルをはることから発生したといえるようです。当時のメンバーがさまざまな立場、角度からふりかえる回想から、そううかがえました。
同時に、そういう行き詰まりの原因を同志の中に見出す弱点に求め、その同志そのものを人格的に全否定してしまう、という事象は組織のあり方に深く関わっているとも、自分自身の経験をふまえて強く感じました。
連合赤軍の〝総括〟と通底する、日本共産党の査問
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