「どうでもよくない者がどうでもよくない殺され方をする(またはしない)世界」のために

〔前略〕

 これほど集中した作業の連続だと不可避的に自分のCPUがヒートアップしちゃうので、以前にも書いた「冷却剤」が必要になってくるのね。それも兼ねて数日前に私、1日(どころか8時間程度)だけ白痴の学生さんと文通する機会があったんだけど、すごい体験でしたよ。もはや苦笑すら凍りつく冷気というかね。
 私信の往復ですのでさすがに細かいことは書きませんが、「こいつ倫理とかロマンとか知ったようなこと書いてるものの、語義的に全部誤用だし、そもそもこっちが書いたことの半分すら読めないまま返信してやんの。言うに事欠いてこちらを “倫理主義”呼ばわりしてるけど、ニーチェによるスピノザ批判を全部正しかったとして話を進めてる私に “倫理主義”の呼称が適用されうるわけないだろう。もしかしてこの子、 “倫理” が “ethics” の訳語であることすら知らないんだろうか? 提示されたことをまともに考えるだけの能すら無いくせにやたらと反問を連発する、出来が悪いくせに才子面の学部生に典型的な態度だなあ。辞書や事典類すら引かずに “自分の意見”を表明するのがどれほど滑稽で有害か、ってことすら解らないのかな? 注意してくれる良心的な教師や学友さえ居なかったのだろうか?」と絶えず思わされ、はっきり貴重な経験だったと言えます。
 今まで私が(文通も含め)出会ってきた人間の中で一番頭が悪い例として記憶されていたのは、 Parvāne の1stアルバムリリース前後に知り合った、横浜在住の5つくらい歳下の男の子でした。当時私は Pain of Salvation の楽曲をボーカル練習のルーチンに入れてて、歌詞を検索する最中にその子のブログ記事が出てきたの。いわゆる「対訳」モノで、へぇと思って他の記事も読んでみたら、なんと自分語り的な記事のなかで『ヨブ記』に関する言及が出てきたのね。その子は中退プロテスタントくん(←神を信じていた時期はあったものの今では一神教徒としての規範的な生活には一切身を置いていない人物像)(←ちなみに『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の読者であれば解ることだが、そもそもプロテスタントは最初から「資本制を前提とした職業の維持」に基づく「国家と宗教との結びつきの体制」を前提としているので、イスラームの立場から言わせてもらえばそれは複数の偶像=国民国家と銭神マモン双方への屈従を意味する。つまりプロテスタントは最初から一神教徒などでは一切無いのであって、この中退プロテスタントくんのように「かつては神を信じていたが、今ではその道は閉ざされてしまった……」式の、噴き出してしまうほど安っぽい、しかしゲーテやヘッセ等の雑多な作家どもに加えてラース・フォン・トリアーのごとき不憫な病人の鼓吹によって今日まで存続してきた「神無き求道者」のイメージをそのまま自身のキャラクター設定として適用してしまえる厨二病患者が、よりによって日本国にここまで多く簇生している事実は、まことに興味深いとしか言いようがない)(←重ねてちなみに、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』に宿っている一番の読みどころは、旧約聖書以来の一神教的概念である「呼び声」が、ルター革命以降一転して神に対するのではなく「天職」に関係するものとして再定義された、という経緯が語釈的に解明されるくだりである。あの本を「社会学の古典」として読みたがる輩どもがいるらしいが、バカの極みであろう。そんな態度だから真の意味での宗教学と経済学をあらかじめ去勢した態度で自身の曲学阿世を合理化するしかなくなるのだ社会学徒どもは)で、彼は事もあろうに「私たちは全員ヨブなのだ」と、迂闊な輩特有の感傷に飽かせてデカいこと書いてたので(笑)、さすがに真の一神教徒としては素通りするわけにもいかず、そのコメント欄に「あなたが『ヨブ記』をダシにして書いていたことはすべて間違っています」と仔細にわたって懇切な注意を寄せてあげたところ、「ああ本当に仰るとおりです、恥ずかしいことを書いてしまいました、あなたはニーチェやドゥルーズについても多くのことを知っているようだし、そのうえ音楽もしてらっしゃるようなので、フォローさせてください」ってな経緯で文通するようになったの。要するにファンとして懐かれちゃったわけよね。その子が Parvāne の1stアルバムを買ったときの伝票、未だに残ってますよ。ただ、こちらが指定した口座への振込とはまったく別のやり方で入金してきやがったので、さすがに文面上で嚇怒しましたけどね(いま読み直すと面白いよ、商品発送通知と勝手な入金方法をとったことへの罵倒が一緒に書かれてるメールの文面笑)。その時点で絶交しまして、さすがにこの横浜在住の中退プロテスタントくんより低い知能程度の人間に出逢うことはこれからも無いだろうと思ってたところ、先述の学生さんが新たに現れたのでありました。中退プロテスタントくんは高卒だったのでまあ仕方ないかと思ってましたが、こちらの学生さんはそれなりにまともな大学の内部者っていうのが一段とスゴ味を加えてましたね。前述のとおり人文学生として当然備えているべき学殖すらまったく無いまま「自分の意見」みたいなのを言いたがる子だったし、正直なところ、彼もとある点で音楽をナメきった態度をとってきたので一線を越えたとは言えるんですが(救いようのないバカの特徴は、その領野において分かち持たれている当然の規矩をも容易く踏み越えて侵してくることです)、もうキツいお仕置きすら無しに放流しました。その学生さんのパーソナリティを喩えるならばそうだなあ、半額の割引シールが貼られていたとしても誰にも買ってもらえず閉店後のスーパーのバックグラウンドで腐っていく牛肉みたいな存在だったので、彼はきっとこれからもゆっくりと蛆が湧いていくだけの人生にご満悦でしょう。そういう生き方が正しいと思ってる人間もいるんですよ。しかし、哲学や詩学に携わってるふうの人間の言うことが語の原義レベルで間違ってるって、一体どんな努力をすればそうなれるんでしょうね? おしえて!蛆くん!

 これら中退プロテスタントくんや白痴の学生さんなどの生態を検分していて必ず思わされるのは、「この子たち、よくこの年齢になるまで殺されずに来られたな」ってことです。端的な事実だけども、人間は他者に対して越えてはならない一線を侵したら殺されます。『セデック・バレ』って映画知ってるでしょ? あのセデック族にとって、日帝による統治がどうでもよかったわけないんですよ。あるいはムスリム(ムスリマ)にとっての多神教崇拝強要が、16-17世紀キリシタンにとっての棄教強要が、どうでもよかったわけないんです。だからそれを強いた側を殺そうともするし、実行によって殺されることも辞さない。不勉強な人たちは「日本仏教」なるものを寛容で平和的なものと見做したがりますけど、一向宗も日蓮宗も本願寺も血まみれですよ。人間は越えてはならない一線を侵してきた相手を当然に殺すものなんです。この例外たりうる文化圏なんかある? 無いね。 “あらゆる優れた作品は、それがどれほど身近に感じられる主題と戯れていようと、わたくしたちの誰にとっても、「純粋の他者」として姿をみせるもののはずではなかろうか。そして、田舎者と呼ばれる人種は、「純粋の他者」性というべきものを、既知の領域にとどまったまま考えようとする者たちなのだ” とは蓮實重彦の至言ですが、これに準えると『悪魔のいけにえ』は洗練された都会の映画だったと謂えます。勝手に入ってくる旅行者たちが田舎者で、レザーフェイスたちが都会者。『セデック・バレ』はもちろん大日本帝國軍が田舎者で、セデック族が都会者。命のやりとりの契機が「純粋の他者」性と関わるなんて、言うまでもないでしょ。そしてその一線を侵すのは、いつだって先述した中退プロテスタントくんや白痴の学生さんみたいな、自身の度を越した愚かさを疑いもしない田舎者どもなの。
 飛躍するようで話は繋がってるんですが、20世紀以降ってのは「どうでもよい者がどうでもよい殺され方をする」時代です。アラン・ムーアが『フロム・ヘル』で展開した「20世紀的な大虐殺の先鞭は、切り裂きジャック事件の時点で既につけられていた」という見立てを思い出してみればいい。切り裂きジャック事件ほど「どうでもよい者がどうでもよい殺され方をする」典型例として相応しいものって無いでしょ。さらにこれはフーコーの引き写しですが、探偵小説や推理小説ほど安全に飼い慣らされているがゆえに退屈な作品も無いのです。シャーロック・ホームズから我が国のコドモ探偵にいたるまでね。コナン・ドイルがアイリッシュという大英帝国内マイノリティの出自を持ちながらゴリッゴリの保守反動派だったことなんて誰でも知ってるでしょ。そもそも英国にとって「人種的マイノリティこそが保守の尖兵となる」ってのはエドマンド・バーク以来の伝統ですらあるけどさ。さらに英国がヤバいのは、「左派がいきり立って反抗すればするほど国家の全体がより一層確固として保全される」ってことなのよ。トム・ヨークの政治的アティテュードがカッコいいとか信頼できるとか思ってる人たちはこのレベルの認識すら持ってないのかもしれないけどさ。

「どうでもよい者がどうでもよい殺され方をする」時代が20世紀以降であると仮定して、「どうでもよくない者がどうでもよくない殺され方をする」世界はどこにあるのでしょう? 言うまでもなく、悲劇の中にありますね。とくにギリシア悲劇です。「悲劇」は語源的に「山羊の歌」を意味しますから、「なぜこの存在が屠られなければならないか」についての法的問いかけと説明と刑罰の具体的執行までがすべてセットで内蔵されている。もうニーチェの理路なんか全部飲み込めてる前提で進めますけど、アテナイ民主制にとって劇は「なぜこの者がこのように裁かれなくてはならないか」を示す、政治的かつ法的な「真理の上演形式」だったのよ。さっきイングランドの伝統をディスったばかりですけど、このへんはシェイクスピアの悲劇を読んでいてすら解りますよね。『マクベス』がなぜ裁かれなくてはならなかったかなんて明白でしょう。「自分を滅ぼす犯行のゴーサインを自分で出してしまった人(しかしその命令は外部から来たと思い込んでいる)」または「自分で自分を裁くことにした人(しかしその実行は外部によって力づけられたと思い込んでいる)」の劇ですあれは。
 ここまで読んだ時点で、人の生き死にを見せる「真理の上演形式」=悲劇が文学作品とも直接関係することは自明でしょう。それは「どうでもよくない者がどうでもよくない殺され方をする」形式を前提とすることも。逆をとれば、「どうでもよくない者がどうでもよくない殺され方をしない」形式こそが喜劇だと謂うこともできます(もちろん原義は「隊列を組んで歩くこと」ですけどね)。これを文学でやったからこそジョイスは偉大なのよ。彼の語録で「(『罪と罰』を耽読する息子に対して)罪も罰も書かれていない小説にそのタイトルはおかしいね」という印象的なものがあるんですが、上述の理路を踏まえたならこの意味は明らかでしょう。『罪と罰』は「どうでもよい人間がどうでもよい人間をどうでもよく殺す」小説だから、原理的に悲劇でも喜劇でもないの。だから『罪と罰』は小説として二流以下なんですよ。ナポレオン崇拝的な偉人妄想に取り憑かれた男が金貸しの老婆を殺すつもりでうっかり善良な親族まで殺しちゃったなんて話さ、これが「どうでもよい者がどうでもよい殺され方をする」だけの話じゃなくて何だっていうの(「ラスコーリニコフが斧を振り上げたとき、その刃は自分に向けられていたので、つまり彼は老婆を殺す直前に自分自身を裁ち切っていたのだ」なんていう、面白くない小説に相応の面白くない解釈も含めてね)。さっき “探偵小説や推理小説ほど安全に飼い慣らされているがゆえに退屈な作品も無い” って書いた件とも全く同根ですよ。『罪と罰』のポルフィーリーが『刑事コロンボ』のモデルだなんて話は誰でも知ってますね。この退屈さに気づいていたからこそ、ジョイスは自身畢生の人間喜劇こと『ユリシーズ』で「見せびらかしの殺しが一切存在しない(人が殺されることが作品の推進力を担っていない)」形式がありうることを示したのよ。寝取られ男と不貞女が同じ床に横たわるあの結末において、一体どれほどの正義が示されていることか。と書くと「いや文学の中の正義だなんてそれは価値観の押し付けで他人を変えることの限界を知るべきで」なんて怯える輩が出てくるでしょうけど、劇自体が政治的かつ法的な「真理の上演形式」なんだからそれは正義と直接関わるものであって当然だろ。そんなことすら解らないのは文学に対して寸毫も携わったことがない人間だけ。ジョイスは解っていたからこそ「『罪と罰』は殺人を主題に置いているにも拘らず、正調の悲劇に要請される裁きが一切存在しない。なぜならその小説は最初からどうでもよい者がどうでもよい殺され方をするだけの話だからである。したがって、『罪と罰』には罪も罰も無い」と明晰に見抜いていたし、人が殺し/殺されること自体を全く問題としない喜劇として『ユリシーズ』を書いた。あのねえ、こうやって読むものなんですよ世界文学ってのはさ。さらに私の『χορός』はどうだったかというと、「誰も殺されない日常の話かと思わせつつ、実は犯罪的な殺人が行われていたし、それに対する裁きも平然と進行していた」っていう構成にしましたけどね。まあジョイスのあとに小説書くんならこれくらいできなきゃダメでしょ。

 話を戻しつつまとめますけどね、21世紀前半人の我々は、「どうでもよくない者がどうでもよくない殺され方をする」=悲劇と、「どうでよくない者がどうでもよくない殺され方をしない」=喜劇の両方を、常に政治的かつ法的な形式として具備しておかねばならないの。「取り戻さなきゃいけない」なんて謂ってないよ、我々は実のところそれらを常に備えているのだから、疎かにしたならば必ず具体的な頽落が出来するってこと。近代民主制(それは近代的ではあるかもしれないが民主的では一切ない)ってのは、あらゆる人間を「どうでもよい人間」に仕立てる装置だと言わざるを得ません。考えてみなよ、ネタニエフやプーチンやトランプやスナクが「どうでもよくない殺され方をする」未来なんて想像できるか? 「どうでもよい殺され方をする」か「どうでもよい殺され方をしない」未来しか待っていないでしょう。それは「主権者」こと我々とて同じなんですよ。企業に使い潰されて過労死しようが、投資で儲けて世界一周旅行しようが、そこには「どうでもよい人間がどうでもよい殺され方をする」か「どうでもよい人間がどうでもよい殺され方をしない」生の形式しか残されていない。「その “人間のどうでもよさ” ってのはどう判断するんだよ」って反問がありそうですが、すでにジョイスの件で説明したでしょ。彼は「人が殺し/殺されること自体を全く問題としない喜劇」こと『ユリシーズ』を書くことで、道端の浮浪者やパブの酔っ払いも含めて「どうでもよい人間」などひとりも存在しないことを証明した。逆に謂えば、ジョイスがここまでやってくれたからこそ辛うじて証明された得たのであって、人間が無知無策であればこのような観念は共有されさえしないってことです。それこそ「どうでもよい者がどうでもよい殺され方をする」小説こと『罪と罰』みたいなのに萌え狂う奴らばかりになってしまうかもしれない。さっき確認したばかりでしょう、これは政治的かつ法的な正義の問題だって。
 ここまで読んでなんとなく湧いてきた疑義をコメント欄なんかに書きたくなってる人はさ、悪いこと言わないから『テーバイ攻めの7将』でも読み直してきなさいよ。あれは凄い。あれが究極。あらゆる意味で凄いけど、ソフォクレスあたりを読んでると「人間たちに対して無慈悲に発狂の刑苦を与える役割」と割り切ってしまいがちなコロスたちが、『テーバイ攻めの7将』では一貫して恐慌状態で嘆き悲しんでるのが特にヤバい。オイディプスもので「血と地によって相続された狂気」をここまで明確に焦点化してるものは他に無いし、それが死によってしか償われ得ないと前提されてるのも凄まじい。つまり「存在自体が有罪な血族や住民たちがいる」って真実を見せちゃってるわけですよ。これを読んでる人の大半にはさあ、「自分の出身地の父祖たちはああいうことをしちゃったから、その後裔たる我々は殺されてしまってもしょうがない」または「自分の出身地の父祖たちはああいうことをされちゃったから、その後裔たる我々は殺してしまってもしょうがない」という類の意識すら無いでしょ? 私には有るよ。鹿児島出身だからね(笑)。市で一番の観光地に銃弾の痕がいっぱい残されてる環境で育ったんだから、「いつか私は会津の人からいきなり殺されても仕方ないなあ」と若い頃から思ってましたよ。生まれつき有罪な血(地)の人ってのは存在するわけ。このように人間として当然の有罪性に関する意識すら無しに生きてるから、イスラエルによる虐殺(かつて虐殺された立場の人々による、しかしかつて自分たちを虐殺した側とは無関係な人々への虐殺)を前にしても有効な言辞ひとつすら吐けずにずーっとメソメソしてなきゃいけなくなるわけよ。

 私は端的なジョイス主義者ですから先達のマニフェストを愚直に反復しますが、この世界に「どうでもよい存在」なんてひとりもいません。ただ、後天的かつ人為的に、ある者たちを「どうでもよい存在」に変えてしまう具体的な手続きが存在するだけ。私が直面した中退プロテスタントくんは、自己愛的な聖典の読み方や出来の悪い文学の摂取方によって「どうでもよい存在」に成り果てていたし、つい最近文通したばかりの白痴の学生さんも、学校で質の悪い教師によって仕込まれた栄養失調人文学によって「どうでもよい存在」に変えられてしまっていた。これらすべての様体は人為的かつ具体的な諸制度がもたらした結果でしかなく、それらを破壊すれば「どうでもよくない者」たちの世界は容易く維持されうるのです、「どうでもよくない者がどうでもよくない殺され方をする」・または「どうでもよくない者がどうでもよくない殺され方をしない」世界は。この様体を20世紀において具体的に見出すならば、それは革命以降のキューバ以外に無いでしょう。なぜなら、「どうでもよくない者がどうでもよくない殺され方をした」=ゲバラと、「どうでもよくない者がどうでもよくない殺され方をしなかった」=カストロの両極例が、かの地の建国史のもといを成しているのですから。やっぱキューバ素晴らしいよ。20世紀においても人類史の伝統を、直接、衒いも無しに引き受けていた。

 以上述べてきたことを具体的に実現するには、音楽の力を用いるより他にありません(「いままで劇と文学について説明してたのになんで音楽の話になるんだよ」と不勉強な子たちの声が聞こえそうですが、ちゃんと辞書引きなさいね。 χορός の原義には音楽と演舞の区別すら無いぞ)。とくに休符の力が総動員された音楽を実演し、それに合わせて踊ることでしか。次に述べるのはいかにも音楽をやってない輩が東洋哲学ふうのエッセンスで語りそうな戯言に似てますが、でも事実である以上は書くよ。休符は「演奏しない」ことを意味しない。「演奏しないを演奏する」のであって、そこに無音が存在しないことを前提として続けるための記号なのです。前段落で述べた「どうでもよさ」と「どうでもよくなさ」のオン/オフがここでも響き合っていることが解るでしょう。「どうでもよくない者」を「どうでもよい者」にしてしまわないためには、「演奏しないを演奏する」記号こと休符の力が必要不可欠なのです。自らを含む集団性がそもそも嵌まり込む必要すら無い陥穽を予め避けること。それは「ないことがある」状態を知ることなしには絶対に為され得ない。「どうでもよくない者が存在する」と知るための、悲劇と喜劇の形式に則ること無しには。そして政治的かつ具体的な「真理の上演」形式の内部に存在する我々は、いつでも「どうでもよくない者」として、「どうでもよくない殺され方」をしたりしなかったりすることに同意しなければならない。たったそれだけでいいのです。これら人間の生にまつわる諸様体は、我々を当たり前に取り囲んでいる世界を当たり前のものとして受け入れるだけで獲得され、これからも維持される。

 我ら Parvāne は、8月7日の Utero における演奏にて、以上のことを容易く証明しようと思います。音楽の演奏の場は素晴らしい。とくに有料の場は。なぜなら言い訳だけの輩はそこにひとりも来ない場所だから。我々は新しくはないが近代的な検閲によって聾されている人々にとっては新しく響くかもしれない拍の分割と、古色蒼然としてはいるが近所で売ってる駄菓子しか喰ったことのない子供には新鮮に感じられるかもしれない口吻の技巧によって、本文で述べた事項をすべて実際に上演いたします。そこに居るであろう人々全員の生を祝福し、と同時に殺し、次の瞬間にはもう生まれ変わらせてやる。過去のダンスと未踏のダンスの両方を、平然と同時に救うために。



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