「描かれたものしか愛せない」と「よかれと思ってパワー」について(西暦2021年9月12日)

 以下に引用するのは、西暦2021年9月12日、筆者こと田畑佑樹が兄たるムスリムに宛てた私信から(相手のパーソナリティが特定されうる文言のみを削除したうえで)抜粋した文である。
 再度強調しておくが、この文が書かれたのは西暦2021年9月12日の時点である。この日付を銘記したうえでお読みいただきたい。



 本題です。いつかまとまった文章にしておかねばと思うだけだった、この国に蔓延しているふたつの病理をここに書きます。「描かれたものしか愛せない」と「よかれと思ってパワー」。このふたつをありのままに認識することができれば、貴兄にもなぜ私と同年代の輩がこれほどまでの不毛に陥っているかがお分かりいただけるかと思われます。

「描かれたものしか愛せない」


 ピエール・ルジャンドルは、フランスの紋章や広告を自在に引用しながら自らの国に蔓延る「マネジメント原理主義」の「狂信」を明らかにするという方法論をお持ちなので、小僧ながら私も真似してみます。

 上の画像群を挙げた理由は、 “視覚優位な中での、たまたま陰影の揺らぐ中での、立ち現れた神性、それを永遠に続く像として、永続化の願望の投影、尺度の万能感を担保し、喪失の不安を代償する実体なきもの” という貴兄による「偶像」の解明によってすでに明らかでしょう。これらのように「描かれ」ることになった元の人間はもちろん実在するわけですが、なぜか上に挙げたように illustrate されているわけです。いやむしろ、以前使った animate という語を使う方が分かりやすいでしょう。この「〔無生物に〕霊魂を吹き込む・活性化させる」の意味を持つ語は、原義とは正反対に、「描かれたものしか愛せない」という現代日本人のフェチシズムを下支えするものになっているからです。

 そもそも、なぜ肉体として存在する者をわざわざイラストとして animate しなくてはならないのか? いたずらに長文化するのを防ぐために簡潔にいきますが、それはもう「血肉を持たず温度も無いが・しかしそのように描いた私には一切の不快感が含まれない姿」への閉じたフェチシズムが常態化してしまったから、と言い切って差し支えないでしょう。そのように描いた自分の手指と地続きのところに存在する肉付きの安倍晋三ではなく、自分の animation によってあらかじめ不快感が取り除かれたもの、貴兄の言を引用すれば “喪失の不安を代償する実体なきもの” の姿に見惚れることによって、予期されていた失望を回避する。その手続きによって自分は現実の与党や党首の実相を不問のままに済ませることができるわけです。もちろんそれが、目の前に厳然として在る問題への勘案を先送りしたばかりに心身の消耗が蓄積する、精神分析でいうところの「解離」の機制を前提としていることは言うまでもありません。

 そして次に挙げた画像は、私が「ああ、ついに河出書房新社も陥落したか……」と嘆ずるきっかけとなった一冊の本 、その作者による「哲学書をカジュアルに紹介した漫画」(出版社情報)から選ったものです。

 私自身この本を読んだわけではありませんが、ネット上に公開されているだけでも膨大な量なので内容は知っていました。そこではエマニュエル・レヴィナスが、憲兵のような服装でダヴィデの星がついた帽子をかぶり「他者性警察」というキャッチコピーがつけられてさえいるわけです。このようにして「哲学する楽しさを広める活動」(出版社情報)をしていた大学院生は、河出から声がかかって本を出すこととなった、と。
 率直に言って私は、この作者に「その六角形の星のシンボルマークが、ナチスドイツ支配下のシナゴーグにおいて、また戦後のシオニズムからいっそう世俗化したイスラエルナショナリズムによってどのような意味を持って使われたかご存知ですか? またあなたは、レヴィナスのような哲学者を取り扱うときでさえその内容から完全に政治性を削除してしまいますが、それはなぜですか?」と直接質問しようとさえ思いました(匿名の質問箱サービスを開放しているので、技術的にもそれは可能)が、やめました。そんなことをしたところでこの作者から帰ってくるのは、自分と研究対象の哲学者・両方の知性を見くびり冒涜し侮辱した微温極まりない文章に違いないし、そんなものを読んだところで一層この国の大学組織と出版社への失望が強まるだけだったからです。

 哲学ですらこのような有様です。主著をすべて河出から出しておられる佐々木中さんが、講義にて「河出書房も経営苦しいんでね、もうちゃんとした本出せなくなったそうです。代わりに編み物の本出すんだって。日本の出版もうダメです」と諦念たっぷりに語っておられました。その気持ちもわかります、あの精巧極まりない(少なくとも私にとって原著を辞書で引きながら読むきっかけを与えてくれた)『ツァラトゥストラ』佐々木訳を出している会社が、同時にこのような汚物を売り捌くようになってしまったのですから。ちなみに佐々木さんは「キルケゴールが良いとか悪いとか言う奴らはさ、そもそもデンマーク語原典で読んでるのかよ?」と苦笑混じりに仰ってましたが、上述の「哲学書をカジュアルに紹介した漫画」の作者がキルケゴール専攻だった(それもツイートを見る限りデンマーク語は読めないらしい)という事実も、何か重い笑いをもって迫ってきます。

 上述した「描かれたものしか愛せない」病が、すなわち「他者と自己のイメージ両方の搾取」にかかわっていることを強調しておきたいと思います。


〔「よかれと思ってパワー」のほうは有料公開記事にのみ収録。よって中略〕

 以上、「描かれたものしか愛せない」と「よかれと思ってパワー」。このふたつはどちらも「他者と自己のイメージ両方の搾取」にかかわっていますが、もうこれ以上詳述する時間がありません。



 2年と11ヶ月前のオリンピック期に書かれた私信からの抜粋は以上である。
 今になってこの文を公開した理由はこちらから申し述べるまでもないだろう。「よかれと思ってパワー」の項で私がクリストファー・コロンブスを介して明らかにした見立ては、2ヶ月前に発表された某バンドの、文字通り末生うらなりのリンゴのように低能で衰弱しきった知性と感性に支えられたミュージックビデオの内容によって、寸分の違いもなく現実化した。
 である以上、今度は「描かれたものしか愛せない」の精神性がやらかすことになるだろう。と筆者が確信することになったのは、X(旧 Twitter)上における以下の投稿がきっかけであった。

 生身の肉体として存在するオリンピック出場選手の容姿を、この者は、なぜ、わざわざ自らのペンによって模写しなくてはならなかったのだろうか?
「イラストを描く者として、この選手の優れた体幹のバランスを学習したかったからでしょ」と純朴な者は言うかもしれないが、絶対に違う。その理解では「ポケットに手つっこんでるのほんまありがとう」という、「わたしの視覚的フェティシズムを満たしてくれるものを提供してくれたことに感謝します」式の俗情に濡れきった文言への説明がつかない。
 予告しておく。上に引用された「描かれた者しか愛せない」日本国人の心性は、早晩かならず何らかの契機を伴って具体的な事件として露出することになる。その際に出来する不毛の規模は、まだ苦笑の域に留まってはいた「良かれと思ってパワー」によるミュージックビデオの件とは比較にもならないほど巨大かつ広範であろう。



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