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ヨークシンという、2020年代の日本で最も優れたバンドとして記憶されうる俊英たちについて
〔前略〕
そんなことよりヨークシンだ。我ら Parvāne の Queblick にてのライブ演奏における最大の果報は、岡山から来訪していたヨークシンという名のバンドに出会えたことであった。
彼らの演奏が始まり、ボーカルが入った5秒後にもう「あっ、やばい、良過ぎ」の次元に持ってかれたが、ここで私の拙い感想などを綴る気はない。読者に憶えてほしいのはひとつだけ、絶対に彼らをライブで観てくれ、ということだ。
ギター&ボーカルとおそらく主要作曲を担当する SOMA 氏のギターは、20世紀までのリフ主体ロックの構成を疎かにしないのはもちろん、曲中にたびたび差し挟まれるクリーントーンでのコードワークが尋常でなく巧みだった。マイナーセブンスを主とする・昔気質とすら言える伴奏の緻密さに加え、微妙なシャッフルのビートを絶えずキープしながらのコードストロークがとくに素晴らしい。良いギタリストを見分ける基準として、「他の楽器・とくにドラムスが鳴っていなくてもビート感(それは正確なクリック感とは必ずしも同じでない)を保てるか否か」が挙げられるが、その点に関して SOMA 氏は完璧だった。さらにギターとボーカルのみがビートをキープしている状態からドラムスとベースが加わる瞬間の、前後の拍が正確に保たれつつ各人の個性が同質のリズム内で発揮されるあの感じ。「これこそバンドの生演奏を聴きたいと思う理由だ」と、私は恍惚に浸りながらステージを凝視するしかなかった。
ベースおよびコーラスを務める Taylor 氏と、サポートメンバーというが彼以外の適任者は全く思い浮かばないほど演奏がハマっているドラマー氏(たいへん失礼ながら名前を訊き忘れた)に SOMA 氏を加えた3人それぞれは、音楽的バックグラウンドに共通するものを抱えながらも、基本的には異質の趣向を持っているのだという。 Taylor 氏はスケーター系の90年代パンクから日本のロックンロールバンド、ドラマー氏は主に70-80年代パンクロック(終演後の立ち話にて、私が The Clash 『Sandinista!』の名前を出した際に彼が見せた弾けるような笑顔が忘れられない)。たしかに前者はシド・ヴィシャス彷彿なプレシジョンベースのダウンピッキングとステージアクションぶりを見ていれば納得だが、同時に彼は指弾きでの堅実な演奏も見せる。これが SOMA 氏のディストーションがかったリフとクリーントーンでのコードワークの2面性と噛み合ったり/外れたりすることで醸される妙味は、音源や演奏を聴いたことがない人にすら伝わるのではないかと思う。そして後者のドラマー氏はラモーンズっぽくも10年前あたりからの日本バンドマンの典型にも通ずる髪型をしているが、しかし演奏は明らかにその枠を逸してタイトかつテクニカルなのだ。そこに SOMA 氏の「独りで既にバンド」としか言いようがない情報量のギターとボーカルが加わる(さらに SOMA 氏の衣装選びもささやかながら重要な要素である。彼は Queblick にての演奏で中華風のシャツとボトムスを着ていたが──上のほうを神戸の中華街で買い・下のほうは合いそうなものを後日見つけたのだという──、シャウト基調のボーカルにグランジ風のディストーションと繊細なクリーントーンを使い分けるロックスター然としたミュージシャンの衣装が中華風というのは、過去に前例がない組み合わせと言ってよいのではないかと思う。実際、あの衣装に箔押しのように刻まれていた模様の美しさは、場内照明のニュアンスと完璧なマリアージュを醸していた。もし彼らが長崎の中華街あたりで演奏したらそれはもう凄まじいハマりかたをすることだろう)。
この、メンバー各人の容姿から直接連想される音楽性と、実際に3人全員が混ざって発揮される音楽性とが必ずしも一致しないこと、ここにこそ2020年代的な豊かさがあるように思えてならない。たとえば THEE MICHELLE GUN ELEPHANT のように「全員同じ格好・そこから想起される音楽性も一緒」というのはいかにも90-00年代的な形象である。しかし現在においては、メンバーそれぞれが持っている音楽性が微妙に異なり、ステージ上のルックからも差異が際立つが、実際に鳴らされた音の完成度を前にするともう納得するしかない。という組み合わせの妙が実現するようになった。これこそが2020年代のバンドが当たり前に備えている豊かな可能性であり、それを最も端的に表現しているのがヨークシンのライブパフォーマンスだったのである。
実際、 SOMA 氏(彼と私が年齢的にどれほど離れているかは敢えて書かない)の持っている音楽的バックグラウンドの広さ・深さは驚くべく、我々は終演後すぐに20分ほど休み無しに音楽を談ずることになった。彼が「昔のロックっていうか、ブラック・サバスみたいなのも好きで」と言ったとき、私の裡には納得感しかなかった。彼が最後から2番目の曲で弾いていたリフが、開放弦→3フレット→5フレット→6フレットまでいって下がる という、ブラック・サバスに典型的な減5度の音を活用した構造で、私も20代の頃にその種のリフを際限なく作っていたからだ。前述した構造を持つリフにはサウンドガーデンの『Outshined』も挙げられる。 SOMA 氏は即座に「サウンドガーデンは自分も好きだがドラマーが一番グランジに入れ込んでいる」と返したが、彼のボーカルスタイルから直接的に彷彿としたのはクリス・コーネルその人であったため、もちろん違和感など一切無かった。「常にギターを弾きながらクリス・コーネル的に唄う」のにどれほどの技術が要求されるかは説明するまでもないだろう。そして、サウンドガーデンの『Outshined』は私が常日頃からボーカル練習のために唄っていた楽曲だったのである。
ここまでの内容ですでにお解りのように、私は終演後にヨークシンのメンバー全員と語らい、さらには心底意外なことに、彼らからも旺盛に私の Parvāne へのフィードバックを寄せてくれた。イエスとピンク・フロイド(デヴィッド・ギルモアのソロも含む)の全アルバムを聴いているという SOMA 氏から「あの歌詞を書いてるときはどんなことを考えているんですか」と訊かれたことは、降って湧いたような驚きであった。もちろん私は音韻と文意の両方を一切疎かにしない作詞を心がけているが、生演奏の場ではまず謎の言語にしか聞こえず、歌詞の内容に注意を払ってくれる客など当分は現れないだろうと思っていた。しかし SOMA 氏は初めて演奏を聴いた時点で私の作詞に興味を抱いた、ようなのだった。さらには「(Parvāne を観て)うちらもあれくらいやっていいのかもと思えた」と、「岡山にはペパーランドという老舗のライブハウスがあるから是非いつか出てほしい、絶対に合うから」と、果てには Taylor 氏も「いま作ってるアルバムがあるんですが、そっちのほうはもう絶対好きなはずですよ」と言ってくれたのは、私にとって剰りに多くのことを意味していた。つまり彼らは、我ら Parvāne の演奏を観て、「今日見せた音楽性がヨークシンのすべてじゃない、まだ色々やれるんだってことを見せてやりますよ」と、焚き付けられたことになる。他ならぬ当の私こそが、ヨークシンの演奏を見て、そのあまりの豊かさに、敗北感を遥かに超えた充実感を恵んでもらった側だというのに!
こんなに価値あることがあるか? こんなに意義あることがあるか? 嬉しいとか誇らしいとかいう次元の話ではない。こういうことを起こし続けるために、我らは音楽を続けなくてはならないのだ。前半部分で書いたように、 Queblick での我ら Parvāne の演奏は(様々な事由が重なって)到底満足できるものにはならなかった。しかし、あれを聴いて決して他人事ではない気にさせられた者たちが、少なくとも場内に3人は存在したことになる。これなのだ。これと同じことを起こし続けるために、すべてのミュージシャンは自分の仕事を続けなくてはならない。
同時に、2024年9月17日の Queblick に集ったすべての出演者たちにも敬意を捧げたい。ヨークシンと同じように私は彼(女)らとも対話の場を持ったが、 Parvāne の音楽がいわゆる直系の「ブラックミュージック」に根差していることを一言で指摘してくれた人さえ居た。そして彼(女)らは、年齢的に私と同世代とは全く言えない若さなのである。
ヨークシンは、数分後にでもいきなり日本の音楽界のメインストリームにて認知されるべきバンドだ。彼らにはそれだけの実質と経験と才能と、何より外連がある。私こと田畑佑樹の Parvāne は、まず東アジアの混血地帯たる九州から、一般的な音楽のリズムの変容を通して人間の時間感覚までをも変革するためのプロジェクトであり、スターダムに躍り出ること自体は目的としていない。しかしヨークシンには、日本国の心臓にいきなり飛び込んで即刻仕留めるだけの天分が間違いなく備わっている。いって、やってくれ。そしてまだ知らない人々は今すぐ聴いてくれ。公式にアップロードされている音源でもいい。しかし何よりもまず、ヨークシンを目の前に据えてのライブ演奏を聴いてくれ。そこにすべてが在ったからこそ私はここまで説得された。きっとあなたもそうなるだろう。彼らは旺盛に日本全国でのライブ演奏を行なっているようだから、あなたの住所近くでも必ずチャンスがあるはずだ。
もしこれを読んでいる者が、私のことをどれだけ狷介で固陋な奴だと思っていたとしても構わない(現にそういうことばかり書いてきたしな)。私は言語のうえでは偽ることができるのかもしれないが、それさえどうでもよい。なぜなら音楽家は、ステージの上では一切の嘘が吐けなくなるのだから。このテキストは、ヨークシンと Parvāne というバンドの成員が、互いに一切誤魔化しのきかない姿を見せた結果として生まれたものである。
そんな経験をもたらしてくれたバンドが他ならぬ岡山から来てくれたのは、私にとって思いもよらぬ/予想通りのことであった。あらゆる土地は、外から来た血の力によって良くなるのだから。 Queblick でのMCで私が述べたこと(Patreon サポーター会員限定公開)も、まさにそのことを言い当てていた。もちろんこのMC用の台本が書かれた時点では、「岡山から来てくれた人たち」からここまで感銘を受け、なおかつそのメンバーも『革命』を唄っていて、直接対面してゲバラの話をすることになるとまでは思っていなかったけども。
以上、あらゆる試みは思いもよらぬ形で挫折し・思いもよらぬ形で報われる。我ら Parvāne は引き続き音楽を続行し、10月26日に福岡 Peace にて演奏の場を持つ。その前に2回の綿密なリハーサルを経るので、当日のバンドコンディションは最良であることを確約しよう。参集を願う。我々の予想もつかない未来の、我々の予想もつかない実現のために。
本稿の全文は、 Integral Verse Patreon channelの有料特典として限定公開される。