「直接民主的」な主体たちの到来を予期する(2024年USA大統領選にまつわるソーシャルメディア上の反応を分析に供しつつ)
ハリスかトランプか以前に、私は「そもそも何故あなたは、大統領制などというものがUSAに必要だと思うのか?」と訊きたいように思います。この疑問はもちろん第一にUSA市民たちが対象とされるべきですが、先の大統領選なるものに関する言説を見る限りでは、日本国籍を持ち・普段から日本語を読み書き話す人々に対しても向けられるべきだと思いました。前記の疑問をさらに具体化させるとこうなります、「USA大統領選に投票する権利を持たないあなたがた日本国籍人は、そもそも何故USAにおける大統領制を必要な制度と考え、なおかつその結果に関して一喜一憂するための欲望を相変わらず確保できてしまっているのか?」
先の大統領選なるものの言説を盛んに発信している日本国籍のXアカウント保有者たちのなかで、上記の疑問に答えられる者はひとりも居ないように思われました。虚心に読むところ、彼(女)らはハリス対トランプという対決の構図を「USA市民はまだ良心を示すことができるか」の実験場として見做しており、トランプの勝利をもって良心の敗北と結論付けたようです。が、21世紀以降の大統領選の結果とその余波を考えるだけで、そもそもこの「投票による代表者の選出」自体が全くの機能不全に陥っていることは誰もが認識できたはずです、とくにネット上で各国のニュースを集めている類の人々にとっては。しかもUSAにとってはジョー・バイデンという、非USA市民の私ですら思い出すだにキツすぎて解離してしまいそうな最大ガッカリ案件が直前に在ったにも拘らず、少なくとも go vote を呼びかけるUSA市民たちは大統領制の有用性とその存続自体には疑問を抱いていないようでしたし、その様を見守る日本国籍アカウントたちも同様でした。
ひとまず以上を踏まえても、「いや誰が当選するか以前に、そもそも民主主義的主体(←主の字がこんなに重複すること自体がこの主体を構成する条件の煩雑さを物語っているようでちょっと笑ってしまいましたが)が真っ先に考えるべきは、大統領制自体を “もはや我々の現実を代弁していない” と拒絶し・代わる統治の意志を民衆の側から示すことじゃないの? なんで相変わらず大統領選への投票に同意してるのよ?」ということに他ならず、これはハリスまたはトランプいずれの支持者にも向けられるべきだったと思うのですが、やはり当のUSA市民に上述の疑問は一切兆していないようでした。対して、アル・ジャジーラ英語web版には、USA国籍のアラビア系移民およびムスリム(ムスリマ)に対し「あなたがたは自身が重要な構成員のひとりとして数え上げられていない運動そのものに関わるべきでない」・「トランプが当選したとしてもあなたのせいではない」と呼びかけ、「それは長く卑屈なアメリカの伝統の中で、残酷さと無知が統治原則を導くものと考える数百万もの不寛容なアメリカ人の排他的な過失にすぎない」と結論づける記事が掲載されていました。いかにシビアな政治アナリストですら、これを「マジョリティが支配する状況下でマイノリティの抵抗力を放棄するよう呼びかける敗北主義」などと指弾することはできないでしょう。どころか、「いわゆる “民主主義” 国家内において文化・人種的マイノリティがその成員として影響力を持つことは、実際にはそのマイノリティ性に属する当事者たちの意見を反映せず/単なる国家の方針に裨益するマイノリティ出身のスポークスマンを増やすだけの結果にしかならない」という、ここ数年間で急速に前景化してきた詐術を前にしての失望をありのままに認識している民衆たちが当然持ちうる意見だとすら思われました。現在のアラビア系移民がUSA内部において抱いている大統領制への拒絶は、オバマがアフロアメリカン市民に抱かせた失望の深さと、バイデンがアイリッシュ&カトリックアメリカン市民にレーガン経由で喰らわせたセカンドレイプの甚だしさと比べても、最も重く強固なものとして在るのでしょう(そもそもイスラームに服する者にとって、国民国家のような「法人」への帰属とその体制の承認を前提として生きることは、偶像崇拝の強要=棄教とほぼ等しい意味を持つのですから)。それだけに、これほど多くの文化・人種的マイノリティが大統領制なるものに不満を抱きうる条件が揃っているにも拘らず、何故いまだに2024年大統領選の結果ごときに欲望を燃やしてしまえる人々があれほど多く存在したのかが不可解なのです。そして繰り返しますが、そこでの欲情の質はもちろん当事者=USA市民のみならず、選挙制度的には埒外に置かれているはずの日本国籍Xアカウント所持者たちにも同様に共有されていたのでした。
上述したのは、2024年現在における「間接民主主義的パトス」とでも呼ばれうる心的機制についてですが、翻って、「直接民主的」な在り方の質をここで仮設することもできるでしょう。ここで謂う「直接民主的」というのは、社会科の便覧程度の内容を越え、「治す文化」全般を担う共同性を指します。これには無文字社会におけるアクセサリーやダンスを用いた「統治」の在り方や、そこで行われる社会的な「病」の「治療」行為なども含まれ、もちろんこれをギリシア発祥の直接民主制になぞらえてしまうのは過度な一般化の倒錯を免れませんが、しかし一方で「ずーっと病み続けて・治らないまま・問題を保存するために社会を運営していく」という「統治」の形式などありうるはずもないので(←これはもちろんフロイト的反語で、「ずーっと病み続けて・治らないまま・問題を保存するため」に働く『快感原則の彼岸』的機制が在りうることを我々は既に知っており、むしろそちら側を分析に供することで先の大統領選なるものに表出していた病態の数々は具体的に説明されると思いますが、ここで述べると混乱するので後の段落に回します)、現状のUSAに代表される「間接民主主義的パトス」とは異なる・もっと古く・かつ広範な人間の生存形態を指すものとして、ひとまず「直接民主的」の呼称を採りたいと思います。
この「直接民主的」共同性の中で営まれる「統治」や「治療」に際しては、現在の我々が学科として認識している政治学や経済学や工学や薬学以前の、あらゆるバリエーションの存在が許されます。敢えて西欧白人側の視座に立っても、それが広義の音楽と舞踏、多彩な種類の織物や香具、「薬膳」などという呼称が付く以前の飲食物、これらあらゆる藝能の集合によって営まれる祭儀を必要としていたことは復習するまでもないでしょう。つまり、社会的な「治す文化」を担う者にとっては言語表現(とくに書き文字)のみが絶対視されることはないのです。
翻って、現状のUSAに代表される「間接民主主義的パトス」の持ち主たちは、何よりもまず電子画面上にフォント化された書き文字の世界を前提としており、そこで流通する物事には何でも一家言加えられる万能感と/同時にいくら文字数を費やしても射止めたかった真実が遠のいてゆく不全感との両方が、その成員たちの心的機制を万遍なく満たしているように思われます。これは先の日本国における選挙の結果(複数のソーシャルメディア上における投票振興と/それに反比例する形で低下したままの有権者投票率)に代表されるように、民主主義的主体が実際の肉体をもって存在する世界との乖離自体が頻繁にその主体たちを侵襲する運命にあり、それでもなお、先述のとおり現状のUSA市民たちは大統領選を自国の良心を問うために有効な実験場として見做し続けている。部外者たる日本国人からすれば、「いやあんた割れてるよその試験管、何やってんのずーっとそうやって何十年間も」とツッコミたくなるのですが、ブッシュ→オバマ→トランプ→バイデンと血の気が引くほどの失望の季節を経た後でもなお「さあ次の結果はどう出るか……」と底の抜けた試験管を振りながら科学者ヅラしている人々があれほど多く存在し得たのを前にしては、よほど直面を避けたい物事の存在がその執拗な反復を要請し続けているのだろう、と芸もなく20世紀フロイト派的な分析を加えるしかありません。前述したアル・ジャジーラが呼びかけた移民たちはこの純USA市民的な反復強迫を辛うじて逃れているとは思いますが、ここで焦点化した「間接民主主義的パトス」は、USA市民のみならずその「同盟国」たる日本国人の心的機制にも(それも自国内の衆議院選挙のみならず、他国の大統領選にも同程度の欲望を向けてしまえるほどに根深く)巣喰っている。というのがありのままの現実なのでしょう。
これら「間接民主主義的パトス」の持ち主たちが、「直接民主的」人物に真正面からぶつかった時の動揺は、計り知れないものがあると思います。ここまで縷述したように「間接民主主義的パトス」は、世界にありうる「統治」や「治療」の多様性を自国の制限内に縮減したかたちでのみ維持されるものにすぎず、それ以外のバリエーションによって自己や他人の健やかさを保っている者たちの存在は、端的な恐怖を備給される対象となる可能性すらありうるからです。そのうえテキストを絶対的な媒介物(←それがXのようなメディウム上で流通する過程では、「敵意や悪意の不在」を前提とする義務的な純化が行われてさえいる)として見做さず、音楽や舞踏や織物や香具や飲食物など、無文字社会にも当たり前に存在しうる芸能バリエーションを職能として持っている「治す文化」の担い手を前にして、「間接民主主義的パトス」の持ち主たちが「理解不能」の解離によって無感覚になるか/学童的嫌悪の文言を吐くか、いずれにしても条件反射的な状態に陥ってしまうのは、一般的かつ大衆的な防衛機制のパターンとして十分理解できます。が、ここで明らかになっているのは個人的な性質に起因する差異ではなく、ネット上の言論空間において涵養される精神性が、何よりもまず国家内の区切りを前提とした縮減と排他の原理によって成り立っている、その端的な構造に他なりません。それによって純化された悪意なき欲望がマジョリティ側の権益として蔓延したとき、もはや右も左も無い「全体」の空転だけが(部外者の視点からは)観測される。先の大統領選なるものは「間接民主主義的パトス」がネット上で流通する悪意なき欲望を不可欠の燃料とする証明以外のものではなかったでしょう。
しかしながら、今回の中継を見ながらひとつ確実に「新しい」と思ったのは、トランプの強硬的な支持者が表明する欲望にすら、もはや悪意が消失していたことでした。「移民は強制送還だ」のようなシュプレヒコールに悪意を認めずにいるのは不可能だろうと思われるかもしれませんが、先述した「ネット上に流通する欲望の純化」を踏まえると、「ある集団の一員がその集団性の同朋に対しピュア100%な意見を表する」という発生原理に関しては、ハリスとトランプの支持者どちらも共通しています。これは典型的などっちもどっち論ではなく、誰もが抱いているはずの「もっと世界を良くしたい」という欲望の発露が、先述したネット上の視野狭窄によってもたらされる国家内の区切りを前提とした縮減と排他の原理によってここまで容易く純化され、その結果として本来もっと多様な「統治」や「治療」の在り方を決定的に見失わせてしまう、この一連の結託関係について述べたものです。
よって、ネット上で単なる罵倒語として発される「原理主義」は、実際には政治や宗教の立場に発するものですらなく、上述の「原理」の数々を暗黙裡に受け入れた人々の「主義」、として理解できるでしょう。やはり厳密な語義を踏まえず・単なる罵倒語として発される「全体主義」もまた、2段落前の文末で明らかにした空転する「全体」の運営に奉仕する人々の「主義」をしか意味しておらず、その意味ではハリスとトランプの支持者いずれもが共通の「全体」に仕えていた、と見立てることすら可能です。今世紀においてナチス・ドイツの総統や党大会のイメージは、いわゆる「独裁的」と認定される政治家が登場すると必ず民衆側から持ち出される条件反射的なクリシェにまで堕して(=非政治的なイメージに漂白されて)しまいましたが、もし2024年現在、本当にナチス・ドイツ的状況もしくは体制が在りうるとしたら、それは「もはや党派の区別なく、ただ国家の名のもとに、できるだけ多くのことが不自由になってほしい」という欲望を共有しているソーシャルメディア上のそれが最も高い妥当性を示しているでしょう。ナチス・ドイツ的な心性があるとしたら、それは「自分が属する共同性もろともの消滅」に他ならないからです。どれだけイーロン・マスクを問題視し・反抗するそぶりを見せようが、Xユーザーたちは本質的に「自分が属する共同性」の持続を前提するしかなく、その場当たり的な糊塗の連続が、「自分が属する共同性」に内包されている諸問題そのものの非政治化を常態的に正当化し、結果として必然的な自滅へ向かっているだけなのです。ネット上で良心的であろうとする人々のほとんどすべてが、自分の欲望がいつのまにか別のものに差し向けられ・別の関門に通され・別の出口に導かれる一連の過程によって、決定的な非政治化を被っているのです。政治的マターそのものに言及しているときに最も非政治的な主体にされてしまう。というこの罠は、日本国においては原発事故以来・USAにおいてはトランプ当選直前から凄まじい速度で定着しはじめましたが、2024年大統領選なるものの始末が明らかにした「間接民主主義的パトス」の所在は、いよいよこれらの構造がソーシャルメディアユーザーと非ユーザーの区別なく、むしろソーシャルメディアユーザーと非ユーザーとがそれぞれ抱く現実認識が質的に全く異なること自体を病巣とし・そこに根城を構えることでUSA(とその同盟国)規模の病んだ精神性を蔓延させるにいたった、その自覚を我々全員に迫るものですらあるでしょう。
〔後略〕
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