穢れと気枯れと汚れ
*備忘録的なものなので、お付き合い的な「スキ」とかはしなくていいですよ。
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数日前のこと。kはこう言った。
「舐め回してケガレを浄化してあげるわ。
ケガレって穢れであり、気枯れってことね」
プレゼンの発表は直前で状況が変わり、用意した資料と内容が異なりながらも、なんとか終えた。「ご意見はごもっともだけど、私はこれ以上の対応はできない(むしろ、よくやっている)」という愚痴を、全く関係のない部署のkにラインする。
「疲れてる時ほどしたい」という私への言葉が冒頭のセリフだった。相変わらずすごいこと言うなと感心する。これはずいぶん昔からだけれど、仕事が多忙を極めてくると、私は交じり合いたくなる。自分の中の雄が活性化するというのもあるし、灰色になった頭を一旦、真っ白にリセットしたいと思うからだ。
「仕事で疲れてるのに、彼(旦那)とかに求められると困るよね。早く寝たいよね〜!!」という女友達に、「あっ、うん。。そうよね!わかるわー」と相槌を打ちながらも、「そういう時ほどしたいんじゃないの? そんなにマイノリティな思考なの?」とよく思ったものだ。カミングアウトした際には、如何とも形容し難い空気が流れたことを今でも鮮明に思い出す。女とは共感の生き物だから。
「穢れ」とは宗教的な概念で、「忌まわしく思われるような不浄なこと」とされる。その不浄さには「性行為」はもちろんのこと、「女性」「月経」までもが含まれていて、もはや何かが暴露されるのを恐れて、「不浄なこと」と定義してるのでは、と勘繰るほどだ。
少し脱線したが、つまり「不浄」な行為で「浄化」するとkは言ってるのだ。本人も「性器を舐めて浄化って、ちょっとすごいな」と笑うほどの盛大な矛盾を示す。
「穢れ」とはなんだろう。
果たして本当に「性行為」は「穢れている」のだろうか?
kと出会う前の私は、確かにそう思っていた。
当時好きだと思う人に対して、一時的にでも昂る性欲を認識した上で、お酒や雰囲気の力を借り、形式的に服を脱いで交じり合う。
残念ながら私の場合、その酔いは続かず行為の後、或いは行為の最中に「一体なんでこんなことをしてるのだろう?」と、正気に戻って自分を恥じてしまう。もしかしたら、男女関係なくそうなのかもしれない。
あなたもそうですか?
常に思考に囚われる私は、「遺伝子保存の本能が働いているだけで、湿度を持った場所に棒を出し入れしてるだけなのに、そこになんらかの感情を付帯しようとしてる」と、妙に冷めた感情で行為の後はどこかで思ってしまっていた。だから、「セックスの後は、後ろからぎゅっと抱きしめてほしい」という可愛らしい女性的な感情を持たないし、「またやってしまったけど、まあそういうものだ」と「穢れ」や「不浄さ」を自覚して、そっと蓋を閉じて、同じことを繰り返す。
「性的快楽」=「穢れ」という明確な公式があった。
だけど、kとはどうも違うのだ。
始まりは当然、性的興奮、快楽ではあるのだけど、そこからいつの間にか「その快楽の先に何か、見たことがない世界が広がってるのかもしれない」という好奇心や探究心に駆られて、違うステージにいく感覚がある。私とkに共通する特徴は「好奇心」「探究心」だから、そうであってもおかしくないし、不思議なことにkも同じように感じている。少なくとも私はkとの行為の最中に、自分の奥底へと潜る旅に出ていて、魂のような何かキラキラした世界と、目の前にいるkとの間を行き来する感覚がある。
思考は完全にどこかに行き、その世界に身を委ねる。まともなことなど言えるはずもなく、独り言のような言葉を呟く。
kとした日は、行為によって姿を少し現した魂のようなものが、この世界との温度差によって「結露」したかのように、私は涙を流す。悲しいわけでも嬉しいわけでもない。感情は伴わないのに勝手に涙が溢れる。
穢れや不浄はない。魂との交流という点で、むしろ神聖な行為だと思ってる。
私はサピオセクシャルだと自覚しているし、知的な人が性的な対象になるのは今も昔も変わりがない。
でも、だからkが好きとはならない。バックグラウンドを含めすごく頭のいい、良すぎる人ではあるけれど、そこと「好き」は直結しない。
不必要なことを徹底的に濾過できるkの思考が好き。
ごちゃごちゃした事象をkにインプットすると、キラキラした塩の結晶のようなものが出てくるところが美しく思う。
でも、そこが単純に好きだというわけではない。
その濾過された、塩の結晶みたいなkの言葉が私の感性に降りかかると、不思議な化学反応を起こして、何かが生まれる。kを愛しながら、自分の感性を再確認し、改めて自分の感性を愛することができる。そこが幸せに思う。
結局、自分が好きなんだろうけれど、それは自分勝手でも自己中でもなく、個々の魂がこの世で感じたいことの1つなのだろう。
相手に「こうしてほしい」と思うよりは自分勝手な思考とは思わないけどね、私は。誰かに思考でさえも依存したくない。
kとの関係が始まったのは、2年ほど前。
訳のわからぬほど未知との遭遇みたいな興奮の時期と、
自我が暴走してしまった時期と、
自分を見つめて、感性を愛でた時期とか色々あった。
インナーマッスルのようにそれらは蓄積されて、
「私は私」というシンプルな認識へと辿り着く。
ここのところ、kは妙に甘い。
出会った当初みたいに甘いkに、例えば「穢れ」の話をすると
あいも変わらずに更に深い話をしてくれるし、返答に時間がかかっていれば、わざわざ「ちゃんと返事するから待っててね!」なんて、今まで言わなかったことを言ってくれる。
私はずっとこの不思議な感覚をkに伝えてきたつもりだし、私の言葉に感心してるkに「おいおい、今更気がついたのかよ?」と心の中で突っ込むけど、このタイミングが正解なんだろう。
私はkに甘やかされずにきたし、「個々の魂は独立している」ことを私が心からわかる必要があったし、それには時間が必要だった。それがこの2年。
穢れでも気枯れでも汚れでも。
美しさも特別に感じることも。
全ての答えは自分にある。
判断基準を他者に委ねた瞬間に、
それは自分の綱を手放すことになり、
なんだかよくわからない「社会通念」に舵取りを許す奴隷と成り下がる。
魂なんて束縛できないのだ。
答えは私の中にしかない。全てにおいて。
kを含め他者が何を思うのかは私に関係ない。
それを本当にちゃんと理解できるのは、意外と簡単ではないように思う、
ある日の金曜日でした。