静かにしてくれ
それほど広くない部屋。
大きな窓。陰。
どこかで煙が上がっている。
眺めているのもいい。
カラスが飛んでいる。
カラスからは見えるのだろうか?
あいつは、何を羨ましいと思うだろう。
シャツの袖口のボタンを留める時が一番気持ちいい。
カラスには想像もつかない快感。
静けさだけが、貴族と庶民を分ける唯一のコンセプトだ。
庶民はうるさい音をたてる。
うるさい。
静かにしてくれ。
静かにしてほしいと叫ぶ俺は、貴族なのか?
だが、叫ぶという行為は、いかにも庶民だ。
その前に、貴族は自分が貴族かどうかなど気になどすまい。
自分が誰かもわからぬ俺は、まず、自分が貴族であるかどうかに思いを馳せたわけだ。
つまり、俺のアイデンティティは今のところ
「自分が貴族かどうかを気にするやつ」
ということになろう。
これは、一体どのような本質的な問題を暴露しているか。
実は、人間にとって、少なくとも俺のように自分が誰だかわからぬ人間にとって、貴族かどうかは重要な問題なのだ。(ところで、自分が誰だか知っている人間などいるのか?)
すなわち、自分は持てるものなのか、持たざるものなのか。
そして人は、自らを貴族以外の何ものにも定義できぬものだ。
「自分が貴族か否か」
という問いを立てた時点で、あらゆる人が絶対に自らを貴族と認定する。
どのような理路を通じてでも、自らを貴族と定義するのだ。
貴族でなければ、生きている意味などない。
問題は、自分が何において貴族なのか、ということだ。
俺は、静寂を求めている。
俺にとって貴族とは静寂であり、庶民とは喧騒である。
この唾棄すべき醜悪な波動を、いかにして排除できるか、少なくとも俺のいるところから。
だが、本当に聞きたくないのは騒音ではない。
俺自身の真実だ。
俺は、真実を聞きたくない。
ずっとこの幻想の中に生きていたい。
真実は残酷に、意識の切れ目や俺に興味のない他者を通じて容赦なく襲いかかってくる。
それだから俺はこうして言葉の砦に引きこもり、必死に真実に抵抗しているわけだ。
その女を「やっつけた」のは、彼女がまるで死人のように俺に興味がなかったからだ。
もし、わずかばかりでも俺に彼女と通じ合う何かがあれば、俺は彼女を「やっつける」必要がなかった。
俺を見る彼女の目には、まるで視力の気配がなかった。
俺は透明にすらならなかった。それ以下の何か、存在の陰圧がそこにあった。
俺は消えたほうがいいと思った。彼女の目はそう言っているように見えた。
そう、彼女の目は見ず、何か言うのだ。
本当に恐ろしい目とは、真実を語るものだ。
そうして、本当に死んでしまった男もいるに違いない。
だが俺は生き残った。
彼女を「やっつけた」から。
「やっつける」とはどういうことだ?
おそらく、手篭めにし、蹂躙し、陵辱したのだろう。
彼女の崩れたメイク、はみ出た口紅や流れるマスカラ、くしゃくしゃになった髪の毛、片方だけずり落ちた肩紐なんかの記憶がある。靴が転がっていた。
啜り泣く声も聞こえた気がする。
俺は良心の呵責よりも、清々しさに満たされていた。
女という商品は、脆い。
使用すれば価値が消却する。
放っておいても、価値が消却する。
それに引き換え、力はどうだ?
放っておけば集まってくるし、うまくすれば生きている間、存続する。
静かにしてくれ。
俺を放っておくことはできないだろうが、できる限り、関わらないでくれ。
なんでも言うことは聞く代わりに、俺の言うことを遮らないでくれ。
そう。
喧騒に吐き気がするのは、俺の言うことをそれで遮られるからなんだ。
貴族の高尚な思考を、庶民の凡庸な発想で遮るべきではない。
そうだろう?
だから、早くやってくれ。
そしてもう一度、俺を静寂の元に返してほしい。
(サドは裁判なしに投獄され、1803年にシャラントン精神病院に入れられ、1814年に没するまでそこで暮らした。)