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雅楽について

江戸時代以前の「日本」を一体何が残しているだろうか?

建築物?
それは素晴らしい仕事だ。
だが、現代を生きる日本人が建築をするとき、全く別のものを作るだろう。
文化遺産には、我々のリアリティはない。

浮世絵はどうか?
我々が浮世絵を評価するのは、それが我々の感覚を代表するからでは無い。ゴッホが認めたからだ。

我々が日本的だと考えるもののほとんどが、西洋に認められた日本か、あるいは近代以降の新しい文化だ。
真に古来の日本人が有していたものを我々はむしろ、異国の文化のようにして研究する。遠野物語は、我々の物語ではなく、遠野の物語だ。江戸時代以前の足元の日本を、僕らはアメリカ以上に遠いものにしてしまった。
息づき、脈動するものとしての日本は失われてしまったのだろうか?

その接続は、少なくとも意識できるレベルでは完全に失われた、と言わざるを得ない。それ自体は、悪いことでは無い。江戸時代と断絶したおかげで、通りすがりに刀で斬られる心配はなくなった。だが同時に、過去の日本を消し去ることはとり立てていいこととも言えない。野蛮と切り捨てられたものの中には、それが単にヨーロッパでなかったというだけのものがある。進歩に価値があるとしても、日本を切り捨てること自体を進歩だと信じた明治人の判断には問題がある。

では、人類は永遠に「古代の日本」を失ったのだろうか。近世あたりまで息づいていたものを、もはや掘り起こすことはできないのだろうか?

息づかいと脈動、まさにそれのみに限定すれば、我々には残されたものがある。それが音楽だ。
雅楽が、その姿を全く古代のまま残しているとは思わないが、少なくとも近世以降の変化は逆算しうる。ということは、近世の息づかい(フレージング)と脈動(リズム)それ自体は再生可能だろう。
フレージングとリズムを再現させることが可能であるなら、我々はそこから古代の身体感覚を想像できるはずだ。

多くの場合揶揄される対象である「閉鎖的なコミュニティ」は、ここではプラスに働く。東儀秀樹ほか一部のミュージシャンの仕事を除けば、雅楽はほぼ無菌状態でこの国の閉じた社会に保存されてきた。

ところで、そもそも古代の日本を復元することに本当に価値はあるのだろうか?
有史以来多くの文明が滅んできた。記憶の彼方に葬り去られることもまた、仕方のないことなのではないか?
それはそうなのだが、一点、指摘しておきたいのは、日本古来のそれこそ「息づかい」が、ヨーロッパには見られないものであると同時に、どうやらそれほど捨てたものでもなさそうだ、という事実である。

例えば、雅楽をはじめ、日本の音楽にはメトロノームが全く役に立たない美が存在する。古代の感覚をほとんど失った我々は仕方なくそれを「間」という言葉でまとめている。そこに何かあることだけは忘れないようにしよう、というわけだ。

その美しさが西洋音楽の美と決定的に異なるのは、全体構造の中で俯瞰的に説明することができない、という点だ。雅楽を美しく聴かせるであろうリズム感は、楽譜に書きおこして一覧できるものではない。刻一刻と発生し変化する類のものであり、その時点においてしか掴めない甚だしく主観的なものだ。

もはや我々はその価値観自体を理解することが困難になってきている。それを言い表す言葉に不足している。実際にはこの美的感覚自体は、西洋音楽にも普通に存在する。
例えばテンポの揺れがそれだ。テンポの揺れを決定するのは美的センスとか言われる。この曖昧な言葉も「間」と同じで、言い表せない何かに便宜的につけられたラベルだ。テンポを揺らす「美的センス」のような何かは、たまたま楽譜が発展したヨーロッパの音楽界において体系的な研究の対象になってこなかっただけで、主観的な時間感覚に基づく音楽体験の中には普遍的に存在する。

ヨーロッパは音楽を全体として俯瞰し、計画し、構築することを追究した。それに対し雅楽は「そうしなかった」、つまり、同じ道を進まなかった。だからといってそれに対抗しうる何かを打ち立てたわけでもない。師から弟子へとできるだけ同じ形で保存され続けた。

今更、西洋音楽に対抗してもしょうがない。それよりも西洋音楽からの影響を真摯に自覚した上で、古代の日本では日常であった感覚に触れることが有意義な体験だろう。

はっきりいって、雅楽を聞くだけでその身体感覚が復元されるわけではない。ただ、古代に通じる穴を覗き込むことは、お腹のゾワゾワするスリリングな体験ではある。うまいことハマってしまえば、我々は現代が抱える問題の方を「あちら側」として生き始めることができるかもしれない。

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