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銀座無双 アラブ石油王編2「ジョージの東京案内」

【シーン:張り詰めた会議室】

都内の高級ビルの一室に設けられた会議室。
無機質な白い壁に囲まれ、重厚な楕円形のテーブルを挟んで、10名ほどの幹部たちが一堂に会している。

だが、部屋に漂う空気は、まるで地獄のように張り詰めていた。
冷え冷えとした沈黙を破るのは、ただ一人。

榊原俊彦――帝東エネルギーの専務取締役であり、石油王サイード・アル=ラシードの東京滞在を手配する責任者が、激昂した様子でジョージを睨んでいる。

榊原の前には、ジョージが提出した「東京案内プラン」が置かれていた。案内は間も無くスタートすることになっている。
だがそのプランには、銀座の高級料亭や六本木の高層ビルのVIPルームなど、一般的な接待ルートは一切含まれていない。

榊原:「……これは、どういうことだ?」

会議室の空気が、さらに冷たくなった。
ジョージの勤め先の幹部たちも、気まずそうに目を伏せる。

榊原:「……冗談じゃない!」
榊原がプランをテーブルに叩きつけた。

榊原:「ジョージさん、これは“東京観光案内”だ。石油王に、こんな訳のわからない場所を見せて回ってどうするつもりだ!」
怒りに震える榊原の声に、ジョージの上司であるPR部長が慌ててフォローする。

PR部長:「白洲くん……もう少し、こう、伝統や格式を重んじた場所をだな……」
榊原:「そうだ! 東京にはもっと相応しい場所があるだろう! 料亭、ギャラリー、夜景を楽しめる高級ラウンジ……!」

しかし、ジョージは微動だにしない。
一人だけ、どこか別世界にいるような余裕をまとっていた。

彼は、ゆっくりと視線を榊原に向けた。

ジョージ:「それは、あなた方が案内すればいいでしょう」

その一言で、場の空気が凍りついた。
幹部たちがジョージを窘めるように目を向けるが、ジョージは意に介さない。

重苦しい沈黙が流れる中、榊原俊彦は、昨日のことを思い返していた――
あの「異例すぎる依頼」が、すべての始まりだったのだ。



オークションが終わった直後、帝東エネルギーに連絡が入ったのは、まだ夜が更ける前だった。
「サイード殿下が、白洲ジョージという男に東京案内を依頼したい、と仰っている」
その報告を受けた専務・榊原俊彦は、驚きを隠せなかった。

「……ファッションプロデューサー?」

当然だろう。
帝東エネルギーはラシード家の日本における長年のビジネスパートナーであり、滞在中のアテンドも自分たちの仕事の一環だった。
それが、よりにもよって若いファッションプロデューサー、それもオークションで国際問題スレスレの無礼を働いた男が名指しで指名されるとは。

榊原は、事実確認のために、ジョージの勤め先である高級ブランドのPR部門に依頼を持ち込んだ。

「特別な要人の東京案内をお願いしたい」

最初は曖昧な依頼だったが、要人がアラブの石油王であること、そしてその本人が白洲ジョージを指名したことが明らかになると、PR部門の幹部たちは顔を見合わせた。

ジョージは、その話を受けると、ほんの一瞬、考え込んだ。
そして、わずかに口元を歪めた。

「ほう……面白い話ですね」

幹部たちが状況を説明する間も、ジョージは退屈そうな仕草を見せることなく聞いていた。
だが、説明が終わると、わずかに目を細めた。

「つまり、世界中の誰もが注目する“石油王”を、僕が案内する、と?」

幹部が慌てて付け加える。

「ええ、ただし……通常の案内で構いません。銀座の高級店や料亭、観光名所を回る――」

「いえ」

ジョージは軽く首を振った。

「僕に案内をさせるなら、僕のやり方でやらせていただきます」



会議室の沈黙の中、榊原は拳を握りしめたまま、ジョージを見つめていた。

ジョージは、その視線を一切気にすることなく、微かに微笑んだ。

「――では、早速、案内を始めましょう」

【銭湯】

温泉施設「ゆ処 しのぶ」は、どこか時間が止まったような佇まいを見せていた。
古びた暖簾に「湯」の文字。軒先には年季の入った木桶がいくつも積まれている。

サイード・アル=ラシードは、その様子を眺めながら、どこか物足りなさを感じていた。
銀座の高級ギャラリーでもなく、格式ある料亭でもない。
目の前にあるのは、ただの温泉だ――庶民の風呂場に過ぎない。

サイード:「……あなたは、本当にここを選んだのですか?」

ジョージは、相変わらず涼しげな表情のまま、施設を一瞥した。

ジョージ:「ええ。ここも東京ですから」

サイードは答えに困り、視線を少し外した。
確かに、これは東京だ。だが、自分が見たい東京は、こういう場所ではないはずだ――そう思いながら、周囲を見渡す。

その時、不意に路地裏の一角が目に入った。
それは、温泉施設の裏手に延びる、細く曲がりくねった路地だった。

雨上がりの湿り気を残した路面に、錆びた自転車が二、三台放置されている。
塀には古いポスターが剥がれかけて貼られており、その上には何か不思議な模様のタイルが埋め込まれているのが見えた。

サイードは眉をひそめた。

サイード:「……あれは何です?」

ジョージはちらりと視線を投げると、何でもないように言った。

ジョージ:「ああ、あれですか。戦後、ここら一帯でよく見られる装飾ですね。誰が作ったのかは、よく分かっていません」

サイードは少し興味を引かれたように、歩を進めた。
ジョージはあえて、何も言わずにその後をついていく。

路地裏に足を踏み入れると、風景が一変した。
塀に埋め込まれた色とりどりのタイルが次々と現れ、そこには意味不明な絵柄が描かれていた。

一つは、大きな手のひらの中に、何かを握りつぶすようなデザイン。
もう一つは、鳥かごに閉じ込められた鳩――だが、鳩はすでに翼を失っている。
どれも暗示的で、何かを訴えているように見えた。

サイードは、足を止めてそのタイルをじっと見つめた。

サイード:「……これは?」

ジョージは手をポケットに突っ込んだまま、簡単に答えた。

ジョージ:「昔、この辺りには銭湯が多かったんですよ。銭湯文化が衰退していく中で、何かを残そうとした人たちがいた――その名残でしょうね」

サイードは、ジョージの言葉を受け止めながらも、何か引っかかるものを感じていた。

この絵柄に込められた意図は何だ?
なぜ、ここにこんなものがある?

その答えを探るように、彼はさらに路地の奥へ進んだ。

路地の突き当たりに、小さな建物が見えた。
廃業した銭湯だ。

扉には古びた鍵がかけられているが、ガラス越しに中の様子が見えた。
広い脱衣場は、すでに浴槽も取り壊されており、そこに並べられているのは編み物の道具や手作りの工芸品だった。

サイードはその光景を不思議そうに見つめる。

サイード:「……ここは?」

ジョージは、何でもないように答えた。

ジョージ:「今は地域の交流施設ですね。かつては銭湯でしたが、時代とともに廃れた。けれども、その“場”を失うことは避けたかった人たちが、こうして使っているんです」

中では、高齢の女性たちが座って編み物をしている。
編み物を手にした彼女たちは、笑い合いながら、まるで家族のように穏やかな時間を過ごしていた。

サイードは、言葉を失ったままその光景を見ていた。
その表情には、わずかな困惑が浮かんでいる。

サイードは、自分が何を感じているのか分からなかった。

目の前にあるのは、華やかでも、壮大でもない。
ただ、古びた銭湯の跡地と、そこで笑い合う人々の姿。

だが――
なぜか、それが忘れられない景色のように思えた。

彼は、その場を去る時になっても、振り返って再びその施設を見た。
そして、ジョージに尋ねた。

サイード:「……あなたは、これを見せたかったのですか?」

ジョージは、軽く笑みを浮かべる。

ジョージ:「さあ、どうでしょうね」

その曖昧な答えに、サイードはますます混乱を深めていった。

【水族館】

湾岸エリアにある「東京シーライフパーク」。
ガラス張りのドームと、どこまでも広がる海を背景にしたその施設は、観光地としては十分な体裁を備えていた。

サイード・アル=ラシードは、案内された水族館の正面で立ち止まり、ふとジョージを振り返った。

サイード:「ここは、普通の観光名所のようですね」

ジョージは軽く頷く。

ジョージ:「ええ、そうです。ここでは、たっぷり“美しい景色”が楽しめるでしょう」

その言葉に、サイードはようやく少し安心したような顔を見せた。
これまでの訪問地に比べれば、ここはわかりやすい――そう思えたからだ。

ジョージは、そんなサイードの様子を横目に見ながら、何も言わず歩き始めた。
彼の足取りには、どこか“間”がある。
少しも急ぐことなく、あえて空白を作るような歩みだった。

館内に入ると、まず目に飛び込んできたのは、巨大なガラスのトンネルだった。
透明なアーチの上を、色とりどりの魚が群れをなして泳いでいる。

サイードは立ち止まり、しばらくその光景を眺めていた。

サイード:「……美しい」

ジョージは、隣で黙ったまま、トンネルの向こうに広がる青い世界を見つめている。
だが、その表情はどこか冷めていた。

やがて、サイードが静かに口を開く。

サイード:「私たちは、この海を守らなければならない」

ジョージが、ふっと笑みを浮かべた。

ジョージ:「そうお考えですか?」

サイード:「当然です。我々の産業が、どれだけこの海に負荷をかけているか……私は理解しているつもりです」

その言葉には、サイードなりの責任感と誇りが込められていた。
だが、ジョージはその答えを軽く流すように、別の展示エリアへと歩き出した。

水族館の出口を出ると、ジョージは「少し散歩しませんか?」とは言わなかった。
ただ、何気なく駐車場の向こうに目を向けた。

ジョージ:「……何か、見えますね」

サイードも視線を向けた。

駐車場の先に、プレハブのような小さな施設が建っていた。
「TOKYO OCEAN RECOVERY STATION」と書かれた看板が見える。

その横には、大量のプラスチック廃棄物の山。
廃漁網、ペットボトル、食品容器……形を変え、色を変えた“海のゴミ”が、そこに積み上げられていた。

サイードは無意識に、足を進めていた。

榊原:「殿下!」

榊原が慌ててサイードの後を追う。
声を荒げるのも無理はなかった。
王族が、廃棄物置き場などに足を踏み入れるのは常識外れだ。

榊原:「そちらは……ただの処理施設です! ご覧いただくような場所では――」

サイードは振り返らなかった。
その歩みは止まるどころか、むしろ一層早まる。

榊原が振り返り、ジョージに詰め寄る。

榊原:「白洲さん、これは不適切です!」

ジョージは軽く眉を上げ、口元に薄い笑みを浮かべた。

ジョージ:「殿下が興味をお持ちのようです。それに――」

榊原がジョージを睨む。

榊原:「……それに?」

ジョージ:「“現実”は、見たい者の目にしか映らないものですよ」

榊原は言葉を失った。
その隙に、サイードはすでに施設の前までたどり着いていた。

プレハブ小屋の前には、海洋プラスチックの山がそびえていた。
廃漁網、ボトルキャップ、食品容器――いずれも、海から引き揚げられた“忘れられたものたち”だ。

作業着を着たスタッフが、ペットボトルを手にしてサイードに近づいた。

スタッフ:「こんにちは。ここは、東京湾から回収された海洋プラスチックの処理施設です」

サイードは、手渡されたペットボトルをじっと見つめた。

透き通ったプラスチックの表面は、海の中で削られたのか、かすかに傷がついている。
だが、形はほとんどそのままだ。

サイードが、ボトルを指で軽く押した。

サイード:「……壊れない」

スタッフは頷く。

スタッフ:「分解されるには、数百年かかります。このまま海を漂い、やがて魚の胃袋に収まることもあるでしょう」

サイードは、その言葉を聞いても表情を変えなかった。
だが――
彼の中で、何かが揺らいでいた。
彼は、この事実を知っていた。
これまで、数えきれない報告書を読んできたし、会議でも幾度となく議論されてきた。

サイードは、廃棄物の山を見上げながら、胸の中に重い違和感を抱えていた。

彼は、自分がこの問題を“理解している”つもりだった。
だが、理解は頭の中のことでしかなかった。
報告書に書かれた数字、理論、政策――それらが、今、実物として目の前に積み上がっている現実と繋がっていなかったのだ。

サイード:「……頭で知ることと、見ることは、違うものですね」

ジョージ:「違うのは、あなたがそれを“受け入れるかどうか”です」

その言葉は、軽く聞こえたが、どこか棘を含んでいた。

サイードは何も答えず、再び廃棄物の山を見つめた。

車に戻る途中、サイードはずっと黙っていた。
その目は、何度もプレハブ小屋の方向を振り返っていた。

彼は、これまでの人生で、自分の決断に揺らぎを感じたことはほとんどなかった。
だが、今、胸の中に確かに“疑問”が生まれている。

「このままでいいのか?」

その問いが、初めて浮かんだ。

ジョージは、そんなサイードの心境を察しながら、あえて言葉を発さなかった。
ただ、車に乗り込む際、ほんの一言だけ呟いた。

ジョージ:「次の場所は、もっと興味深いですよ」

その声は、サイードの胸に小さな棘のように刺さったまま、しばらく抜けなかった。

【経済産業省前】

車は、静かに霞が関に差し掛かった。

榊原俊彦は、これまでの訪問先があまりに奇妙な場所ばかりだったため、霞が関という響きに、ひとまず安堵の息を吐いていた。

「ようやくまともな場所だ」

政府機関の中心地――政治と経済を動かす重厚なビル群。
これなら、殿下に恥をかかせる心配はない。

榊原は、そう思いながらサイードの様子を窺った。
だが、彼の視線は、すでに窓の外へ向けられていた。

霞が関の街並みは、いつ見ても静かだ。

広々とした道路。
無機質なコンクリートのビル群。
歩道には、書類を抱えた官僚たちが忙しなく行き交う。

榊原は、心の中で思った。

「地味だが、まあ、無難な場所だ」

政治の中枢というのは、こういうものだ。
派手さも刺激もないが、堅実で、安定感がある。

だが――白洲ジョージの狙いが、依然として分からない。

「これまでの案内と違いすぎる。なぜここなのか?」

ジョージが案内してきた場所は、すべて“裏側”だった。
美しいものの向こうにあるゴミの山。
経済の流通に隠れた貧困の姿。

だが、霞が関は表側の象徴だ。
政治と経済を動かす堂々たる舞台であり、何も隠すものはない――少なくとも、表向きは。

ジョージは、車から降りると、淡々と歩き始めた。

その足取りは、これまでと同じだ。
特に説明もせず、ただ通りを歩く。

榊原は、思わず彼に問いかけた。

榊原:「白洲さん、ここで何かご説明が……?」

ジョージは振り向きもせず、軽く首を振った。

ジョージ:「説明は不要でしょう」

それだけ言うと、ジョージはポケットに手を突っ込み、歩き続けた。

一方のサイードは、いつの間にか、穏やかな表情を浮かべていた。

榊原は、その変化に気づき、驚いた。

少し前まで、明らかな混乱が見て取れた。
足元が揺らぐような、不安げな様子だったのに――
今は違う。

むしろ、何かを悟ったような落ち着きがある。
まるで、目に見えない霧が晴れていくような、そんな表情だ。

榊原は、再び疑念を抱いた。

「一体、何があったんだ?」

サイードの表情は、時折ビルの上層部を見上げるたびに、微かに笑みを浮かべる。

「この人は、何を見ているんだ?」

榊原には、それが理解できなかった。
彼に見えているのは、ただの霞が関のビル群だけだ。
冷たいコンクリート、無数の窓、無個性な建物。

だが――サイードは、もっと別のものを見ているように見えた。

ジョージは、何も言わない。
これまでの案内で、彼はあえて混乱を与える言葉を発してきた。
だが、この場では、それすらしない。

ただ歩く。
そして、沈黙の中で、サイードに何かを委ねているように見えた。

榊原は、歩きながら、そっとジョージに耳打ちした。

榊原:「白洲さん、殿下は……なぜ、あのように穏やかになられたのです?」

ジョージは、軽く笑っただけだった。

ジョージ:「さあ。私は何もしていませんよ」

榊原は最後にもう一度、ジョージに問うた。

榊原:「……結局、今回の案内で、あなたは何を見せたかったのです?」

ジョージは、少し間を置いて、言った。

ジョージ:「何も見せていませんよ。ただ――殿下が“選んで”いただけです」

その言葉に、榊原は何も返せなかった。
ただ、背を向けて歩くサイードの背中を見つめ続けるだけだった。

【会食】

店内は、静かで洗練された空間だった。
余計な装飾はなく、白い布がかけられたテーブルが幾つか並んでいる。
壁には、控えめな筆致で描かれた日本画が掛かっていた。

メニューもなく、ただ季節の料理が順に供される。

サイード・アル=ラシードは、席に着いた瞬間から、すっかりリラックスした様子を見せていた。

一方で、榊原俊彦は、未だにピリピリとした空気を引きずっている。
「なぜ、こんな小さな店に……?」
その疑問が頭の片隅にこびりついて離れない。

しかし、サイードが満足しているのなら、それで良い――榊原は、そう自分に言い聞かせていた。

料理は、一品ずつ丁寧に供される。

薄造りの白身魚に、春の山菜を添えたもの。
桜色に染まった酢飯が美しく並べられた寿司。
出汁の香りを引き立てた、吸い物。

どの皿も、控えめな美しさを持ち、味わいは深い。
しかし、店主は、ただ静かに料理を置くだけで、特に言葉を発することはない。

サイードは、目を閉じ、しばし料理の余韻に浸るように口を閉ざした。
そして、ようやく静かに口を開いた。

サイード:「……ジョージさん」

ジョージは、軽く目を上げる。

ジョージ:「はい?」

サイードは、口元に微笑を浮かべたまま、こう言った。

サイード:「あなたの“東京案内”――案内とは名ばかりで、私に“挑戦”していたのでは?」

ジョージは、少し考えるように、手元のグラスを回した。
その仕草に、答えを濁す意図が透けて見える。

ジョージ:「挑戦だなんて、大それたことはしていませんよ。ただ……退屈しのぎに、少し趣向を変えたまでです」

サイード:「本当に?」

ジョージは、淡々とした口調のまま、短く答えた。

ジョージ:「ええ。ただの気まぐれです」

サイードは、その返答を聞いて、満足げに頷いた。

サイード:「なるほど。そうだとしたら――私は、これほど期待を裏切られて満足したことはない」

その言葉に、ジョージはほんのわずかに微笑んだ。

しばらくの沈黙の後、サイードはグラスを手にし、ゆっくりと語り始めた。

サイード:「私の国では、何もかもが“見える景色”で判断される」

サイード:「豪奢な宮殿、豊かな食事、贅沢な暮らし――その向こう側には、見えないものがたくさんある」

一瞬、彼の声に少しの淀みが混じった。

サイード:「だが、これから私は……“見えないもの”を気にかけるようになるだろう」

その言葉が、サイードにとって、どれほどの意味を持つのか――榊原には理解できなかった。
ただ、サイードの表情が、これまでのどの瞬間よりも晴れやかに見えたことだけは分かった。

榊原は、視線をジョージに向けた。
「この男は、一体何をしたんだ?」

しかし、ジョージは、何もなかったかのように淡々と料理を楽しんでいる。

【食事の後に】

食事がすべて終わり、店内には静寂が戻っていた。
控えめな皿の一つひとつに、料理人の確固たる美学が宿っていたことは、サイードにとっても明らかだった。
シンプルだが、どこか奥行きがある――そんな印象が残る店だ。

サイードは満足そうに席を立ち、軽く一礼した。

サイード:「素晴らしい時間をいただきました。感謝します」

ジョージは、いつものように淡々と微笑むだけだった。

ジョージ:「お気に召したようで、何よりです」

その瞬間、榊原俊彦もようやく安堵の表情を見せた。
サイードが満足している――それが確認できただけで、彼にとっては十分だった。

店を出ようとした時、ふとサイードが立ち止まった。
そして、店主の須賀重光に向かって問いかけた。

サイード:「ところで……この店の名前は?」

ジョージの表情が一瞬だけ変わった。
だが、何も言わず、ポケットに手を突っ込み、興味なさげに外を見た。

須賀は、その質問にゆっくりと答えた。

須賀:「星庵――と申します」

サイード:「星庵?」

須賀は、遠くを見つめるような目をして、語り始めた。

須賀:「湾岸戦争の時、私の父がクウェートの封鎖に巻き込まれたのです」

その一言で、サイードの表情がわずかに変わった。
興味と何かに気づいたような感覚――その両方が混じっている。

須賀:「イラク軍が占領し、都市が突然封鎖された。すべての通信は途絶え、食料も水も尽きかけて……父は3日間、孤立無援の状態で過ごしたそうです」

サイードは、その話をじっと聞いていた。

須賀:「その3日間、父は日本の外交官と、アメリカ海兵隊の軍人と共に過ごしました」

その瞬間、ジョージが軽く眉を動かした。
しかし、何も言わない。

須賀:「外は黒煙に覆われ、砂嵐が吹き荒れ、何も見えなかった。けれど、夜になると、唯一見えたものがあった――星です」

サイード:「……星?」

須賀は、静かに頷いた。

須賀:「星は、どんな闇の中でも輝く。それを見て、父は“星を見失うな”と誓ったそうです。どんなに状況が悪くても、希望は消えない……と」

サイードは、その話を聞きながら、胸の中で何かが動くのを感じていた。
それは、祖父から聞いた言葉を思い出させたからだ。

「砂嵐の夜、星が見えた時、人は進むべき道を知るのだ」

祖父がよく語っていた言葉――それが、ここで語られる“星庵”の物語と一致している。

須賀は、少し笑って言った。

須賀:「父は、こうも言っていました。“星は、友の証”だと」

サイードは、その言葉を深く噛み締めるように、静かに繰り返した。

サイード:「星は、友の証……」

店の外に出ると、サイードを迎える車がすでに到着していた。

サイード:「ありがとう。素晴らしい1日でした。」
ジョージ:「身に余るお言葉、恐れ入ります。」
サイード:「また、必ずお会いします。次は、私が挑戦することになるでしょうね。」
ジョージは何も言わなかったが、代わりに、イタズラっぽい笑顔で応じた。

【後日談:サヴィル・レーン東京支店にて】

午後の柔らかな光が店内に差し込み、静かな時間が流れていた。
白洲ジョージはカウンターで紅茶を飲みながら、静かに書類をめくっている。

そこに、セシル・アンダーソンが勢いよく駆け込んできた。

セシル:「ジョージさん!朗報です!」

ジョージは、面倒そうに視線を上げた。

ジョージ:「君が“朗報”と言うと、嫌な予感しかしないが」

セシル:「今回の案内の件です!殿下から帝東エネルギーを通じて感謝状が届きましたよ!」

ジョージは、特に興味もなさそうに、紅茶を一口飲む。

ジョージ:「感謝状、ね……」

セシル:「大成功ですよね!社も帝東エネルギーも大喜びです!」

ジョージの視線が、セシルの服装を上から下までゆっくりと滑り落ちた。

オレンジのチェック柄のジャケット、鮮やかな青いネクタイ、真っ赤なスニーカー。

ジョージは、カップを置き、眉をひそめた。

ジョージ:「……君、その装い、一体何を目指したんだ?」

セシルは、少し得意げに胸を張った。

セシル:「華やかに見せたかったんです!いいニュースを持ってくる日ですから!」

ジョージは、紅茶を飲む手を止め、皮肉な笑みを浮かべた。

ジョージ:「華やかに、ね……?」

ジョージは、立ち上がりながら、チェック柄のジャケットを軽く指さした。

ジョージ:「まず、そのオレンジのチェック柄だが――ビクトリア朝時代に“猟犬を驚かせるな”という理由で廃れた柄だよ。つまり、犬ですら驚く派手さということだ」

セシル:「えっ……!」

ジョージ:「次にその青いネクタイ。ありえない色合わせだ。ドイツのバウハウス運動を台無しにする組み合わせと言ってもいい」

セシルの顔がだんだんと青ざめていく。

ジョージ:「極めつけは、その真っ赤なスニーカーだ――これまでの服飾史のすべてに対する挑戦だね」

セシル:「挑戦……?」

ジョージ:「いや、正確に言うなら“反逆”だろう。古典的な美学をすべて無視している」

セシルは、ジャケットの袖を引っ張り、視線を落とした。

セシル:「……そんなにひどいですか?」

ジョージは、ため息をつき、コートを羽織りながら言った。

ジョージ:「感謝状は――その服装では、もらえないね」

セシル:「……はぁ」
セシルは、もう言葉も出ない。

ジョージは、ドアに向かいながら、ふと足を止めた。

ジョージ:「だが、今までで一番――君らしい」

セシルは、顔を上げた。

ジョージ:「だから、挑戦状と取らせてもらおうか?」

セシルの目が大きく開いた。

セシル:「挑戦状……!」

ジョージは、軽く肩をすくめた。

ジョージ:「感謝状なんて、形式的なものだ。だが、挑戦状は――未来を約束する」

ベルが軽やかに鳴り、ジョージの背中が夜の街に消えていく――
店内に残されたセシルが、ポツリと呟いた。

セシル:「挑戦状を……受けてもらえた?」

デイヴィッドは、紅茶のカップを片付けながら微笑んだ。

夜の銀座に、軽やかなベルの音と紅茶の香りが溶けていく――
その音は、まるで新しい挑戦の始まりを告げる鐘のように響いていた。

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