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銀座無双 アラブ石油王編1「オークションへ行こう」

【プロローグ】
銀座・白洲家のリビングルーム――午後の陽が傾く頃

ジョージは鏡の前でネクタイの結び目を何度も調整していた。
シルクの艶やかな光沢が、窓から差し込む夕陽に反射している。

一度締めて、少し緩めて、また締め直す――。
この繰り返しにどれだけ時間を費やしたのか、ジョージ自身にもわからなかった。

「まだやってるの?」

アイリがリビングに入ってきた。
彼女は紅茶のカップを手に持ち、呆れたようにジョージを見つめる。

「ネクタイ一つで一日の成り行きが決まるものさ」

ジョージは鏡越しに軽く目を向ける。

「変わんないでしょ、どうせ誰も見てないんだから」

ジョージは首を振った。

「それが、君と私の違いだ。自分がどう見えるかを気にするのは、他人のためじゃない。自分のためだ」

「……はあ。ほんと面倒くさい美学よね」

アイリはため息をつき、ソファに腰を下ろす。

「で、その完璧なネクタイ姿で、どこに行くの?」

ジョージは、結び目を整えて最後に微調整し、ようやく満足した様子でネクタイを固定した。
そして、鏡越しに淡々と答える。

「オークションだ」

アイリがピクリと反応する。

「オークション? あんたが?」

「何かおかしいか?」

「そりゃあね。お兄ちゃんがそんな成金の集まりに顔を出すなんて、珍しいじゃない」

ジョージはその言葉を受け流し、ハンガーに掛けてあったシングルブレストのジャケットを手に取った。
上質なウールが肩に馴染む感覚を確認しながら、静かに言った。

「散歩がてら、覗くだけだよ」

「散歩ねえ……」

アイリはカップを口に運びながら、怪訝そうにジョージを見つめる。

「ちなみに、どんなものが出るの?」

「アンリ・クロデルの書簡が出品される」

ジョージが淡々とそう言った瞬間、アイリの興味は失せたようだった。

「ふーん、アンリ・クロデルね……よくわかんないけど、お兄ちゃん好みっぽいわ」

ジョージは少し肩をすくめた。

しかし、次の瞬間――

「そういえば、そのオークションにヒサメの作品が出るって聞いたんだけど?」

アイリの言葉に、ジョージの動きが止まった。

「……どこで聞いた?」

アイリは肩をすくめる。

「噂よ。でも、この手の噂って、案外正確なの」

「非公開のオークションだぞ。リストが漏れるはずがない」

「普通ならね。でも、私は特別なルートがあるの」

ジョージは目を細めた。

「どんなルートだ?」

アイリはニヤリと笑う。

「企業秘密よ。でも、私の感性は間違いないってこと、知ってるでしょ?」

「そのヒサメという作家、そんなに凄いのか?」

アイリはゆっくりと立ち上がり、カップを置いた。

「凄いなんてもんじゃない。この世に本物のヒサメの作品を見られるチャンスなんて滅多にないんだから」

「なるほどな」

ジョージはネクタイを一度軽く引き締め、スーツの襟元を整えた。
最後にジャケットを羽織り、鏡の前で姿を確認する。

「それで――君はどうするつもりだ?」

アイリは、まるで当然のように微笑んだ。

「決まってるじゃない。私も行くわよ」

ジョージは、呆れたように笑いながら言った。

「勝手にしろ」

【オークションでの邂逅】

銀座・高級ホテル『ルクス・シンフォニア』――オークション会場

会場の空気が、変わった。
サイード・アル=ラシードが姿を現した瞬間に。

アラブの伝統刺繍をあしらった純白の特注スーツ。
深い翡翠色のスカーフが、砂漠の夜に瞬く星を思わせる光を放つ。
歩くたびに、シルクの光沢が滑るように揺れ、会場全体が彼に釘付けになった。

「殿下……!」
「今日もなんと見事な……」
「どこの仕立て屋だろう?」

名士たちは皆、サイードに声をかけたそうにしているが、一歩を踏み出す者は誰もいない。
サイードがこの場にいるというだけで、彼の存在が一つの儀式のような意味を持つ。

だが――
その場で、ただ一人だけ、サイードに目もくれない男がいた。

白洲ジョージ。

彼は、壁に掛けられた一枚の絵画を眺めていた。
シングルブレストの黒のスリーピーススーツに、控えめなパールグレーのネクタイ。
一切の無駄がなく、すべてが計算された装いだ。

その姿は、決して派手ではない。
だが――
シンプルすぎるほどの完璧さが、逆に彼を際立たせていた。

ジョージのスーツは、美術品のように見せるための装いではない。
むしろ、剣のような鋭さが宿っている。
他の誰よりも、服が彼を着ているのではなく、彼が服を支配している。

サイードの視線は、自然とジョージへと吸い寄せられた。
その場の誰もが、自分に注目している中――
ジョージだけは、自分を無視している。

まるで――
嵐の中で微動だにしない一本の木のように。

サイードは足を止め、軽く首を傾げた。

(……何者だ?)

その瞬間、帝東エネルギーの専務・榊原俊彦が慌てて近づいた。

「殿下、どうぞこちらへ。お席をご用意しております」

榊原の声は、やけに焦っている。
なぜなら――

ジョージの態度は、どう見ても“無礼”に映るからだ。

しかし、サイードは榊原を無視して、ゆっくりとジョージの方へ歩み寄る。

会場がざわついた。
「殿下が……?」
「まさか、あの男に……?」

サイードが、静かに声をかけた。

「そなたは、このオークションに何を求めて来た?」

ジョージは、完璧な一礼を見せた。
その動作には、まるで乱れがない。
しかし――そのまま、サイードを一瞥するだけで答えなかった。

沈黙が続く。
榊原がさらに慌てて口を挟む。

「白洲さん、殿下に失礼のないよう……!」

ジョージは微笑みを浮かべた。

「ご紹介をありがとうございます、榊原さん――ですが、お言葉を挟むべき場面ではないと思いますが?」

榊原の顔が真っ青になる。

サイードは、そんな様子を見て、さらに興味を深めたようだった。

「ほう……では、そなたは私のことを知っているか?」

ジョージは、軽く顎を引き、答えた。

「当然、存じ上げております。
世界中のファッション愛好家が注目する、サイード・アル=ラシード殿下。
そのご装いが、常に話題をさらうことも――」

「ならば、なぜ私に挨拶をしなかった?」

「ご挨拶を申し上げるべき“装い”ではなかったからです。」

サイードの目が細まる。

「……興味深いことを言うな」

ジョージは淡々と続けた。

「殿下のご装いは、見事でございます。
ただ――美術品のような服は、褒めるだけで終わってしまう。
一方、私が興味を持つのは、“生きている服”でございます」

サイードの笑みが深まる。

「つまり、私の服は生きていないと?」

ジョージは、目の前の絵画に視線を戻し、静かに言った。

「それは、殿下が決めることではございません。
それを見た者が、どう感じるか――それが全てかと。」

その言葉に、会場は再び凍りついた。

だが――

サイードは笑った。

「実に面白い。そなたは、私に媚びぬようだな――?」

ジョージは一歩も引かず、穏やかに答えた。

「礼儀を欠くつもりはございません。
ただ、私は――真に価値あるものにのみ敬意を払いますので。」

【一騎打ち】

「Ladies and gentlemen――」
司会者が、柔らかな声で会場を静めた。

「お待たせいたしました。これより、特別出品作の入札を開始いたします。最初の品は――」

スポットライトが、豪奢なガラスケースに当たる。
ケースの中には、一冊の古びた書簡集が収められていた。

「アンリ・クロデルの直筆書簡」――。

ざわつきが広がる。
アンリ・クロデルは、20世紀初頭の“着る哲学者”として知られ、彼の言葉は一部のエリートたちにとって聖典のような存在だ。

「……この書簡には、彼が生涯を通じて残した哲学と美学の本質が記されております。まさに、唯一無二の品です。」

司会者が一息つき、言葉を切る。

「入札開始額は――500,000ドルからといたします。」

最初の競り――サイードの余裕

「500,000ドル」
すぐに、一人のバイヤーが手を上げた。

「550,000ドル」
次に名乗りを上げたのは、サイードだった。
彼は、まるでこの場が自分の舞台であるかのような優雅な仕草で、入札に参加している。

「600,000ドル」
「650,000ドル」

次々に額が上がっていくが、サイードは微動だにせず、余裕の笑みを浮かべていた。

「800,000ドル――。」

サイードが再び手を挙げる。
その瞬間、会場の空気が変わった。

「……殿下が本気だ」
「さすがに、これ以上の額を出す者はいないだろう……」

誰もが、ここで勝負が決まると感じていた。

しかし――

「850,000ドル。」

低く静かな声が、会場の隅から響いた。

白洲ジョージ。

サイードの目が、ジョージの方へ向けられた。
先ほどの対話の延長だと理解しているのか、彼の表情には笑みが浮かんでいる。

「850,000ドル、確認いたしました――」
司会者が確認を取る。

サイードは、少しも動揺することなく、静かに手を挙げた。

「900,000ドル。」

会場がざわつく。
帝東エネルギーの榊原が、ジョージの肩を叩くようにして近づいた。

「白洲さん……! お引き取りください! これ以上、殿下と競り合うのは――」

ジョージは、榊原を一瞥した。

「ご心配をありがとうございます、榊原さん――ですが、私はまだ見極めている最中です。」

榊原が言葉を失う。

サイードは、微笑みながらジョージを見つめた。

「白洲殿――」

「……何でしょう?」

「貴殿は、この書簡の価値をどこまで理解している?」

ジョージは、軽く首を傾げた。

「価値ですか――?」

「ええ。これは単なるコレクションではない。哲学の一部だ。」

ジョージは、わずかに微笑みを浮かべる。

「その点は、殿下に同意いたします――ただ、私は哲学とは『生き方』そのものであると考えております。」

「……ほう」

「それを所有するか否かではなく――その哲学を生きる者かどうか。
その違いが、ここにいる皆様には分かるでしょうか?」

会場が、静まり返った。

サイードは一瞬黙り、次の瞬間、軽く笑った。

「面白い――。実に面白い。」

彼は、グラスを手に取り、ジョージに向けて軽く持ち上げる。

「貴殿は、生きた哲学をお持ちのようだ――。
では、見せてもらおう――その哲学の価値を。」

サイードが再び、入札額を上げる。

「1,000,000ドル。」

ジョージは、ネクタイを軽く引き締める仕草を見せ――
再び、静かに手を挙げた。

「1,050,000ドル。」

白洲ジョージの声が響くと、会場は息を呑んだ静寂に包まれた。

アンリ・クロデルの直筆書簡。
その価値を知る者たちは、この異質な競り合いを見守っている。

一方には、アラブの王族にして、常に称賛を浴びる“歩く美術品”――サイード・アル=ラシード。
他方には、誰にも媚びず、己の美学を貫く白洲ジョージ。

サイードが、再び手を挙げる。

「1,100,000ドル。」

「1,150,000ドル。」

ジョージが即座に応じた。
その動作には一切の迷いがなかった。

周囲がざわつく。

「……何をしているんだ、あの男は?」
「殿下に競り勝つ気か?」

誰もが信じられない思いで、二人の対峙を見つめていた。

「白洲さん!」

帝東エネルギー専務の榊原俊彦が、堪えきれずジョージに駆け寄る。
額には汗が滲んでいる。

「何をしているんですか――これ以上の競り合いは無意味です!」

ジョージは、視線を正面に据えたまま、微動だにしない。

「殿下が相手なのですよ!
こういうときは、目上の方に道を譲るのが“たしなみ”ではありませんか!」

榊原の声には、焦りと怒りが入り混じっていた。
会場の視線が二人に集まる。

だが――
ジョージは、一言も発しない。

その沈黙が、榊原の言葉を一層際立たせる。

「あなたのやっていることは――ただの無礼です!」

ジョージは、榊原を一瞥することすらなかった。
その動作に、わずかな迷いもない。

榊原の声は、完全に遮られた。

“新たなたしなみ”が、今ここで刻まれている――
誰もが、そう感じ取っていた。

サイードは、口元に微笑を浮かべた。
「……なるほど。」

彼は、司会者に向けて軽く手を上げる。

「私は――これ以上の入札はいたしません。」

会場が、ざわついた。

「殿下が降りた……?」
「一体なぜ――?」

サイードは、誰にも説明することなく、グラスを置いた。一切の迷いがない。

「1,150,000ドルで落札――白洲ジョージ様です。」

司会者が淡々と額を告げる。
しかし、会場は誰も拍手しない。

――あのサイードが、競りを降りた。

この異常事態に、全員が困惑していた。
空気が張り詰め、誰もが互いの顔を伺っている。

ジョージは、ただ一礼をし、静かに立ち上がった。

その動作には、一切の乱れも、迷いもない。
まるで、最初から勝利が決まっていたかのように――。

ジョージは、会場に背を向け、ゆっくりと歩き始めた。

ジョージは、足音を立てずに会場を後にした。
出口に向かう彼の背中に、誰も声をかけられない。

その去り際の静けさが、逆に強烈な余韻を残していた。

――この舞台の主役は、間違いなく彼だった。

彼が去った瞬間、場の空気が急に崩れ、ざわつきが広がる。
誰もが、この一騎打ちの顛末を理解しようと必死になっていた。

「どういうことだ……?」
「殿下が、あの男に譲るなんて……」
「ただの日本人紳士にすぎない男が……」

ささやき声が会場を満たしていく。
しかし、誰もサイードに直接言葉をかけられない。

その場にいる全員が、サイードの次の動きに注目していた。

サイードは、グラスを片手に持ったまま、静かに微笑んでいる。
その微笑みが、何を意味しているのか――誰にもわからない。

帝東エネルギーの榊原俊彦は、明らかに焦っていた。
額の汗を拭いながら、サイードに近づく。

「殿下……!」

サイードがゆっくりと顔を向けた。

「どうか、お聞きください。このたびの白洲の行為は――私どもの不手際であり――」

だが――
榊原が言葉を続ける前に、サイードの視線が榊原を貫いた。

その一瞥は、静かな微笑みと共に、鋭い刃のような威圧を帯びていた。

榊原は、言葉を飲み込んだ。

「……っ……」

サイードの無言の圧力――

サイードの微笑みは、礼儀正しく穏やかなものだった。
しかし、その裏には、絶対に余計なことを言わせないという意思が込められている。

榊原は直感的に感じた。

「……これ以上、この勝負について言及すれば――とんでもない怒りを買う。」

だが、それが本当に怒りによるものなのか――
それとも、勝負師としての恍惚から来るものなのか――

榊原には、まったくわからなかった。

【勝負の後】

ホテルエントランス――夜の帳が降りる頃

「どこにいた?」

オークション会場を後にしたジョージが、ホテルのエントランスに出ると、そこにアイリが待っていた。
肩にコートを引っ掛け、いつもの気だるそうな表情をしている。

「お疲れさま。」
アイリが、軽く片手を上げた。

ジョージは足を止め、彼女を見つめる。

「……どこにいたんだ?」

アイリは、特に驚いた様子もなく、視線を少し逸らす。

「ちょっと用事があってね。」

「……」

ジョージは、何も言わず、彼女をじっと見つめた。
その視線には、明らかに“何かを知っている”という色がある。

アイリは、少し口元を歪めた。

「そんな怖い顔しないでよ。別に悪いことしてたわけじゃない。」

「……悪いことをしてた顔に見えるが?」

「違うってば。」

そう言いながら、アイリはスカーフを巻き直し、さりげなく話を打ち切ろうとする。

ジョージは、軽く肩をすくめた。

「まあいい。帰るぞ。」

しかし、アイリはその場を動かず、エントランスの柱に寄りかかった。

「私は、まだここにいるよ。知り合いがラウンジにいるから。」

ジョージは、少しだけ目を細めた。

「オークション参加者か?」

アイリは、曖昧に笑ってみせる。

「さあね――どうだろう?」

ジョージは、わずかに溜め息をついた。

「お前の“知り合い”は、いろいろと怪しいからな。」

「安心して。あんたみたいに誰とも争う気はないから。」

ジョージは微かに笑い、ネクタイを軽く緩める。

「では――好きにしろ。」

【夜の訪問者】

銀座・サヴィル・レーン東京支店――夜更けの静寂

銀座のサヴィル・レーン東京支店は、日付が変わろうとしている時間帯でも、店内は隅々まで整えられていた。

デヴィッド・クローザーは、店の奥でカシミアのスーツ生地を丁寧に確認していた。
一切の妥協を許さない眼差しで、縫製のラインを指先で辿っていく。
その動作は、まるで戦場で地形を読む元兵士のように正確だった。

すると――
控えめなノックの音が静寂を破る。

デヴィッドが顔を上げると、店の扉がゆっくりと開いた。

そこに立っていたのは――
完璧な着こなしをした、紳士然とした男。

純白のスーツに、深い翡翠色のスカーフ。
その姿は、日中のオークション会場にいたサイード・アル=ラシードそのものだった。

デヴィッドは、ゆっくりと微笑む。
「……お久しぶりです、殿下。」

サイードは一礼し、ボディガードに手を上げる。
「待っていろ――ここからは私が一人で話をする。」
ボディガードたちは一礼し、店の外へ下がる。

二人きりになった瞬間――
サイードは、デヴィッドに歩み寄り、肩を軽く合わせ、右・左・右の順で頬を寄せ合う。

「アハラン、デヴィッド――再びお会いできて、心から嬉しく思います。」

デヴィッドも、穏やかな微笑を浮かべながら応じる。

「こちらこそ――私にとって、あなたは親族同然です。どうぞこちらへ――」

彼は、サイードを店の奥へと案内し、仕立て室の一角へと通した。

そこは、かつてデヴィッドが戦友たちと作戦を練った部屋に似た、小さな空間だった。
壁には古い地図が飾られ、仕立て道具が整然と並んでいる。

サイードは、椅子に腰を下ろし、深い溜息をついた。

「あなたと、こうして会えるのは――祖父の遺志を継ぐ者として、光栄です。」

デヴィッドは、少しだけ微笑んだ。

「殿下――あなたの祖父は、私の恩人です。
私にとって、あなたは親族も同然。
“お忍び”の訪問であっても、歓迎いたします。」

「実は、今日、不思議な人物に出会いました。オークション会場で、アンリ・クロデルの直筆書簡を巡って、競り合ったんです。彼は――
クロデルの哲学を、体現していました。」

デヴィッドは、無言でサイードの言葉を聞く。

「凡庸な衣服は、着る前に完成されている。
だが、優れた衣服は、着た者が新たな歴史を刻むことで初めて完成する――。」

サイードは、まるで独り言のように呟いた。

「私の祖父は、クロデルの思想を高く評価していました。
西洋の常識に囚われず、新たなたしなみを作り出す哲学――それを、祖父は私に受け継がせようとした。」

彼は、デヴィッドを見つめた。

「今日、私は初めて、それを“生きている”人物に出会ったのです。
だから、あの書簡を譲りました。」

デヴィッドは、少しだけ目を伏せた。

――それがジョージだったことを直観しながら。

だが、彼は何も言わない。
ただ、サイードの言葉に耳を傾けている。

サイードが、椅子から立ち上がった。

「祖父の遺志に従い――私は、あの男にもう一度会いたいと思っています。」

デヴィッドは、ゆっくりと立ち上がり、サイードに深く一礼した。

「きっと――また、すぐにお会いできるでしょう。」

サイードは、微笑んで頷いた。


【エピローグ】

白洲邸――夜

ジョージが帰宅したのは、日付が変わる少し前だった。

玄関を抜け、リビングルームへと向かう。
いつもの静けさ。
古い時計の針が、規則正しく時を刻んでいる。

だが――
違和感があった。

リビングの一角に、見慣れない彫刻が飾られている。

ジョージは足を止め、その彫刻に目を留めた。

無機質な金属の塊が、滑らかな曲線を描き、
人間の身体を思わせる形状へと変化していく。

――ヒサメの作風だ。

どこか冷たく、それでいて確かな温もりを感じさせる。
見る角度によって表情を変える、不思議な作品だった。

ジョージは、彫刻の台座に添えられた小さなプレートに目を落とした。

“For Airi”
“From S.A.R.”

彼は微かに笑う。

「……なるほど。」

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