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ストロベリーソングオーケストラ「切り咲きジャップ最終章」を観た
久しぶりのライブハウス。
10年ぶりは言い過ぎだけれど、バーカウンターでタバコの匂いを嗅いだときに、本当に10年ぶりくらいの懐かしさを感じた。もう世の中は変わったと思っていたけれど、ここでは何も変わっていない。
僕は、何か別の現実を見ていたのだろうか?多分、実際に足を運ばずに情報(記号)だけで世の中に接しているから、「世の中が変わっている」と思い込んでいたのだろう。
ストロベリーソングオーケストラの、演劇公演は本公演と呼ばれる。そこで上演される芝居は、「鏡町」という架空の町が舞台となる。
鏡町。まるで、湖に映った風景のように、非現実的な映像。今日はそれがはっきりと現実社会の影を象徴していることがわかった。
『切り咲きジャップ最終章』は、走馬燈(VRゴーグルのようなもの)をめぐる怪現象に黒田という探偵が立ち向かう話だ。連続首斬り殺人事件の被害者が走馬燈のユーザーであることを巡り、探偵の黒田をはじめ、弟のキス、YouTuber厭魅(えんみ)、刑事の中村が協力して謎に迫る。
いうまでもなくこれは、「仮想現実」「フェイクニュース」を象徴したもので、現代社会の「映し絵」になっている。また、劇中登場する「神楽」は明確に「AI」の象徴として描かれている。
僕は過去にストロベリーソングオーケストラの公演に関わったことがあり、作家であり演出家である「座長」と話したこともあるのだが、基本的に座長さんは劇の内容を解説したりはしない。制作はヤンキーの溜まり場のような雰囲気で(ヤンキーの溜まり場に行ったことがないので想像でしかないが)、他愛もない話が爆笑と共に展開する中で進んでいく。緊迫した空気もあるが、それは技術的な側面に限られており、思想的な話題は皆無だったと記憶している。
だが僕は、自分の関わった作品を含め、座長の問題意識が現代の情報社会に鋭く、それもわりと率直に向けられていると感じている。奇怪でグロテスクな劇団の雰囲気からすると意外なほどに真っ当な批判精神が存在している。
今回の作品に関して言えば、テーマは「フェイクと生成AI以降の現実」を問うもの。
人々に見たいものを見せる画期的な端末である走馬燈は、バグによって存在しない過去を映し出す。人は、「変だな」と思いながらそれを見る。
殺人鬼は、そうした現実と虚構の隙間に出現し、社会を混乱に陥れる。そして、それを解決するのは開発者であるところの技術者ではなく、「除霊」という極めて原始的な行為だった。
これを、ストロベリーソングオーケストラ流のオカルト趣味と片付けるわけにはいかない。なぜなら、現実の生成AIがどのように演算をしているのか我々は知ることができなわけで、それは実際、ある種の呪術の領域だからだ。そして、その呪術を支えているのは、この社会の闇である。すなわち、機械学習のための労働や、SNSを介してwebに流出する人間の欲望だ。
さて、主人公達4人は、この問題にどう立ち向かうのか?その演出は驚くほど僕らに馴染みのあるものだった。つまり、典型的な冒険活劇だ。魅力的な主人公がやむを得ぬ経緯で事件に巻き込まれ、闇の奥に迫っていく。成人した大人がリアルな恐怖や危機感を感じられるようにしっかりと肉付けされていて、本当に、小学生以来のワクワクを感じた。
結末では、物語の前提として存在していた黒田キス(したがって事件の犠牲者達)が虚構であったことが明らかになる。
僕らが現実としてずっと追っていたストーリーが、「走馬燈」が映し出す虚構であったことが明らかになる。
この公演が投げかけるのは、現在の情報社会の映し絵である、ということは述べた。では、結末は何を示唆するのか?
「仮想現実」「フェイクニュース」そして「生成AI」について描いてきた物語が最後に言及するのは、この公演自体がそれである「フィクション」についてだ。
観客はある虚構を現実として味わう共犯者だった。それなのに、結局それら全てが「走馬燈」による虚構だったというちゃぶ台返しを喰らう。
この文章の文脈に照らし合わせるとこれは、僕らの生きている現実こそが、「本公演」の映し絵だったことになる。僕らがお芝居の設定を公演の間だけ現実だと思い込む限りにおいて。
僕たちの現実理解こそがフィクションに基づいている、という告発は、劇中の神楽の言葉からも読み取ることができる。
神楽は一連の悲劇の原因が人間の方にあることを指摘してこう述べる。
「倫理道徳の念に反しているのは機械ではなく、記号、そう、あなた達、ヒトビトの方だ、と」
最近は映画も小説もほとんど観なくなって、てっきり虚構は瀕死の状態にある、と思っていたけれど、そうした「現実認識っぽい何か」こそ、一番悪質な虚構かもしれない。
ライブハウスの煙の匂いに10年ぶりの懐かしさを感じつつ、少しだけ記号から離れることのできた2時間だった。