さよならだけが人生ならば
(タイトルは引用、寺山修司『幸福が遠すぎたら』より)
以前の職場で、それはある種の研修プログラムだったのだが、卒業するにあたって記録アルバムの作成を担当した。
ちょうど学校の卒業アルバムのようなもので、外国人ばかりの職場で毎年作成している。内容は英語で、かつかなりユニバーサルなフォトアルバムと人物紹介が一緒になったような小冊子だった。
写真も文章も好きなのでふたつ返事で担当を名乗り出たものの、年度末の繁忙期も相まって文字通り三日三晩かかってしまった。
そういう時に限って遠出が要る緊急の搬送があったり、基地の外では皆が慣れない袴着なんかを予約していたりと大荒れだった。
なんとかアルバムの納期に間に合わせたが、そのせいで大事な卒業式のスピーチの準備が不十分で、本番はまったくのアドリブになってしまった。
卒業生の中にはパートナーを呼んできて目の前でプロポーズまがいのことをやってのけた奴までいたのだから(しかもYoutubeで各地へ生中継されているような場にもかかわらず)いかに僕の話がみすぼらしかったか。熱く丁寧に細部を練ってきた同期達が羨ましかった。
ただ、アルバムの内容は手を抜かなかった。
冒頭の文章はキューブリックの映画の導入をオマージュ、写真はなんと風景ページを作るなどの暴挙っぷり(単純に項数がもったいない)。終いには、アメリカ人の上司達に配布するものであるにもかかわらず、決別の辞として漢詩を載せた。もちろん内容を無理に英訳して。(これだけ書くだけでよほど注意散漫な出来上がりであることがわかる)
それでも結果的に、同僚の皆が大げさなくらい喜んでくれたので根を詰めてやってよかったと思う。優しい人達だった。
冊子の最終項に引用したのは、唐代の五言絶句「勧酒」だった。
ここには全文を載せないが、僕は原文よりむしろ井伏鱒二による日本語訳が抜群に美しいと思う。自分たちを受け入れてくれた基地の彼らへ、そしておそらく全員が今後日本を出ていくであろう同期たちへ、大好きなことばを贈りたかった。
しかし、当たり前だがその清々しい洒脱さを英語で表すことは難しく、終始歯がゆかった。詩の持つ普遍的なエネルギーが部分的にでも伝わっていたら幸運だと思う。
原文の吟遊詩人のニュアンスには、清濁入り混じった別れの感情を酒で酔って水に流してしまおうといった、享楽な趣がないではない。それも人間関係とその情景が風流に例えられていて微笑ましいのだが、井伏の訳には神が宿っていると思う。
特にその末節は、短いながらも呑んだくれの詩とは思えない清らかさがある。わずかの言葉によって、僕らの五感は花鳥風月、宇宙まで届くように広がる。
かけられた別れの言葉は煌めき、時空を超えて方々へ飛び散っていく。
この一節にはそんな次元を越える爽快感がないか。
さらに、日本におけるこの漢詩の辿った経緯には続きがある。
昭和の劇作家(思うに、このときはひとりの早熟な青年として)寺山修司は歴代の文豪達に対し、ニヒルかつロマンチックに返す。
この瑞々しく儚い青年の在りし日の思いにまで連なる翻訳の過程で、期せずして獲得することになった稀有な詩ということばの重み。それが「勧酒」にはある。
たくさんの別れを経た2021年の夏。
今の気持ちがどちらかというと井伏らに近いのは、僕自身が歳をとったからだろうか。
日本語の「さよなら・ごめんね・ありがとう」といった謙虚な言葉に、とてつもない愛が込められていると思う事がある。
くさいことを言うようだが、やっぱりさよならだけが人生なのだと思う。