ファッションインフルエンサーが量産した“タブロイド思考的ファッション”[ファッションリベラルアーツvol.06]
ファッションのメインストリームが映画やドラマ、雑誌という“オールドメディア”から“SNS”に移行し、我々の手に収まる小さな箱の中でトレンドが展開されるようになりました。
そんな“小さな箱”の中では、日々、様々な情報が乱造され(この記事もその一つ)、私たちの頭を混乱の渦へと誘います。
SNSやそこで目にする“ファッションインフルエンサー”は本当に私たちを“オシャレ”にしてくれるのでしょうか。
Ⅰ. インフルエンサーによる“タブロイド思考的ファッション”
SNSでこんなタイトルを見たことはないでしょうか。
YouTubeやInstagramをはじめ、様々なSNSで活躍する所謂“ファッションインフルエンサー”は、自身のコンテンツにこのような見出しをつけた上で、ファッションにまつわる情報を発信しています。
YouTubeでは、極端にわかりやすさに特化し、誰でもアクセスしたくなる動画が視聴回数を伸ばし、Instagramには、デバイスの中での見え方を追求したスタイリング写真が軒を連ね、より刺激的な服装やアイテムにいいねが多く集まります。
このような環境で、SNSのアクセス数を伸ばすためには、当然それらに迎合するしかありません。
どんどんわかりやすさと派手さが求められたファッション情報は、その過程でファッションの複雑性を捨て去り、「単純化」という結果を招いているのです。
しかし、世の中のあらゆるものは複雑→単純化の流れを辿ります。
これを「タブロイド思考」といいます。
「タブロイド思考」とは複雑な物事を表面的な部分で単純化・類型化することです。
本来服装は、トップス、ボトムス、シューズなどを全体として捉え、要素の構成によって組み立てる必要がありますが、その過程をすっかり抜かして「これさえ買えばオシャレになれる!」と単純化してしまうことは、まさに「タブロイド思考」の典型でしょう。
もちろん、SNSなどで発信する際に単純化が求められていることはよくわかります。世間に対してあまねく情報を伝えようとする際に複雑なまま届けたのでは、伝わるものも伝わりません。
だからこそ、わたしはここで多くのファッションインフルエンサーに対する批判を展開し、喧嘩を売りたいわけではありません。
ファッションインフルエンサーの発信のおかげで、ファッションに興味を持つ人やおしゃれな人の人口は随分と増えたと感じます。
それは他でもなく、ファッションの複雑性を取払い、単純化したことで、ファッションの間口がグッと広がったからでしょう。
この記事では、単なるファッションインフルエンサー批判をしたいのではなく、あくまで受け手側である我々のリテラシーを向上させる必要があると主張したいのです。
多くのファッションインフルエンサーが発信する数枚の写真や数十秒のショート動画で、ユーザーに伝えることのできる情報量にはどうしても限界がありますし、そんなものはいくらでも“それっぽく”見せることができてしまうのです。
SNSの中には、魅惑的な情報がたくさん溢れていますが、それらに傾倒するあまり“タブロイド的ファッション”に陥ってはいけません。
ファッションは本来、片手サイズの小さな箱で営まれるものではないのですから。
Ⅱ.そもそも、いいね数とオシャレって、相反してない?
多くのファッションインフルエンサーは、「SNSのアクセス数を伸ばすために情報の単純化」を行っていると前述しましたが、冷静に考えれば、「いいね数を稼ぐ」(=多くの人に認められる)ということは「オシャレ」の概念に反しているように思えます。
Maison Martin Margielaのデザイナー“マルタン・マルジェラ”はデザイナーとして自身の作品が世に認められると「理解されすぎて苦しい」と感じていたと言います。
COMME des GARÇONSのデザイナー“川久保怜”もまた「反骨精神」のもとにクリエーションと向き合い、あまりに受け入れられてしまうものを忌み嫌っています。
トップデザイナーがそう考えるように、「理解されてしまうほど単純なもの」にオシャレという価値観は合致していないのです。
多くの人がいいと思うものや受け入れられるものは、もはやファッションの最先端ではないからです。
「オシャレ」でいるためには、多くの人から一線を画していなければならないにも関わらず、いいね数が多い情報や着こなしばかりに気を取られては、他ならぬ「タブロイド思考的ファッション」そのものです。
十中八九全てがそうとは断言しませんが、いいね数が多いという状況はオシャレという概念から乖離していることを忘れてはいけません。
Ⅲ. 量産される“タブロイド思考的ファッション”にどう向き合う
とはいえ、インターネットが日常を覆うこの社会で、タブロイド思考的に単純化されたわかりやすいコンテンツから逃れることはできません。むしろ便利に活用すべきとも思います。
しかし、その単純化されたコンテンツに触れるとき、私たちの中に“哲学”が必要なのです。
“哲学”というと立派に聞こえますが、謂わば、思考の基準になる物差しです。
『これさえ買えばオシャレになれる!』『〇〇で買えるベストバイ3選!』『絶対に買ってはいけない〇〇のワーストバイ3選!』という文言やデバイス上でのわかりやすさに特化したコーディネートに踊らされ、いちいち右往左往していては、ファッションにおける個性まで単純化の標的になってしまいます。
片手に収まる“小さな箱”の中で繰り広げられるあれこれから少し距離を置いて、自分らしさを見つめることも重要だと、そう強く感じています。
この記事自体も、ぜひ気持ち半分で解釈してください。
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