落っこちる
「パァーーーンッ」
高く、銃声のような音が響く。
先輩に叩きつけられたバレーボールが俺の前を跳ねる。
「おい!▲▲、ぼーっとしてないで早く拾いに行けよ。」
飛んできた先輩の怒号に形式上の返事を返して球の後を追う。
ある日、俺は劣等生になり下がった。中学受験をしなかった俺は地元の公立中学に入学。高校受験という避けられない壁を見据えて、勉強と部活の両立が美徳とされる閉鎖的な世界。かつて、高校進学率が60%を下回っていたという1950年代に生きていたならば、進学のプレッシャーに苛まれずに済んだのだろうか。今や、進学率最低の沖縄県でさえ90%以上の生徒が高校に進学するのだから、俺に逃げ場はない。<普通>からの逸脱は怖い。誰しもにある感情だとは思うけども、俺は人一倍その点敏感であるように思う。勉強はとりわけできたわけでもないし、バレー部に所属したのもなんとなく、そんな<普通>の俺にとってその地位から脱落することは自分が自分でなくなるような得も言われぬ恐怖感があるのだ。そして、俺は落ちた。
季節は夏。転がる球は汗で湿り、正直掴むのはためらわれる。先輩たちがアタック練習をすべく並ぶコートの端にある籠まで走り、それを入れる。優秀な下級生は3年の先輩と共にメイン練習に加わることができる。先輩が休憩している間しか練習が出来ないその他下級生にとって、メイン練習に加われることは1つのステータスとなっていた(彼らの練習時間はサブ練習と呼ばれているが、練習という練習もできない束の間である。)<普通>の俺は、やはりメイン練習に加われない平凡な2年の1人だった。皆は素直に受け入れているが、俺はこの練習時間の明らかな不平等には不満を抱いていた。こんな慣習はすぐに打破すべきだ。優秀な下級生はメイン練習に参加できるという実力主義を採りながらも、2年には3年引退後無条件で十分な練習時間が与えるという年功序列制も併用する。頑張れば1年から、最悪1つ上の先輩が引退するまで待てば、自由にバレーが出来るようになる。それは、勝敗ではなく、ただバレーを楽しみたいと思う俺にとって3年が引退するまでの退屈な1年半を正当化する論理でしかなかった。
部活の退屈は、帰宅後のゲームで紛らわせた。俺が操作するキャラクターが敵を殴り、蹴りつけ、そして殺す。自分の力で世界に変革をもたらし、称えられる。ゲームの中ではそれが出来た。部活に不満を抱き続けてだいぶ経つ。これまでに先輩や顧問にもっと下級生の練習を増やすべきと何度か打診しようとした。実は、現状の問題点や改善案をまとめた文書を作成し、印刷したりもした。でも、結局何も言いださなかった。3年が引退すれば、晴れて自分もメイン練習の仲間入りなのだからあと少しの辛抱だ。なんだ、結局自分も忌避した慣習に乗せられているではないか。俺は相変わらず<普通>だった。だからこそ、<特別>になれるゲームにのめり込み、そして堕落した。
「はーい、練習やめ!一回集まれ。」
顧問の一声によって、体育館に静寂がもたらされる。部員たちは駆け足で顧問の下に向かい整列、着席する。顧問は、3年に最後の大会に向けた覚悟を、2年にチームの主軸になることへの責任を、1年に大会における応援の重要性を説く。顧問の言葉は、2年である俺にとって、あと少しで自由にバレーが出来るという期待を膨らませるものであった。
「あー後、▲▲、お前もう部活参加しなくていいぞ。」
俺の名前が呼ばれた気がした。周囲の意識が一気に自分にに集まるのが感じられる。顧問の顔を見る。視線が一直線に俺を突き刺す。
「お前、この前のテスト赤点だったって聞いたぞ。うちの部にはちゃんと勉強してる奴しかいらないから。お前らも、▲▲みたいになるなよ。文武両道が基本だからな。解散。」
部員たちは、戸惑いながらも練習の場に戻っていく。去り際、彼らの視線が、顧問によって貫かれた体に追い打ちをかけて突き刺さる。それが、見なくても分かる。確かに、前回のテストはゲームに時間を取られほとんど勉強していなかった。しかし、まさか赤点とは思わなかった。まだ、テスト返しは始まっていない。つまり、顧問は毎回部員の成績を教えてもらうよう他の教員に根回していたということになる。
「先生。」
体育館から出ていこうとする先生を後ろから呼び止める。先生に叱られたときは、こうやって引き留め、謝罪し、次回への改善策を提示する。それが、許してもらうためのテンプレートだと知っている。というか、それしか知らない。劣等生たちがいかにして先生からの許しを得てきたか、常に傍観者だった俺は彼らがそのような方法をとっていると理解している。
「なんだ、▲▲。部活には来なくてもいいから、帰って勉強したら。」
顧問の声は冷たい。
「今回は、自分の甘さのためにテストで赤点を取ってしまいました。文武両道を大切にしてる部において、こんな結果を取ってしまうことは勉強と両立して部活をやっている仲間に失礼ですし、恥ずかしいことだと思います。申し訳ありませんでした。次回は、前もって準備してしっかり赤点を回避して恥ずかしくない点数を取ります。なので、部活には参加させてください。」
初めて劣等生となった俺はテンプレ、だと思われる月並みな釈明を行う。
「そんなに部活がしたいんか。結局レギュラーなれないのに。せめて勉強だけでも頑張れや。勉強頑張ってからそういうことは言いなさい。」
俺のテンプレ作戦は通じなかった。こんなとき、いわゆる劣等生たちはどうやって対応するのだろう。さっきまで<普通>だった俺には次なる釈明が浮かばない。ただ、顧問の言葉に含まれた自分への嘲りに対する怒りだけが募った。そして、大声で叫んでいた。
「ふざけんな。この部活がくそなせいで赤点取ったんだよ。」
何がくそなのか、どうしてそれが赤点に繋がるのか、はたから見れば何の論理性もない罵声を浴びせた。自分の中にだけ答えがある。まともに練習が出来なかった1年半、その退屈を紛らわすためにのめり込んだゲーム、そして自由にバレーする機会を剥奪された悲しみ。もし、以前に不満を訴えていたならば、発言の意味を汲み取ってもらえる余地はあったかもしれない。でも、そうしなかった。<普通>だった自分が、<普通>でなくなった自分の首を絞めている。
「いや、意味分かんないし。部活のせいにするなや。そんなら、この機会にむしろ部活辞めたらどう。」
急に激高した俺を見て、顧問はどこか面白がっているようだった。顧問のどこか馬鹿にした、見下すような顔が怒りをさらに燃え上がらせるのを感じる。俺が耐え忍んだ1年半はいったい何だったのか。
「くそ顧問が、死ね。」
そんな言葉を俺が発するとは思わなかった。反射的に出た言葉に、それが自分の口から出たという事実に驚く。その刹那。顧問の平手が僕の頬を薙ぎ払った。
「顧問に向かってその口の利き方はなんや。あほんだらぁ。」
顧問の怒鳴りを背に私は走り出していた。頬に残る確実で痺れる痛み。ちらりと後ろを覗くと、顧問もまた俺を追いかけてきている。その顔にはまさに般若。先程まで浮かべていた俺を馬鹿にするような笑みは消え失せている。
体育館があるのは2階。俺は階段を駆け上がり、4階の女子トイレに逃げ込んだ。幸い、中には誰もいなかった。階段を昇る途中で顧問は撒いている。女子トイレに逃げ込めば、俺と違って男性の顧問が私を見つける確率は低くなるはずだ。女子トイレに生徒がいれば、顧問は入れない。中に生徒がいないかどうか入る前に声をかけ、反応がないことを確認して入ったとて、俺が必ずそこにいるとは限らない。少なくとも時間稼ぎにはなる。
女子トイレの個室に入り、息を整える。
俺は興奮していた。部活に対する不満を直接顧問にぶつけることができた。もっとも、相手には全く正確には伝わっていないだろうが、とにかく僕の心は晴れ晴れしていた。それは、<普通>の自分が<特別>になったように感じたからかもしれない。ついに、あの忌まわしき慣習を破壊する契機をこの自分が作り出せたのかもしれないという事実に興奮した。と、同時に俺は恐怖していた。テストで赤点を取った自分、顧問に暴言を吐いた自分それは紛れもなくかつて傍観していた劣等生の姿に他ならなかった。<普通>の自分でなくなることが怖かった。これからは、劣等生としての烙印が押されるのだろうか。部員たちや顧問が向けたあの異物を見るような鋭い視線の痛みに耐え続けるような日々が待っているのではないか。文武両道が美徳とされる閉鎖的世界の中で、ついに自分は劣等生になり果てたのだという実感が心を支配した。
そして、興奮と恐怖は入交り、それは<特別>への希求へと昇華される。<普通>から脱落した劣等生が<特別>になるためには何をすべきか。どこまでも<普通>でしかなかった自分が<特別>になれたと感じたのは、自分の不満を人前で表現した時であった。<普通>であることを強制し、<普通>でないことを蔑むこの世界に対する不満を、より多くの人に、表現したい。そして、あの顧問を後悔させたい。
俺は、トイレの奥に見える窓に向かう。
劣等生が<特別>であるために、俺は空に身を委ねた。
ー---------------------------------【補足】
・冒頭一文目の「パァーーーンッ」という音は、文中で3回鳴っています。
・主人公が「<普通>からの脱落に人一倍敏感」である理由は明記していません。理由は、主人公の一人称は「俺」だが、生物学上は「女性」であるということから分かるかもしれません。また、主人公が男子バレー部なのか女子バレー部どちらに所属しているのかが、顧問の発言から推察でき、ここからもその理由を読み取って頂けるかなと思います。
・最近、<普通>とは何かについて考える機会が多かったため、<普通>というところから始めてどんな話が考えられるかなと思って考えてみた物語になります。
・上のことを踏まえた1つの解釈としては、元々<特別>であらざるを得なかった主人公が、<普通>に固執した結果、自ら別の形で<特別>になろうとした物語と言えそうです。もっとも、あるべき姿は「元々<特別>であらざるを得なかった」という部分における<特別>が<普通>であることであり、差別的な解釈であることは否めません。