まとまりがあるようでないようで
最近はずっと人形を作っています。連日取り憑かれたように作業して手が痛くなっちゃったので今日は日記書いて大人しく寝る
裸の絵を描くとき、実在する人間(自分含め)を見て描かないようにしてる。何回かツイートしたけどnoteには書いてなかった気がするので書いておく。
絵に込めた感情は本物だから誰にも汚されてほしくない。だけど、私の描く裸は絵の中にしか存在しないから、誰にも触られないし、触れない。
誰にも汚されないし、汚せない。一回絵を経由することで安心して感情を人に見せることができる。なんやかんや何年も裸を描いているのでだんだん理想というか、自分の中にいる子の体が分かってきたから形にしてみたくなって人形を作り始めた。手のひらの形に粘土が成形されるのが楽しい。絵も文章もそうだけど、ものを作るって全部思い通りになるってことだから楽しいのは当たり前か。原点に帰った感じがする。
人よりぼんやりしてて、まだ「自分」の範囲を分かってない気がする。
きっと、他の人は「自分」って壁がしっかりある。僕の壁はぼんやり、不透明で、見ようとしない他人には見えないし、だから体とか触られやすくて、自分としても曖昧だから内側の触られたくない部分まで触られたように感じて、でもそこで威嚇したら怯えてると思われてもっとだめな方向に転ぶ可能性があるから、失敗しちゃったねって諦める。未だにそういう失敗をしている。
「自分」が何か分からないからいけない。もっとたくさん考えて、文章にして、自分のことを知れたら触りにくい人になれるかな。それが強くなるってことなのかも。
自分の部屋が昔から好き。ここにある限り、宝物もゴミも誰にも触られないし、ここにあるってことは自分を形作る要素のひとつってことで、私が寝てたままの形で止まった布団とか、使ったことが全部思い出せるゴミたちとか、さっき抱きしめたぬいぐるみとか、脱いだ服、選んだ家具、人からもらったもの、私が生きてきた証。
外で裸になったら捕まる世界でよかった。大切な人にしか見せないって前提があるおかげで、私に裸を見せてくれた人を人として尊重できるし、自分のことを大切にできてるって指標がある。
裸を見せなければ大丈夫って思えば外に出るのも少しだけ怖くなくなるし。
そういう、人の理に救われてるって気づいたから、絵のセンシティブ設定を気をつけるようになった。ちゃんと人の中で生きていきたい。
最近スペースでお話しすることが増えた。キャスと違って制限時間がないからゆとりを持って話せる。その分終わり方が分からなくてだらだら続いちゃうけど。内容も雑談、大切な話、だじゃれ、雑談、聞いてほしい話、考えてること、ってごちゃごちゃしてる。まとまりがあるようでない、けど、同じ人間から出た言葉で、本当は私の中にまとまっている。noteだって同じ話題でまとめたいと思いながら書いて、いつも長文になる。だって、根っこは繋がってる。
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