粋で、豪快。
株式会社うまプロ 代表取締役 金子真也氏
高校を卒業したあと、飲食会社に就職。12店舗をマネジメントするなど、業績向上に貢献し、20代で独立。祖父の思いを受け継ぎ、祖父のフルネームでもある、「金子半之助」をオープンする。「金子半之助」など、いったん事業を売却したのち、2018年、株式会社うまプロを設立。
祖父の生き様。
祖父の閻魔帳があった。祖父というのは、今回ご登場いただいた株式会社うまプロの代表取締役、金子真也さんのお祖父様。「粋で豪快」、江戸の職人そのものだったようだ。
金子さんによると、お祖父様は、調理師会の「天ぷら職人を派遣する互助会」の2代目会長だったそう(現在は、金子さんの叔父さんが継がれている)。「祖父が『天丼復活論』という書を遺していたんです」。
<それが、天丼の始まりですか?>
「そうですね。もともと、油と小麦というのが頭にあって、祖父の遺したレシピを知って、天丼だ、と」。天丼を復活させたのは、お祖父様の言葉に背中を押されたのかもしれない。
金子さんは、1978年生まれ。お父様は、和食の職人であり、飲食店を経営されていた。
「私自身は小学生で野球を始めますが、小学6年生からはゴルフを始めています。中学ではキックボクシングや柔道もしましたが、結局、ゴルフですね。今でも80台くらいではまわります」。
スポーツも大好きだったが、金子さん曰く、「生まれた時から飲食しか考えてなかった」とのこと。祖父、父の影響だろうか。ただし、実際に金子さんが飲食の道に進むのは、もう少し後の話。
「高校を卒業して、すぐに修業という選択もあるわけですが、父と母に修業を始めるのは『もう少しあと』と言って、専門学校に進みます」。経営を教える専門学校だったそう。「私が目指していたのは、料理人ではなく経営者だったからです。でも、この学校が1年生の時に潰れてしまいます。ウソみたいな話ですよね(笑)」。
準備運動も何もできていない。
どうするんだろう。
年休3日。
「色々あって、20歳の頃ですね。当時15店舗くらい経営されていた居酒屋に就職します。7年くらいいましたから、いい意味でも、悪い意味でも、私の原点になっています」。
できる女性社長だったそうだ。繁盛店をつくる天才だったが、社員にはかなり厳しい人だったという。
「年間のおやすみは、3日です。毎日、6時半には築地に行って買付を済ませて、8時半には駅に立ってビラ撒きです。それが終わって、11時から23時半までは店で仕事です。でも、すごい人だったのは事実で、私もむちゃくちゃ叱られれたこともありましたが、逆に可愛がっていただいたことも多く、今も感謝しています。」
25歳。5年勤務したが、基本給が安い安い。時給換算すると、最賃云々の話ではない。
「それでも、不満があったわけじゃないです。格好つけているわけじゃなく、お金じゃなかったですね」。
たしかに給料を判断材料にしていたらすぐに逃げだしていたに違いない。
昭和のこととはいえ、年3日はあまり聞いたことがない。
「でも、たのしかったです。やんちゃ仲間をみんな巻き込んで、あそびのようにして、みんなで仕事をしていました」。若い仲間がエネルギッシュに仕事をする。
年間の休みが3日間だけだったとしても、そりゃ、たのしかろう、というものだ。
天丼復活論。
もちろん、こちらでの修業は金子さんの自信になる。20代で、12店舗のマネージャーになり、人事から仕入れ、板前の管理まで任されていたそうだ。
「父親がからだを壊して、店をたたむという事になったので、父親が経営していたビルの1Fにあったお店を全面改装し、仕出しの「湯島半之助」を3人でスタートしました」。
<それが始まり?>
「そうですね。マネージャーを務めていた会社を辞めて、1年ちょっと『夢櫻』という会社でお世話になったあとに独立です」。
<いかがでしたか?>
「けっこう繁盛しました。貯金は800万円くらいで、あとは金融機関から融資していただいてのスタートです。その頃から、一品で勝負したいというのが頭にあって。それでスタートしたのが、『金子半之助』です」。
<お祖父様の『天丼復活論』ですね?>
「そうです。もともと、油と小麦というのが頭にあったんです。今で言うとガッツリ系ですが、ラーメンだって、ハンバーガーだってそうでしょ。でもラーメンはともだちがしていましたし。そんな時、祖父のレシピをみて、『天丼復活』が、孫の私のミッションのように思えて、当時、まだそうなかった天丼専門店を始めます。祖父のレシピ通りのタレもつくっています」。
ストーリーをつむいだ。
「ブランディングの一つですが、老舗も、そうですし、『日本橋』もストーリーをつむぐ上では重要なロケーションでした」。
「粋で、豪快」。
これは、お祖父様の人柄そのもの。お祖父様を知る人から、リサーチした結果、浮かび上がった一言でもある。「金子半之助は、祖父をモチーフにしたような店です」。
<だから、粋で、豪快?>
「そうですね。今や世界にも広がっています。その原点です」。
なんでも天丼は880円、味噌汁は100円と、1000円出して20円のお釣りがくるという料金設定。浅草の半額と決めていたそうだ。
「粋で、豪快だから」と3日間、1日300食を限定に、無料でふるまったそうだ。
「たまたま日本橋が生誕400年ということもあって、かなり評判になって、川崎ラゾーナの出店のオファーが来て、そのあと木更津やお台場とつづきます」。
粋で、豪快。
<金子半之助は、売却されていますね>
「はい。友人の辻田さんといっしょになって、買い取りたいという会社さんに売却しました。いくつかの会社さんからオファーがあって、条件としてはほかの会社さんのほうが良かったんですが、社員さんのパッションなど、いちばん熱量があったので、そちらにお任せすることにしました」。
<それが新たなチャレンジの始まり?>
「そうです」。
現在、金子さんは、株式会社うまプロを経営されている。ホームページによると、設立は2018年1月29日。2020年2月14日にはアメリカNJ州に<cheese cream& bubble tea 「UMACHA」>をOPEN、2021年8月、国内飲食店向け<UMACHA>を販売開始。2021年11月1日に<月島もんじゃ お好み焼き屋 てっぱん 向ヶ丘遊園店>FC店1号店をオープンとある。
「UMACHA」のブランドサイトを観ると、お茶という日本人のルーツの一つが、世界に向け、発信されているのがわかる。まさに、これこそ、「粋で、豪快」。
実は、金子さんにとって家族は一つのテーマ。
「私は、姉を病気で亡くしているんです。私が10代後半のことです。私はずっと姉の面倒を看ていたんですが、その姉が私の背中を押してくれたんです。それが20歳の時です」。
お祖父様も、お姉様も、今の金子さんを観れば、どうおっしゃるだろう。
「粋で、豪快」。それは、いっけん豪放な性格の表れと思われがちだが、そうではない。自身より、だれかを大事に思うこと。金子さんの話をうかがって、それが、「粋で、豪快」の正体だと思った。
ちなみに、金子さんは、今も「金子半之助」の事業にファウンダーとしてかかわっておられる。シンガポールを生活拠点に日本の飲食を世界へと今でも世界中を飛び回っております。とのこと。これも、粋で、豪快な生き様である。
主な業態
月島もんじゃ お好み焼き屋 てっぱん
飲食業界に興味がある、キャリアアップしたいという方
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