セッションしようぜ。
株式会社JAM Restaurant Corporation 代表取締役 飯高晶之氏
21歳、渋谷の中華レストランでバイトを始め、お台場のイタリアレストランに異動し、イタリア料理を学ぶ。アルバイトながらスーシェフとなるなど、わずかな期間で料理の才能を開花。2年半の修業を経て、イタリアレストランをオープンする。
バスケとギターと。
「剣道から逃げ出したいと、バスケを始めた」と笑う。小学5年生の頃の話。
「スラムダンクの影響もありましたが、剣道を辞める口実になれば、正直、なんでもよかったんです」と、今回、登場いただいたJAM Restaurant Corporationの代表 飯高 晶之さん。
何でもよかったわけだが、才能があったんだろう。中学に上がると1年からレギュラー。ただ、調子に乗りすぎてこっぴどく叱られ、反省する。素直に、反省するあたり、ピュアな少年だったにちがいない。
「チームをはじめて意識したのも、この時」と、飯高さん。やがて、飯高さんは、キャプテンを務めることになる。
高校は推薦で、日体荏原へ。いよいよ、高校デビュー。ハイレベルな世界が観られると思ったやさき、挫折のにがさを知った。1年の時に、股関節の炎症を起こした飯高さんは、けっきょく退部してしいる。
好きなバスケットボールから離れたことで、鬱屈した高校生活がスタートする。そんな生活をいっぺんさせたのが、ギターだった。
「これも、きっかけはなんとなく。ともだちのバンドを観てシンプルに『面白そうだ』と思ったのが始まりです。モテそうだし、やってみるかなと高校3年生の時に初めてギターを弾きます」。
ギターと、ボーカルも時々務めた。好きなアーティストは? とうかがうと、ラモーンズやクラッシュ、ビートルズなどの名が挙がった。
「大学進学は頭になかった」と飯高さん。
<バンドで食べていく?>
「そう。仲間といっしょに割といいところまでいったんですけどね」と笑う。
バイトでスーシェフに。そして、独立。
飯高さんは、1982年に東京都大田区に生まれる。お父様は、不動産業をされていて羽振りもよかったそうだ。
「小さい時から海外によく連れて行ってもらいました。最初に行ったのはフィジーです。これが6歳くらいの時で、小学生の頃にはハワイとかサイパンとかにも」。
ただ、中学に上がると、思春期に突入。「親といっしょに行くのが恥ずかしくなって、行かなくなった」と笑う。
バスケットボールに熱中したことも理由の一つだったにちがいない。
さて、そのバスケットボールからも離れ、バンドからも離れた飯高さん。つぎに出会ったのが、飲食だった。
「渋谷にある中華料理店でスタートして、系列のお台場のイタリアンに異動します。21歳頃の話です」。
最初は、とくに面白いと思っていなかったそうだが、だんだんと飲食の世界に惹かれるようになった。
「その店で2年半はたらき、独立します」。バイトだが、スーシェフになっている。
ただ、2年半は、早い。
「そうなんです。ただ、独立しようと思って辞めたわけじゃなくって、最初は海外を放浪するつもりだったんです」。
海外は小さな頃からなんども行ったから、興味もあったし、ふつうの人と比較してハードルも低かったにちがいない。どこに行くつもりだったんだろう。
だが、お姉さんの一言で、海を渡ることはなくなった。
投資額300万円の小さなイタリアレストラン。
「姉が大田区の池上にある物件を紹介してくれたんです。親父の会社で、仕事をしていたからなんですが」。
調べてみると、300万円くらいでオープンできそうだった。
「独立するなら若いうちがいいでしょ。失敗してもリカバーできるし、リスクも少なそうだからやってみようかな、と」。
<それが、始まり?>
「そうです。もともと計画していたわけじゃないし、そういう意味では、創業したのも、たまたまそういうタイミングだったというしかないですね」。
<いかがでした?>
「食べていけるくらいで、パッとしませんでした」と飯高さんは苦笑する。
「ただ、今、うちの幹部は、その時のお客さん。カウンターの向こうから『はたらかせてください』って言ってきてくれた連中なんです」。
業績はともかく、若者が惹かれる何かがあったのはまちがいない。そして、彼らの選択もまちがっていなかった。
ホームページをひらくと、うつくしい飲食の世界が目に飛び込んでくる。その始まりが、この家賃15万円の小さなイタリアレストランだったというから、感慨深い。
ちなみに、グルメサイトもみたが、すべてのブランドで高い評価点を獲得している。お台場のレストランで、わずか2年半でスーシェフに登り詰めたことからもわかる通り、料理の才能も豊かだったんだろう。
<バスケもそうだし、ギターもそう。なんでも、簡単にできちゃうんですね?>と軽く話をふると、「でもね、突き詰めたことがなかった」と意味深な回答。
料理は、奥が深い。経営も、突き詰めなければ、意味がない。その裏返しのように聞こえた。もう、創業して18年目になる。
2年半のスパンでオープンする新ブランド。
「ほぼ2年スパンで出店している」という。2024年6月現在、以下のブランドをオープンしている。
<豚とワインを愉しむ本気イタリアン「Gazzo」>
<大型パーティも可能なイタリアン「Allegro」>
<フランス料理・ウェディングレストランJAM ORCHESTRA(ジャムオーケストラ)>
<銘柄鶏や地鶏を使った鳥料理と水炊き鍋料理の居酒屋鳥肌(とりはだ)>
<レストランウェディング対応可能なイタリアンレストランAllegro Kanazawa(アレグロ カナザワ)>
<イタリアンレストラン・ジビエ料理・炭焼き肉バル「braceria BAVA(ブラチェリアバーヴァ)」>
いずれも評価点が高いのは、すでに表記した通りだが、百聞は一見に如かずのことわざ通り、興味がある人はぜひ、ホームページをご覧いただきたい。熱量まで、伝わってくるはずだ。
飯高さんは、理不尽をきらう。バイト時代には、その日の気分で仕事をするシェフが気にくわなかった。だから、負けるものかと、朝から晩まで料理と格闘した。
その2年半について、くわしく語らなかったが、けっして才能の一言で片づけてはいけない苦労も、努力もあったのは、まちがいない。ゴツゴツした岩にぶつかり、飯高さんの人格もまた磨かれたにちがいない。
その人格に惹かれ、40名の社員が、いま飯高さんの下ではたらいている。社員の半数が料理人というから、組織は重層だ。女性スタッフも多いらしい。
ちなみに、社員は、最良2年で店舗を異動するそうだ。だから、交流も盛ん。その結果、チャレンジできる風土も、根付いている。
とかく、レストランが評価されがちだが、それ以上に組織が評価されてもいいのではないかと思った。
色々な想いやキャリアを持った者達が創るレストラン。
「コロナ禍では、それなりにピンチも経験しましたが、おかげ様で、うちの会社は、今、モテ期なのかなって思っています。様々なオファーもいただきますし、採用では今も苦労していません。資金的にも、コロナを乗り越えてゆとりがでてきました」。
売上や利益ではなく、「今からは、シンプルに、ピュアに面白いことにチャレンジできる」という。1次産業への参入は、やりたいことの一つ。
「畑、養鶏、酪農、生乳、チーズ作り」、それをやりたいと飯高さん。賛同するスタッフも多いにちがいない。
ホームページで、飯高さんは次のように語っている。
<当社の社名のJAM(ジャム)には、ジャムセッション……譜面無しに、ミュージシャン達が集まってそれぞれの個性が一つの音楽となって人々を楽しませるように、色々な想いやキャリアを持った者達が創るレストランでお客様を楽しませたいという気持ちが込められています。>
なにをするかじゃない。飯高さんがすべてを決めるのでもない。様々なキャラクターが、思い思いの音を奏でればいい。だから、飯高さんはしばらない。ただ、語りかけてくる。
「セッションしようぜ」。
主な業態
Gazzo
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