スープとパンに人参

新しい友だち。古い友だち。それが私のすべて。格好がとてつもなく変だ。恋心が荒んでゆく幼少期。
今目の前にあるのは昔の友だちとの手紙のやり取りだけであって、それ以外の何も残らぬ抜け殻であって、なんのためにこんな日々を過ごしているんだろうかとふと思う。そんなことを考えていると黒鳥が気に止まっているのが見えた。それはとてつもなく大きな影でとてつもなく柔らかそうだった。触ってみたい。触って確かめてみたい。そこに本当に黒鳥が止まっているかを。
海鳴りが聞こえる。黒鳥はそれに反応する。私もそれを見て、いくらかの反応をしてしまう。これは今の話ではなく、昔々の話。だってそうではないか。いつのまにか今は今であって、そうではなくて、点と線が交差して、退廷して、逆行して、入り乱れて進んでゆく。これを書いているのはどんな意味を持った衝動なのだろうか。何も考えていない。ただそれだけなのだ。私は私であるために。貴方もきっとそうでしょう。私には分かっている。何がどこから来ているのか。そのどこが、何色をしているのか。
行方を探すのは父か母か。そのどちらでも無いのならば、そうした理由をしっかりと持たなくてはならない。
ミントの木は存在するのだろうか。ミントは木にならない。地べたを這う。そうすることしか出来ないように。果たしてなぜなのだろう。どうしてだ。私にはそれが不思議でしょうがない。そのことを考えていると海鳴りがどんどん遠ざかってゆく。それを気にして、私は海へ一歩足を運ぶ。大きな一歩。大切な一歩。これがなければ世界は終わっていたのかもしれない。
お母さん、お父さん。私は母になりました。そして父にもなりました。そのどちらでも無いのかもしれません。もう眠いです。眠っても良いのでしょうか。いや、私よ目を覚まさせなさい。自分自身を鼓舞して、ほっぺたをつねりなさい。
目が覚める。ここはどこだろう。何もない部屋。家具も一切なく、一つのコップすらもないこの部屋はとても寒い。毛布の一枚でもあれば少なくともこの寒さを凌ぐ事が出来たのに。私は神を恨んだ。恨んでもしょうがないのに、そうせずにはいられないのだ。私と神の関係性は、どのようだろうか。そこに関係性なんてものはあった試しがないでは無いか。過去を振り返ってみよう。とてもとても長い時間を遡る。そこにあったのは一つの机だった。その上には置き手紙がある。何が書いているのか。それが気になり透明な私の手が勝手に伸びる。手紙をつかめたかつかめていないかの感覚が欠如している。自分が何に触れているのかが分からないんだ。しかし頭の中には文章らしきモノが浮かんでくる。拝啓。書き出しはそのようだ。私は今、人の人生を覗き見しているのかもしれない。なぜかやましい気持ちになる。私を影で見張っている誰かが思わず罵声をこちらに浴びせる。私は何も悪いことなどしていないのにだ。腹が立つ。そして仕方なく透明の手を引っ込める。
遠くで聞こえるのは海鳴りではなかった。これは鐘の音だ。そうだ、私は協会の近くにいたんだ。なんでこんな大切な事実を忘れていたのだろうか。お父さんもお母さんもここにいるのに。

ここで手拍子が早くなる。いつから手拍子が鳴っていたかは私にもよく分からない。そんな事重要でもなんでも無いではないか。これは詩か、そうでないのか。私は今、頭の中が矛盾の解決のことでいっぱいだ。いつ終わるかも分からないこの人生がいつ終わってもおかしくないこの人生が、とてつもなく愛らしく思えることがたまにある。でも決まって次の瞬間、そんな気持ちが一切消え去って虚しい破壊衝動に駆られるのだ。何を破壊したいのかははっきりしていない。いつもそれは曖昧なものだから。
夕食にしよう。カレーパンが棚の奥に置いてあったはずだ。それを手に取り頬張ろう。そうすればきっと元気になれる。そう信じて私は重い腰を浮かせた。椅子がキイっと音を立てる。私は体重がさほど無い。ほとんど何も食べないせいだ。やせ細った私の体は男のものでもあり女のものでもある。性器はついていない。モノが無い。そうすると私は女ということになる。その事実はとても儚くいつでも消える準備をしているのだ。
カレーパンをかじる。なぜか温かい。そこにあるのは美味。それがとても良いのだ。なんとうまい表現が出来ないが、とても美味い、の中に世界の心理のようなものを感じるのだ。
夕方、友達の家を尋ねる。友人は出迎えるなり私を抱擁し、よしよしと頭を撫でる。その手が鬱陶しくて払いのけるのだけれどもそれを無視してまた私の頭を撫でようとする。そんな友人が心の奥でありがたかった。なんて言いう友人を持ったのだろう。私は恵まれているでは無いか。こんな事があって良いはずがない。なぜならば私は先日もうひとりの友人を、背中からナイフを刺して殺害したからだ。殺害予告はポストに入れたのだが、そのもうひとりの友人はポストを開けることなく、何も知らない状態で私に殺された。肉を切り裂く音はとても鈍かった。その音はくぐもって、一メートル先にも届くことがなかった。
そんな事を知らない友人は今も私の頭をなで続けている。もう払いのけるのも面倒でなされるがままにしていると、奥から友人の妻が友人に声をかける。
もう夕食の時間らしい。私はそれにお呼ばれする事になった。はい。そうですか。ありがとうございます。などと言いながら私は部屋の奥の食卓へとついた。そこからは文句の一つも言わず、ずっと料理ができるのを待っていた。
出てきた料理はとても質素なものだった。じゃがいもと玉ねぎのスープ。パン。人参のサラダ。どれも美味しそうには見えなかった。しかし私はそれをたいそう美味そうに食べなくてはならなかった。なぜかというと、それが人と人との協力関係だからだ。そうやって社会は成り立っている。私はそれを知るのが遅かった。四十五歳。この四十五年は何だったのか。そんな事を覚えるのに苦労していた自分が可愛そうだ。なんて未熟な人間。なんてあどけない人間。なんて悲しい人間。なんて優柔不断な人間。そんな人間であることを私は多少誇らしく思う。この料理たちはそんな私に取り込まれ、幸せなのだろうか。と今日強く思う。そんな一日だった。


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