酒と肴と、僕の「顔」と。
「酒 肴」と書いた灯りが見える。店内はいつもいろんな人で溢れかえっている。
仕事帰りのひとりのおじさん、楽しい会話に花を咲かせるカップル、久しぶり会った地元の友達二人組、日本酒が好きなお姉さん、いろんな人たちが立ちながら酒と肴を口にする。酒と肴と口にしながら、表情が変わらない人や感想が声に出てしまう人いろんな人がいる。
僕もそこにいる人のうちの一人だ。
最近できたばかりの引き戸を開けると、「まいど!」といういかにも大阪の居酒屋といった挨拶が飛んでくる。
店員:「今日は疲れてるけどどうしたん?」
僕:「仕事してたら疲れたんですよ」
店員:「そんなん言って仕事してないやろー」
僕:「してる!いつもしてるから!笑」
ありきたりな店員と客の会話が始まる。日によってやりとりは違っても、そんなやりとりから僕の酒と肴の時間は始まる。
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人は生きる上で無意識のうちに、たくさんの顔を持つようになる。家庭での顔、友達といる時の顔、仕事上の顔、ひとりでいるときの顔。
大人になるにつれて、無意識のうちにまたひとつ、またひとつと顔が増えていく。気づけば、阿修羅像の三面も超えて、無数の顔を持っている。
もちろん例外なく僕もそのひとりだ。「いくつの顔を持っているんだろう」なんて考えてみるけど、28年のうちにその数は無数に膨れ上がってわからなくなってしまった。
そんな無数に膨れ上がったたくさんの顔の中で、「NPOの代表」という顔を僕は持っている。これは仕事用の顔だから、頻繁につけることになる。
この「NPOの代表」という顔はやっかいなやつだ。
社会課題を解決しようとする「NPOの代表」というだけで、イメージが先行していく。真面目、意識高い、バリバリ仕事をしてる、そんな風に捉えられるし、いつしかそのイメージに合わせたような表情、ふるまいをするようになっていく。
増えすぎた顔は、どの顔が本物なのかも徐々にわからなくしていってしまった。演じていたはずの顔がいつしか自分を覆い隠して、自己欺瞞の中にいるような感覚になった。
すべての顔が本物もかもしれないし、すべての顔が偽物かもしれない。そんな自己欺瞞に陥ると、息を吐いて息を吸うことすら苦しくなってしまっていた。
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「酒 肴」の灯りに引き寄せられて、初めて店内に入ったのは、まだ着古したボロボロのダフッルコートに分厚いマフラーといった服装の頃だったと思う。寒くて外で待つには適していないそんな季節だった。
それから半年ぐらいがたった。着古したコートは捨ててしまったし、マフラーも押入れの中にしまった。気づけば桜も散って、蝉がうるさく感じることも少なくなり、もう夏が終わろうとしている。
夜の灯りに引き寄せられる虫のように、「酒 肴」の灯りに僕は引き寄せられ続けた半年間だった。
一歩店内に入ると、「NPOの代表」という顔から解放される。そして、他にもたくさん持った顔を忘れることができる。
お酒のおかげだろうか。うまい肴のおかげだろうか。きっとどちらも正しい。
でも日常を忘れさせてくれるのは、たくさんの顔に振り回されていることを忘れさせてくれるのはきっとそこにいる人なんだろう。
店員さんと他愛もないやりとりをしたり、おじさんたちと話しつつ、その人のありのままの姿を見る。そして、僕も「NPOの代表」の顔を一度外して、特に肩肘張らずにそこで話したりしてる。
そんなことをしていると、「たくさんの人がたくさんの顔を持っていて、それがみんなの日常なんだな」なんて思えてくる。
たくさんの顔を持って、喜怒哀楽いろんな感情を抱えながら、日々みんな生きているんだなと思えてくる。
お酒は好きだ。酔っているのも当然好きだ。
けれど、「酒 肴」の灯りに引き寄せられるのは、きっと僕が僕らしくあるためのかもしれない。もしかすると、「お酒を飲むことを正当化しているだけなのかもしれないな」なんて頭をよぎったりするけれど、僕は誰かと楽しくお酒を飲む。
そして、膨大な数になった「顔」を一度外して、またカウンターに立つ。