文学部哲学科って何のためにあるのか
2022年12月25日(日)。10時55分。
メリークリスマス。間違いなくクリスマスの日。大人にはサンタさんは来ませんが、過去の自分がサンタさんとしてやってくることがあるらしいです。どういうことかというとポケモンセンターオンラインからようやく、ポケモンカードのアクリルスタンドが出荷されたそうです。恐らく、クリスマスイブに日にち指定の配達が大量にあり、それが終わってからの発送なのだと思います。楽しみがそれしかないので、楽しみに待っています。
なんか、昔、『甥っ子とかに『和音おじちゃんって遊び人だねー』と言われるような大人に成りたい』とか言っていたような気がしますが、甥っ子、いませんし、これから先も小さい子が親戚になることは、数年先か数十年先のような気がしています。何が言いたいかと言うと、甥っ子とかに『和音おじちゃんって遊び人だねー』って言われる頃には、もう、ポケモンカードのブームは去っているかもしれません。また、アクリル板に挟んでいたら、蛍光灯や日光で日焼けしてしまい、せっかくの芸術的なポケモンカードも、その未来の甥っ子姪っ子が見た時には、もうポケモンカードはボロボロの姿で飾られている可能性は充分に有り得る、という悲しい現実があります。
「こんにちは。年賀らせです。はい。今日は井上さんは。いえ。失礼しました。昨日と同じく今日も、井上さんは部屋に閉じこもっていようとなさっているのですが。はい。うつ病予報が流れています。昨日、2022年12月24日も軽くうつ病っぽい言葉を紡ぎ、うつ病っぽい記事が流れてしまいましたが、今日もまた、軽くうつ病っぽい記事が流れていきそうな予感がいたします。コンタクトレンズも着ける気は無いっぽいので、うつ病予報はほぼ確実ですね。何も書かないかもしれません。ただ天井をぼーっと見て寝込むような休日になるのかもしれません。ポケモンセンターオンラインから出荷されたのが昨日とのことでしたが、残念、ここは熊本。東京から荷物が届くまでには数日かかかるでしょう。
しかし、昨今。運送業者の人は明らかに忙しくなっていて、今日ももちろん働いていて、そこまで高い給料も払われていないような気もします。『誰でもできる』とか言われて給料も低いかと思われますが、『誰でもできる』からと言って『忙しさに耐えきれるか』という、仕事の本質的なところに給料の目安が置かれていないところに、なんというか、格差というか、そんなものが見えてきてしまいそうな気がします。弁護士とか、一つの事件で100万くらい入ってくるのでしょう? まあ、だからみんな大学へ行って司法試験とかを目指すのでしょうけれど。初めから、生まれた時から、または成長していく過程で、『この世は働いた時間だけで給料が決まらない。特権階級のような仕組みが残っている。だから、あなたも特権階級に入れるように勉強を頑張りなさい』みたいに言われるわけです。しかしながら井上さんは何一つ将来についてのアドバイスとか貰えなかったので『小説家になって印税で生活するのが一番楽なんじゃないの』みたいな、世の中を何も知らない子供のような考え方で、ずっと文学部を志願していたとか。
法学部に行って、司法試験に受かれば、将来は約束されたも同然ですが。
文学部に行って、哲学のレポートを何十万字と書かせられようと、将来小説家になる約束などは一切無いのです。どちらかと言うと理系で、親が太くて大学院まで行って、研究職とかになって、その片手間で世間の方々が知らない知識や言葉を駆使しながら小説を書いた人のほうが、一瞬でパッと花開くというか。ここで思うのですが、文学部の価値って一体なんなんでしょうね。
ちなみに哲学科の価値も分かりません。哲学科に行って、『哲学科なのに、読書と語学しかしてねーじゃん!』みたいなギャップに哲学科に入った一年生などは痛感してしまうと思われるのですが、哲学科も改良したほうが良いのでしょうか。それとも同志社大学という中途半端な大学での哲学科だったからこのような齟齬が生じてしまったのでしょうか。……いえ違いますね。京都大学の文学部哲学科専攻に行き、卒業した友人がいましたが、就職試験では全て失敗し、『哲学は無駄だった』と言って一年宅浪して、熊大医学部に行った人がいましたね。……哲学って必要ないのでしょうかね。井上さんが哲学を選んだ理由は小説の題材探しという、これまた将来を考えていないかのような進路を取ったわけで、ちなみに一人暮らしの中では努力はしてきたらしいのですが、結局小説家にもなっておらず、パートタイマーで過ごしている訳なんですよ。まあ、不幸な病気というか障害を考慮に入れなければいけないとは思いますが。
果たして、哲学科ってなんの価値があるのでしょうか。哲学科に行って何かベストセラーとか出した作家さんっていましたっけ。『哲学科に行って統合失調症になりました』というのが井上さんの、一言で大学生活をまとめるとそうなるのですが。ええ。井上さんは結構単位も取っていて、必修なんかはほぼ全てクリアしていたので、後は卒業論文と、一年の時にサボった一般教養と、フランス語の1単位と、4年次しか取れない、フランス語の講読さえ単位を取れば卒業だったわけですが。結局のところ『哲学を教えられた記憶は、研究室に入ったあるボスの人以外からはたいして哲学を教えられた記憶もないし、哲学科って一体なんなんだろう』って気持ちになったのですね。みんな『難しい』とか言ってそのボスの研究室には入らなかったわけですが、井上さんから見たら『この人以外に、本当に幅広く哲学に詳しい人っていなくね……? なんでみんな来ないの』とか思っていたらしいですね。ちなみにゼミの振り分けの時には。はい。発達障害特有の時間を間違えるとかを頻発してしまったために、ゼミの振り分けの説明会には参加することが出来なかったとか。顔見知りくらいの友人が、わざわざ、そのボスの説明会に登録してくれていた、という奇跡と、そのボスの研究室には、ほぼ誰もいなかったという奇跡が重なり、まあ、行きたい研究室に一年間くらいは居れたわけですが」
なんか。僕の哲学科の勉強内容をただ書いただけのような気もするけれど。
結局哲学科って何をするところだったのでしょうか。あんなにフランス語とドイツ語を極めさせようとする必要性ってあったのでしょうか。記憶力が滅茶苦茶悪いので語学には散々苦しめられ、古代ラテン語とか古代ギリシア語とか、取ってはみたものの付いていけず。あの頃から早めにコンサータを貰っておけば、もっと充実したキャンパスライフを送ることが出来たのかもしれませんが。
哲学科ってなんのためにあるのでしょうね。
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