献体をしても、社会貢献にならない
献体と解剖実習に関しては、
「献体をされた人の遺志を尊重しなくてはいけない」
「死体解剖保存法に基づく丁重な取り扱いが求められる」
という前提があるので、言論がひどく不自由になっています。
「世話になった恩返しとして、世の中に貢献したい」という故人の気持ちは尊いですが、残念ながら、献体は大した社会貢献にならないです。
医学部学生は、解剖実習で人体構造を学んでいるんじゃないです。解剖書を読んで構造を憶えています。解剖実習は、「解剖実習をした」という事実をもって、単位認定してもらうための行事でしかないです。
しかも、献体は余っている。献体を実習で消化しきれなくて、献体の新規受付をしていない医学部も多いのです。
つまり、献体申し出とは、
街頭募金活動 ←やったことある。1日かけて、数千円集めるよりも、自分の財布から寄付した方がよほどいい。
無職老人の交通指導員 ← 旗振りが交通安全になるんですか?
無職老人のゴミ集積所管理 ← 収集日早朝まで施錠されている。夜勤とか前日出張する人はどうするのだ?
町内会のゴミ拾い、側溝さらい ← やったことある。ゴミなんて落ちてないし、側溝さらいは専門業者の方がよほど効率がいい
町内会の避難訓練 ← これに自分の町内会費が使われていると思うと腹立たしい
町内会の夜回り ← やかましいだけですね
バザー、ベルマークによる寄付 ← やったことある。1日1000円にもならない。
被災地での素人ボランティア ← 被災地の物資を消費するお荷物にしかならない。
こういったものと同じです。
社会貢献ではなくて、本人の自己満足なんです。
しかしながら、「社会貢献を尊重しなければいけない」というポリコレのために、私達は、何も言えなくなっている。
かつて、千人針という奉仕活動がありました。
千人針をいくらたくさん作っても、戦争勝利には何ら貢献しませんが、善意でやっているから、誰も、止めろとは言えなかった。
千人針と同様の奉仕活動として、千羽鶴があります。千羽鶴のくだらなさは、さんざん批判されましたので、もういいでしょう。
亡くなったコラムニスト、小田嶋隆氏は、ベルマーク運動やボトルキャップ運動も、千人針の系譜に連なる愚行だと書いています。
我々は、社会貢献したいという気持ちは持っているが、それが何か有効な貢献になることは少ないです。
むやみに社会貢献ムーブをやると、周囲が扱いに困って、むしろ迷惑になることの方が多い。
せいぜい今の仕事を頑張って、生産性を上げて、納税する以上の社会貢献はないです。手持ちの金を寄付するのもいいでしょう。