抱き合うように彼の頭の中を通過した
靄とも夜の色とも片づかないものの中にぼんやり描き出された町の様はまるで寂寞たる夢であった。自分の四辺にちらちらする弱い電灯の光と、その光の届かない先に横わる大きな闇の姿を見較べた時の津田にはたしかに夢という感じが起った。
「おれは今この夢見たようなものの続きを辿ろうとしている。東京を立つ前から、もっと几帳面に云えば、吉川夫人にこの温泉行を勧められない前から、いやもっと深く突き込んで云えば、お延と結婚する前から、──それでもまだ云い足りない、実は突然清子に背中を向けられたその刹那から、自分はもうすでにこの夢のようなものに祟られているのだ。そうして今ちょうどその夢を追かけようとしている途中なのだ。顧みると過去から持ち越したこの一条の夢が、これから目的地へ着くと同時に、からりと覚めるのかしら。それは吉川夫人の意見であった。したがって夫人の意見に賛成し、またそれを実行する今の自分の意見でもあると云わなければなるまい。しかしそれははたして事実だろうか。自分の夢ははたして綺麗に拭い去られるだろうか。自分ははたしてそれだけの信念をもって、この夢のようにぼんやりした寒村の中に立っているのだろうか。眼に入る低い軒、近頃砂利を敷いたらしい狭い道路、貧しい電灯の影、傾むきかかった藁屋根、黄色い幌を下した一頭立の馬車、──新とも旧とも片のつけられないこの一塊の配合を、なおの事夢らしく粧っている肌寒と夜寒と闇暗、──すべて朦朧たる事実から受けるこの感じは、自分がここまで運んで来た宿命の象徴じゃないだろうか。今までも夢、今も夢、これから先も夢、その夢を抱いてまた東京へ帰って行く。それが事件の結末にならないとも限らない。いや多分はそうなりそうだ。じゃ何のために雨の東京を立ってこんな所まで出かけて来たのだ。畢竟馬鹿だから? いよいよ馬鹿と事がきまりさえすれば、ここからでも引き返せるんだが」
この感想は一度に来た。半分とかからないうちに、これだけの順序と、段落と、論理と、空想を具えて、抱き合うように彼の頭の中を通過した。しかしそれから後の彼はもう自分の主人公ではなかった。どこから来たとも知れない若い男が突然現われて、彼の荷物を受け取った。一分の猶予なく彼をすぐ前にある茶店の中へ引き込んで、彼の行こうとする宿屋の名を訊いたり、馬車に乗るか俥にするかを確かめたりした上に、彼の予期していないような愛嬌さえ、自由自在に忙がしい短時間の間に操縦して退けた。
彼はやがて否応なしにズックの幌を下した馬車の上へ乗せられた。そうして御免といいながら自分の前に腰をかける先刻の若い男を見出すべく驚ろかされた。
「君もいっしょに行くのかい」
「へえ、お邪魔でも、どうか」
若い男は津田の目指している宿屋の手代であった。
「ここに旗が立っています」
彼は首を曲げて御者台の隅に挿し込んである赤い小旗を見た。暗いので中に染め抜かれた文字は津田の眼に入らなかった。旗はただ馬車の速力で起す風のために、彼の座席の方へはげしく吹かれるだけであった。彼は首を縮めて外套の襟を立てた。
「夜中はもうだいぶお寒くなりました」
御者台を背中に背負ってる手代は、位地の関係から少しも風を受けないので、この云い草は何となく小賢しく津田の耳に響いた。
道は左右に田を控えているらしく思われた。そうして道と田の境目には小河の流れが時々聞こえるように感ぜられた。田は両方とも狭く細く山で仕切られているような気もした。
津田は帽子と外套の襟で隠し切れない顔の一部分だけを風に曝して、寒さに抵抗でもするように黙想の態度を手代に示した。手代もその方が便利だと見えて、強いて向うから口を利こうともしなかった。
すると突然津田の心が揺いた。
「お客はたくさんいるかい」
「へえありがとう、お蔭さまで」
「何人ぐらい」
何人とも答えなかった手代は、かえって弁解がましい返事をした。
「ただいまはあいにく季節が季節だもんでげすから、あんまりおいでがございません。寒い時は暮からお正月へかけまして、それから夏場になりますと、まあ七八二月ですな、繁昌するのは。そんな時にゃ臨時のお客さまを御断りする事が、毎日のようにございます」
「じゃ今がちょうど閑な時なんだね、そうか」
「へえ、どうぞごゆっくり」
「ありがとう」
「やっぱり御病気のためにわざわざおいでなんで」
「うんまあそうだ」
清子の事を訊く目的で話し始めた津田は、ここへ来て急に痞えた。彼は気がさした。彼女の名前を口にするに堪えなかった。その上後で面倒でも起ると悪いとも思い返した。手代から顔を離して馬車の背に倚りかかり直した彼は、再び沈黙の姿勢を回復した。
『明暗』百七十一
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