フィールドワークからトランスワークへ
北から南に流れる栗巣川の右岸、つまり川の西側の集落に住んでいること、そして東側の山並が低いこともあって、私の家は日の出を浴びながら一日が始まるが、南西に山を背負っているため、日暮れは早く午後の光は半ばあきらめざるを得ない。だが、その午後の光を捨てても、日の出というものの僥倖は、他のものとはかえがたい。
ただこれだけのことが、なにかこの村の特異性を表しているようで、トランスワークのきっかけとなり始める。家の縁側からは、低くなって見えない川を挟んで東側の家々が眺められる。いわばここは、スノーボードのハーフパイプのように、半筒状の世界なのだ。
西の家を出て、東の家々に向けて歩き下り始める。中央には川が横切っているが、その両端は、田んぼがせめぎあっている。北から南へ田んぼは川沿いに、段丘状に下がっていくから、もし南を見わたせばそのほどけゆく風土に身がほだされるだろう。
ひるがえって北を見はるかせば、上ってゆく扇状地、そしてそれを突っ切る、あるいはまわりくどいような小道を待つ蒼穹の、見えぬ北極星の一点で結ばれるような集中度に身は快く引き締まる思いがするだろう。
もとより日照時間の少ない谷あいで、どこよりも日当たりのよい田んぼを横目に、集落で最も低いところまで下り、川に架かる橋を横断するとき、体が透けていることに気づく。川風に吹かれ、自らをとり落としていくような爽快感に、是空是空と啼く鳥が私のなかに棲んでいるのだ。
その陸上の座標軸の片隅の零点から、橋を渡り終えると、また上り坂となって人間に戻り、東の家々に辿り着く。そこではまことに豊かな水が見上げた山々から湧いてきており、その湧水を飲んでひと心地ついて向こうを見ると、忍者屋敷のドンデン返しみたいに、事態は全く変わっている。
そう、自らがすんでいる西側の家々が初めて広々と眺められ、私がふだんずっとそこでうろうろとしている風景が幻視されてしまうのだ。そうなると更にその裏にせりあがる、いつも西日を隠す山の斜面をえっちらおっちらと上り、すました顔で尾根道を歩く私もまたいるのだ。
もしもそこで、ひんがしの、あるいは、ひさかたの、などと和歌を歌おうものなら、その反響に空が丸いことが察せられ、もはやここは南北に傾いた円筒の世界であることにも気づかされるだろう。そこで小気味好いのは、あの土管をノックするようなツツドリの鳴き声であり、その名を付けた古代人にも笑みを漏らさずにはいられない共感が湧きあがってこようというものだ。
トランスワークは、いわば遍在する身体の絶え間ない統合、絶えずゆらいで分裂してはとけあう営みなのに違いない。