第一章 : 倭人の起源 ①
*この記事は、約10年ほど前に父が書いた全6章で構成されている原稿を順番に公開しています。
一、血清中の免疫グロブリンGの研究結果
遺伝子分析を使って、明確かつ大胆に日本人の源流とその展開を論じたものに、大阪医科大学名誉教授であった、松本秀雄氏の研究論文がある。
松本氏は、血清中の免疫グロブリンG(以下Gm)の標識遺伝子の中に、人種や民族によって明確に偏在するものがある事に着目し、白色系人種、黄色系人種、黒色系人種、それぞれの系統のGm標識遺伝子の分布について研究した。
血清中のGm標識遺伝子は、環境の変化に大きく左右されず、混血における変化が時間に比例して一定の速度で変化するという性質を持っている。従って、人種間の混血や同人種内の民族・部族間の混血の流れは、Gm標識遺伝子の頻度の流れを追う事によって、相当高い精度を以って明らかにする事が出来る。つまりそれは、それぞれの民族・部族の起源を、Gm標識遺伝子の頻度の流れを追う事によって、相当程度の正確さを以って導き出す事が出来ると言う事である。
この研究の結果、倭人と呼ばれた源日本人の地域的広がりと居住域が明確に浮かび上った。松本名誉教授は、その研究結果を「免疫グロブリンGの標識遺伝子に基づく日本人の起源」と言う論文にまとめて発表した。
Gm標識遺伝子の人種偏在は下表の通りとなった。
松本氏は、アジア、ヨーロッパ、アメリカ等の各地の多数の人の血清を採取し、Gm標識遺伝子の構成と頻度を調査した。
その結果、人種偏在を発見し、かつ、蒙古系標識遺伝子の内、afb1b3(次葉図中赤色部分)がアジア南方系モンゴロイドの識別標識遺伝子であり、ab3st(次葉図中黄色部分)がアジア北方系モンゴロイドの識別標識遺伝子である事を発見した。
アジアのGm標識遺伝子の分布の状況は、下記の頻度表と図によって示されている。
この図から読み取れる事は、バイカル湖からアムール川、北海道、本州、四国、九州、琉球、朝鮮半島に北方系の標識を色濃く受け継ぐ民族集団がある事が明確に認識出来る。
また、東南アジアから揚子江流域へかけて南方系の標識を色濃く受け継ぐ民族集団がある事も認識出来る。黄河流域から満州方面は、南方系の民族が多数派となって北方系集団と混血したと考えられる。
日本列島経由の北東からの民族集団の西進の流れが、中国大陸における南方からの民族集団の北上の流れと、黄河流域、揚子江河口域で交差し、それぞれに混血を進めながら満州へと北上している模様を、この図から読み取ることが出来る。
つまり、北からの民族移動の流れとしては、バイカル湖からアムール川、日本列島、さらに日本列島から朝鮮半島、中国大陸の黄海、東支那海沿岸部、黄河流域への流れを読み取ることができる。これは、従来の大陸から朝鮮半島を経由して日本列島へという定説とは、違う民族移動の流れを提起している。
Gm標識遺伝子の頻度分布図は、北方系モンゴロイドと南方系モンゴロイドの大きな民族移動の流れを示唆してくれると共に、北方系モンゴロイドの飛び地として、チベット地方が存在する事も、課題として浮かび上がらせている。
この民族移動のチベットへの展開は、どのように説明できるのだろうか。合理的説明は、以後に記述する資料も合わせて考えてゆきたい。
二、バイカル湖周辺から日本列島へ
松本氏のGm遺伝子研究による日本人バイカル湖周辺起源説は、科学的に妥当なものであると考えられる。
北方系モンゴロイドである事を示すGm遺伝子を持った人々の民族移動の流れは、松本氏の調査結果を見ると、バイカル湖から東へ流れ、サハリン、日本列島、列島最南の沖縄、そして朝鮮半島、中国北部、黄河沿いへと至る流れである。北方系Gm遺伝子の頻度の濃淡の分布は、拡散の源から末端への流れを、そのように厳然と示している。
これに関係することかもしれないが、旧石器時代の研究者によって、朝鮮半島における旧石器時代遺跡の異常な希薄さが指摘されている。日本列島への北方系モンゴロイドの民族移動の本流が、サハリン経由であったということであれば、指摘された希薄さの根拠も、そこにあるものと言える。
では何故、
バイカル湖からの民族移動の本流が、東に流れ、東に流れるものとなって、東南の満州、朝鮮半島を経て、日本列島へとは流れなかったのであろうか。
推察される事は、数万年前の旧石器時代の北方系モンゴロイドにとって、満州方面の自然条件が、北方のより寒冷な地域と比較しても、彼らにとって生活しにくい地域であったのではないかと言うことである。
朝鮮半島付け根に、半島を塞ぐように連なる長白山脈が旧石器時代人の南進を阻んだとも考えられるが、その上流となるべきアムール川以南の満州方面への流れは見られず、やはり、大興安嶺の東の満州一帯と、アムール川の南の地域が、狩猟採集生活を営む旧石器時代人にとって足を踏み入れにくい地域であったと言う、何らかの事情が、民族移動経路をサハリン経由にさせたと考えざるを得ない。
その立ち入り困難な状況とはいったいどんなものであったのか。
この疑問に対する解答へのヒントが、安田喜憲氏の著作「一万年前」の中に記述されていた。
安田氏は、 福井県の若狭湾水月湖底の堆積物層の調査から、古代年代標準として世界に承認された「年縞」を解き明かしたことで知られる。
彼によれば、日本列島は最終氷期においても氷河に覆われていなかったと言うことである。水月湖周辺から川の流れや、風に運ばれて湖に運ばれた春夏秋冬の花粉や落ち葉、それぞれの季節に繁殖し死を迎える昆虫やプランクトンなどが湖底に堆積し、一年ごとの層を形成して、一〇万層の「年縞」が出来あがっていた。水月湖及びその周辺地域が、氷河に覆われていなかったからこその産物であった。
おかげで、水月湖の湖底から過去一〇万年以上の連続した堆積物が掘り起こされ、十万年の歳月が刻んだ時々の植生が明らかになった。この内、分析が進んだ五万年前から一万二千年前までの分析結果が、古代の標準時計として二〇一三年、国際標準に認定された。
この研究は、気の遠くなるような忍耐と時間を用する地味な分野で、僅かな研究費用の中で、安田氏らが根気よく続けて来たからこその一大成果であった。
この「年縞」の分析から、安田氏が割り出したユーラシア大陸東部の一万五千年前前後数千年の気候と植生、旧石器時代人の生活等に関する記述の中に、アムール川以南の地の状況を推し量るヒントが見つかった。
少し長くなるが、概略を以下に記そう。
以上が、マンモスステップの消滅とマンモス絶滅に関する記述の概要である。
シベリアのバイカル湖西岸の古都イルクーツク市から北西八〇キロメートルの所に、二万三〇〇〇年前のマンモスハンターたちの遺跡、マリタ遺跡がある。この遺跡には、狩りに使われた種々の石器とともに、マンモスの骨と牙、鹿角などが集積していた。また、テント式住居の跡が多数見つかった。これらは、推定四八~六十人、八~十軒の家で構成されたムラが、何度か引っ越しをしながら、長期間にわたってこの地に居住した事を示すものであった。これらのことから、今からおよそ二万五〇〇〇年前、現在より平均気温が七度から八度も低かった極寒のシベリアに、人類は通年使用する「定住」的なムラを築き始めていたことが分かった。
一万四五〇〇年前以降温暖化が進み、この地の年平均気温が今から五度~六度低い状態になった時、つまり、従来より二度程暖かくなった時、マンモスの楽園であったマンモスステップが、冬は雪深く、夏は泥沼の地獄となった。
これが何故日本列島への民俗移動がサハリン経由となったかという疑問への解答の鍵となった。
バイカル湖周辺がマンモスの楽園であった頃、緯度にして五~十度南の地域であるシベリアの南のアムール川南岸地域は、バイカル湖周辺より、気温が年平均して二度程高くなっていたのではないか。そうであれば、そこはマンモスの棲息困難な地域となる。
現在の気温のデータを見ると、バイカル湖近くの都市イルクーツクの年平均気温は摂氏〇・六度である。一方、満州平原北詰め近くのハルピンの年平均気温は三・九度で、両都市の気温差は年平均三・三度ある。緯度差は約六度三〇分となっている。現在の両地の気候差を考慮すれば、氷河期末期において、両地の温度差が二度以上あったと考えても間違いないだろう。氷河期末期において、シベリアの南のアムール川南岸地域は、冬は雪深く、夏は泥沼のマンモスの地獄であったのだ。
マンモスハンターと言われた旧石器時代の人々が、マンモスを追って移動していた地域は、アムール川以北の地であり、東進するマンモスを追って北海道に移動して来たとしても、それは自然の成り行きとして納得できる。バイカル湖周辺地域より南のアムール川南岸地域が、当時マンモスの地獄であったことが、旧石器時代の人々がバイカル湖周辺地域の南東である、アムール川南岸地域や満州方面へ流入しなかった理由と考えられる。
満州、現在の中国東北地方の地図を広げて見よう。
アムール川の南、満州平原の北詰めは、西から大興安嶺山脈、東から小興安嶺山脈が連なり、逆V字型に黄海・渤海方面からの南風を受け止める形をなし、両山脈のふもとの平原には現在の地図上でも湿地であることを示す表示が記されている。ハバロフスクがある小興安嶺山脈の東の盆地は、同様にハバロフスク以南すべて湿地と表示されている。
これを考慮すると、二万五〇〇〇~一万五千年前のマンモスハンターたちがマンモスの群れを追って、移動生活を続けていた頃は、現在の気候でも湿地帯と表示されているシベリアの南、緯度にして五~十度南に位置する満州平原や小興安嶺山脈の東の盆地は、マンモスステップよりかなり温暖で、冬は雪深く、夏は表層の凍土が融解して泥沼となる、広大な湿地帯であったのだ。現在の地図は、当時もこの地域が、水はけの悪い地域であったであろう事を教えてくれている。
安田氏が「年縞」その他の資料を基に科学的に描いた一万八千年前から一万六千年前の東アジアの気候地図がある。そこに永久凍土の南限が太い線で示されている。ウラジオストックの南から満州南部を通って、内蒙古自治区の南境沿いに西へ延びモンゴルに至っている。この永久凍土南限線の北側で、かつアムール川の南側に位置する広大な地域、これが果てもなく続く泥沼の湿地帯になっていたとしたら、大型哺乳動物だけでなく、現生人類であっても、この広大な泥沼の湿地に迷いこんだ時、生存が危うくなったと考えられる。広大な砂漠に迷い込んだのも同然の状況であるからだ。
一万四五〇〇年前の温暖化が始まる前は、シベリアとサハリンさらに北海道は陸続きの状態にあった。一説には五万年前にマンモスがサハリンから北海道へ渡って来たとも言われている。「年縞」研究で知られる安田氏は、三万年前、現生人類が日本に到達し、北海道から津軽海峡にできた氷の橋を渡って本州に入った、と記述している。
余談だが、実際はもっと以前であったかもしれない。が、日本で見つかった三万年前以前の石器が、十数年前の石器発掘ねつ造事件の影響を受けて、学術的に疑問符がついており、科学的態度を維持する研究者の現場は、確実な資料に基づき、三万年前に現生人類が日本に存在したと記述するに止まっているのである。
ともあれ、バイカル湖周辺等の、極寒のマンモスステップで、現生人類を生存可能とさせたマンモスの大群が、その個体を増大させ、東へ東へと生息領域を拡大させ日本にまで至った。それを追って旧石器時代のマンモスハンターたちは、日本列島に入って来た。これは間違いない事実であろう。
満州方面から朝鮮半島を経由してくるには、越え難い広大な泥沼の湿地帯が、彼らの南進を拒み、これを越えてくることはマンモスにとっては不可能であり、現生人類にとっても非常に困難な事であったのだ。
このことを以って、我々は、松本氏のGm遺伝子の流れの根拠と共に、朝鮮半島の旧石器時代遺跡の異常な希薄さの根拠をも、ともども得たと言って良いだろう。
北方系モンゴロイドの民族移動は、バイカル湖からサハリン、そして日本列島へ、そこから朝鮮半島および満州東部、山東半島、黄河中下流域へと拡散した。それがため、北方系モンゴロイドのGm遺伝子分布の濃淡が、この流れを示す形となったのである。
北方系モンゴロイドの民族移動経路について、この仮説を補強するものの一つと思われる興味ある研究結果が、平成二十三年七月二十一日の日本経済新聞朝刊のコラムに載っていたので以下に紹介しよう。
病原遺伝子変異の地域分布の傾斜に注目したい。
これは、その変異が、推定一万五千年前の日本列島北部の人物に発生し、その子孫が個体を増加させつつ北方系モンゴロイドの移動の流れに従って、列島全体、朝鮮半島、中国へと拡散して行った事を物語るものであると言えよう。
つづく……
*父が自費出版をした1冊目の本*