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何を書いたらいいかわからないのは自由を持て余しているからなのかもしれない

発信しようとしている人の悩みとして「何を書いたらいいかわからない」「書くネタがない」というものがある。何を書いてもいいのだが、何を書いてもいいと言われると意外と出てこない。

「チャーハンか酢豚かどっちが食べたい?」と聞かれたら「酢豚」と答えられるのだが、「なに食べたい?」と聞かれると「えー、なんでもいい」となってしまうのに似ている気がする。

限定して二択にしてくれたら選べるが、フリー回答の質問は「え、別に…」と往年の沢尻エリカが脳内を去来する。僕らは自由がいいと言いながら、自由を与えられると、途端に自由を持て余す。

「自由を持て余す」と書きながら思い出したことがある。図らずも、自由を持て余すことになってしまった人生の節目となる時期のことだ。

新卒で入った会社が、上場企業だったにも関わらず、僕が入社して3年足らずで倒産した。急に会社員でなくなった僕は、2ヶ月ぐらいは自由を謳歌していた。しかし、3ヶ月ぐらい経った頃からは、自由への肌感に微妙な変化が訪れた。

ーーーーー今日も自分で、今日なにをするかを決めなくてはならない。決めなければ何もなく今日が過ぎていく。決めなければ誰かと会うこともない。誰とも会わず、誰とも会話せず、1日が終わる。スーパーに行き、食材を買い、粗野な料理をして、食べて終わる。そうか、僕は誰かに連絡をして「会おう」と言わなければ、誰かと会話をすることもできないのか。

「どこか行く場所が決まっていて、そこに行くと決まった人たちがいて、誰かと会えて、そこで他愛もない会話ができる。それって、割といいことだったのかもなぁ。」なんてことを思ったりしていた。ーーーーー

今、同じような状況になったら、こうして発信に時間を使うだろうし、会いたい仲間に連絡をして会ったり、何か面白いことをしようと企画を練ったり、動画を撮って編集に時間をかけたりと、いろいろと”自由”を楽しんで使えるようには思う。

しかし、当時はまだiPhoneも出ていないし、SNSもない。mixiがあったが、それで副業をしたり、フリーランスになるような発想が湧いてくるような時代でもなかった。やる人はやってたのかもしれないが、20代の僕は、「次の仕事を決めないとなぁ」ということしか頭になかった。

そうして自由を持て余す感覚を持ち始めた3ヶ月目の頃から、同じ会社にいた同僚たちが「次の仕事を始めたらしい」という話を聞くようになった。思えばみんな、同じような肌感を感じ始めていたのかもしれない。

僕も「そろそろやらないとなぁ…」と重い腰を上げ、転職活動を始め、「何をやってもいい状態なんだったら、自分のやりたいことをやってみよう」と思い、WEBデザイナーの仕事に応募をした。

ここで応募できたことが、実はすごいことで、そして結果としては採用され、念願のWEBデザイナーとなるわけだが、そこに至るには「なんだよチクショー!」と憤慨した過去があった。

* * *

学生時代は美大でもなんでもなく、工学部だった。しかし、大学時代の後半、進路を考えるなかで、グラフィック系の仕事がしたいと思ってしまった。そして大学の最後の1年、グラフィックデザインの専門学校に通って、AdobeのIllustratorとPhotoshopの使い方を習い、WEBサイトを作るためのHTMLを習ったりしていた。

しかし、新卒の頃は、グラフィックデザイナーやWEBデザイナーになろうと思ったら「美大卒」とか「実務経験2年」といった条件があり、そもそも応募ができなかった。

仕方なくその道はあきらめ、「新卒」という限定チケットを活用して入れる会社を探して入社した。意識しなければ気づかないかもしれないが「新卒」というのは、割と特殊なチケットなのだ。

中途採用は、「あなたは何ができますか?どんな経験をして、どんなスキルがありますか?仕事できるんですか?」と問われて、自身の即戦力っぷりをドヤる必要がある。

一方、「新卒」は実務経験がなくても、大学での研究内容と会社の関連性が何もなくても、会社に入るチャンスをもらえる。なぜなら、ポテンシャルを見込んで、人間性を見て採用をしているから。

ところが、グラフィックデザイナーやWEBデザイナーは、ポテンシャルで採用する業界ではなかった。実務経験がないなら、少なくとも美大卒であることが応募条件として書かれていた。

名だたるグラフィックデザイナーやアートディレクターの経歴を見ると、ことごとく「多摩美術大学」だの「武蔵野美術大学」だのといった名前が並んでいたが、今から大学をやり直すなんてことは現実的ではない。

「なんだよ、チクショー、美大じゃなきゃ、門をたたくチャンスさえ無いのかよ、、」と憤っていたことを思い出す。

改めて考え直し、自分がすでに持っている「新卒チケット」を一度は使ってやろうと思い、上場企業に入社した。その道をあきらめたとは言いながらも、どこかの会社に入って"グラフィックやWEB系の仕事”に関わらせてもらい、実務経験とやらを手に入れてやろうという想いは残していた。

1年目は仕事を覚えることに必死で、そのチャンスはなかったが、2年目の後半にチャンスが訪れた。社内で新しく立ち上げるサービスの画面に使う”ちょっとしたグラフィックやデザイン”を作れる人はいないか?という話が持ち上がり、そこに手を上げた。

行き場を失っていた専門学校で覚えた「IllustratorとPhotoshopを使うスキル」が、ここで日の目を見た。何がどこでつながるかわからない。まさにジョブズのコネクティングドッツ。

そこからはグラフィックデザインの社内タスクがあれば、ちょくちょくやるようになった。「WEBもちょっとできない?」という話も出てきたので、わからないなりに専門書を読み漁って、なんとかその仕事をさせてもらった。

そんなこんなの経験が1年ちょっとあったこともあって、急に会社員ではなくなったときには、いちおう「実務経験」と呼ばれるものを履歴書に書けるようになっていた。

そこに大学時代につくったイベントのフライヤーをファイリングしたり、専門書を見ながら自分で新たにWEBサイトをつくったりして、ポートフォリオと呼ばれる作品集を準備して、面接に臨んだ。

あの新卒のときには門を叩くことさえできなかった。それが今は応募ができている。それだけで快挙のやっほーい!だった。

とはいえ、素人に毛の生えたようなポートフォリオで「こんなので大丈夫なんだろうか…」と思ったりもしていたが、割とすんなりと面接に受かってしまった。

その当時、世間でもニュースになったような上場企業の倒産だったので、「いろいろと大変でしたね…」という情状酌量も含めて合格したような感じもあったが、なにわともあれ念願のWEBデザイナーになれてしまったのだ!

それができたのは、専門学校で学んでいたことと、一旦はあきらめつつも虎視眈々と機会を伺っていたことで、実務経験が得られて作品集を提出できたというコネクティングドッツがあったから。人生なにがどうつながるかわからない。

と言いながら、実はその後は、念願の夢が叶ったのに、夢破れて挫折… といった経験をすることにもなるのだが、それはまた別の機会に。

* * *

「自由を持て余す」をきっかけに、自分でも書くつもりのなかった回想録を書いてしまったが、僕はこれを書く前、「今日、何を書こう… 書くことがいまいち思いつかない… 」と思っていた。

ひとまず、「よし、書こう」と記事を書く画面を開いた。開いて、「書くネタがない」と他人事のように書き始めてみた。他人事のように書いたが、冒頭に書いたのは自分のことだ。酢豚が大好きなのも、自分のことだ。

沢尻エリカを出したあたりから、すでに脱線しはじめていた。
「車掌さん、この列車はどこへ向かうのでしょうか?」

気づけば、新卒で就職活動をしていたころの憤りと、念願の夢が叶った話を書いていた。「書けない」というのは「書くネタ」がないわけじゃないことを、自分で証明してしまった。

何を書けばいいかわからないと言う人は、前提として「何かを書こう」としている。書いて、発信することで、何かその先に得られるものがあるとイメージしているから、発信を続けようとしている。

まず、その段階でスゴい。普通の人は、そんなことで悩まない。

「さて、なにかを書こう」と思ったときに、「書かなくちゃ」が先行して、「書きたい気持ち」が追いついていない。だから書けない。

そんなときは、先に指を動かして書き始めてしまう。

書き始めると、なんだかしらないうちに「あ、そういえば」と連想して思い出して書き始めてしまう。この列車がどこに向かうのかわからないまま書いていくのは、かすかな不安もある。

「なに書いてるんだ?これ書いてどうするんだ?」と小さなツッコミも入る。「なにが言いたいの?消しちゃえば?」と検閲官が言ってきたりもする。

たしかに、ゴールを決めないまま書くのは不安だ。終着点が見えない。

しかし、1つを書くと、また次が出てくる。これを書くと、「そういえば、あんなこともあった」と、また出てくる。そんなことをしているうちに、自分が何を想っていたのか、そして今の自分となるまでの道のりを思い返す。

それが、自身に対してのセラピーのように効いてくる。「あぁ、そうか、なんだかんだあったんだ。そういえば、そんなこともあった。そんなこともありながら、なんだかんだで生きてんだなぁ。」と、自然発生的な自己肯定感が静かにじわ〜っと心の内に広がる。

人は自分のやってきたことを忘れがちな生き物なのかもしれない。わりと頑張ってきた過去も、気づけば現実に埋没して忘れてしまっている。過去を過小評価してしまうから、自己肯定感が低くなってしまうようにも思う。

となると、自分自身のことを思い返し、それを綴ることは、自己肯定感を高めることにもつながり、自身を癒やすことにもなる。お金もかからない"自分セラピー"として書いていくのもいいのかもしれません。

どうですかね? 今日は、なにか過去を思い返しながら書いてみるのもいいんじゃないでしょうか? 気づけば指が勝手に動いて、書いてしまっているかもしれません。

そんな記事が生まれたら、教えてくださいね〜。
ではまた。


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