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"普通な自分"と"オリジナリティー"

「なんて、自分は“普通”なんだ。」

そう思いながら、「変わってるね」と言われている友人をうらやましく見ていた時期がある。

こんなことを思い出しているのは、村上春樹著「職業としての小説家」の〈第四回 オリジナリティーについて〉を読んでいるからだ。

※今回も読書会で得た気づきを書いていきます。読書会の詳細や参加方法については、下記の記事末尾を参照。


今ではそれなりに歳を重ねたが、若い頃は「何か特別な自分」になりたいという感覚が強かったように思う。「何か特別なもの」を持っている自分になることで、自信を持ちたいとも思っていたのだろう。

アイデンティティが確立していない時分には、“自分の確固たる軸を持っている人物や友人”を見ると、そうなれていない自分に落ち込んだりもした。

過去形で書いているが、今だってそんな部分はある。

ただ昔と違うのは、社会生活を送ってきたなかで周りの人々に何かを与えることができた経験があることかもしれない。「あ、僕も割と役に立てたりするんだな。」と。

自分向きの矢印だけではなく、「周りに対して」と考える矢印が育ってきたことで、バランスが取れるようになってきたのかもしれない。

さて、ここからは読書会での印象に残ったフレーズと感想を。今回は、音読の後の感想シェアタイムが思わぬ対談になり、盛り上がりを見せた。

そもそもオリジナリティーとは?

〈第四回 オリジナリティーについて〉の冒頭は、この一節から始まる。

オリジナリティーとは何か?
これは答えるのがとてもむずかしい問題です。芸術作品にとって、「オリジナルである」というのはいったいどういうことなのか? その作品がオリジナルであるためには、どのような資格が必要とされるのか? そういうことについて正面からまともに追求していくと、考えれば考えるほどわけがわからなくなってくる、というところがあります。

自身としては「これは私が考え出したオリジナルなものだ。」といくら思ったとしても、それは何かしらの既にあるものから影響を受けている。そうなると究極的には、この世に“完全なるオリジナル”は存在しないことになる。

とはいっても、僕らが「これは他にはないオリジナルだ。」と感じるものはあるわけで、はたしてオリジナリティーとは何なのか。

ここに登場するのが、脳神経外科医のオリヴァー・サックス先生。『火星の人類学者』という著書の中で、「オリジナルな創造性」というものを下記のように定義していることが本書で引用されている。

創造性にはきわめて個人的なものという特徴があり、強固なアイデンティティ、個人的スタイルがあって、それが才能に反映され、溶け合って、個人的な身体とかたちになる。この意味で、創造性とは創り出すこと、既存のものの見方を打ち破り、想像の領域で自由に羽ばたき、心のなかで完全な世界を何度も創りかえ、しかもそれをつねに批判的な内なる目で監視することをさす。

『火星の人類学者』P329

読んでなるほど、うん、たしかに、という内容。しかし、春樹さんは言います。「そんなにきっぱり定義されてもなぁ…」と。そこで定義からは一旦離れ、具体例から考えていくアプローチで、春樹さんが初めてビートルズの曲をラジオで聴いたときの話へ。

「なんだこれ、カッコいい!」「これは、すごいぞ!」と身体がゾクッとした彼らの音楽は、実にかっこよくて「他とは違っているもの」。それがオリジナリティであることは間違いないが、それを説明しようとしても難しい。

「他と比べて、何がどう違っているのか?」を説明できはしないけれど、たしかにそこにある違い。それがオリジナリティーであろうとは思いますが、いったいそれが何であるのかは、またちょっと違った角度から話を進めていきます。

『職業としての小説家』の中では引き続きオリジナリティーの話が続いていきますが、それはまた次回にゆずり、今回は読書会の後に語られたトーク内容をお届け。「本の生まれ方」や「歌手」、そして「自分らしさ」の見つけ方について。

オリジナリティーはどこにあるのか?

今回の読書会は、いつも参加されている編集者Nさんに加えて、『超ミニマル主義』『超ミニマルライフ』の著者である四角大輔さんも参加されて、読書会からちょっとしたプチ対談へ。

いま読み進めている部分のテーマは「オリジナリティー」。編集者Nさんは、四角さんの2冊の本を読んだ驚いたそうです。「こんなにオリジナリティのある本がつくれるのか?」と。

四角さんの個人的な経験が書かれている本でありがながら、僕らの人生にも当てはめて使うことができる内容になっている。これこそが、まさにオリジナリティーですよね。

『超ミニマル主義』と『超ミニマル・ライフ』の2冊は、四角さんのこれまでの人生・登山・釣り・社会人生活といった経験のすべてから得られた考え方や方法論をギュッと詰め込んだもの。自身の経験則は「本当にそうなのか?」と数々の論文や文献を読み込むことで裏付けとなる根拠を確認。その上で、4年という長い月日をかけてメソッドとして公開された。

それはたしかに四角さんの経験談でありながらも、僕らがこれまでを振り返り、これからを生きていく上での重要な指針となるもので、考え方だけではなく「実際に使える”超具体的な方法”」までが書かれている。

よくある”単なるノウハウの詰め合わせ本”ではなく、四角さん自身が「自分の弱さ」を感じていたからこそ、「どうやって生きればいいんだ?」と暗中模索で考え抜きながら生きてきたことで生まれてきたメソッド。だからこそ、そこには独自の”オリジナリティ”がありながらも、僕らにも使える”ユーザビリティ”を兼ね備えている。

そしてオリジナリティについて、編集者Nさんからこんな話も。

世の中のオリジナルは、どこまでがオリジナルと言えるのか?どんな創作物も、何かの物語や音楽などの影響を受けていたりする。

本も同じ。使うのは、誰もが使える「言葉」というツール。日本語なら50音のひらがな、カタカナ。

しかし、同じツールを使っていても、そこに流れる旋律やリズムはそれぞれに異なっている。それが「オリジナリティ」であって、「その人らしさ」が現れる部分。

上記は僕の解釈も入っていますが、だいたいこういった内容をNさんが話されていました。それを受けて四角さんからも、こんな話が。

ピアノの鍵盤は決まっているし、ひらがなは50音。究極的には「完全にオリジナルなものはない」ともいえる。

でも、真逆のことを言うようだけど、オリジナリティというものはあって、「その人そのもの」がオリジナル。その人が、なにかの表現物をつくったときにそこに現れてくるものがある。

音楽をつくっていく際に、歌手の「音程」は機械で調整できたりもする。しかし、「声質」は変えることができない。変わることがないものとしてそこにある。

そして、話は「自分自身のオリジナリティ」へ。

なにかしらの表現活動をしているわけではなくても、その人がその人らしく生きていたらオリジナル。

『自分彫刻』というのは削るだけ。(書籍の中で、自分にとって不要なものを捨てていき、本当に自分にとって大切なものを見出していくことを『自分彫刻』と表現している)

削るということは、足す必要がないということ。それを伝えたくて作家活動を続けているようなところもある。

ロングセラーに共通する2つの要素


ここで再び「職業としての小説家」から、一部引用。ビートルズやビーチボーイズの「サーフィンUSA」を聴いたときの衝撃について。

他の人がこれまでやったことのない音楽をやっていて、しかもその質が飛び抜けて高かった。彼らは何か特別なものを持っていた。それは十四歳か十五歳の少年が、貧弱な音の小さなトランジスタ・ラジオ(AM)で聴いても、即座にばっと理解できる明らかな事実でした。

四角さんが言及したのは「貧弱な音の小さなトランジスタラジオ(AM)で聴いても」の部分。

音楽スタジオの最高の環境で聴いていると、それは当然素晴らしい音として聴こえる。しかし、それが小さなスピーカーやイヤホンで聴いても「これは!」というハッとするものがあるかを確認するようにしていた。

これに対して編集者Nさん。

ヒットするものや、ロングセラーになるものには「驚き」と「共感」がセットになっている。「驚く」だけでは受け入れられないこともあるが、その驚きと同時に「共感」が生まれるものがロングセラーになっている。

絵本の「100万回生きたねこ」が好きなんですが、あのロングセラーになっている絵本も、いつどの世代が読んでもハッとするし、同時に自分のこととしても入ってくる。

そして、「これぞ本当にオリジナリティーのある素晴らしい作品ですよね」と四角さんが話に出したのは以前に見た「いのちのまつり〜ヌチヌクスージ〜」。これはNさんが編集者として関わられた絵本。

自分の命がどこから来ているのか? いま生きているということはどういうことなのか? そんなことに思いを馳せることで、”いま“をありがたく感じる気持ちが湧き上がってきました。短い動画なので、ぜひ。

■作者の草場一壽さんが絵本を描いた理由
https://kusaba-kazuhisa.com/profile/writing/

草場さんは、”陶彩画”という陶器で描かれた作品の創作者でもあり、”陶彩画”で描かれた光龍や鳳凰、瀬織津姫などの神々は、言葉では表しきれないほどの壮麗さ。

僕のクリアファイル 鳳凰と龍
クリアファイルその2 瀬織津姫と豊穣の女神ラクシュミー

画像でも十分に美しいですが、実物は見る角度によって彩りが変化するような作品もあり、しばらく見惚れて立ち止まってしまいます。機会があればぜひ実物を。

■陶彩画展:https://kusaba-kazuhisa.com/exhibition/

僕らはつい「足そう」としてしまう

スゴいあの人や、あこがれのあの人は、なんだか自分よりも「スゴいもの」を持っていて、だからこそあんなに輝いていてスゴいんだと僕らは思ってしまう。

「何か自分だけの特別なオリジナリティーがほしい」と思ったとき、それを「外の世界」から獲得しようとしてしまう。「きっとまだ自分は足りていないからダメなんだ。もっと自分に足していかなきゃ!もっともっと、がんばらなきゃいけないんだ!」と。

「でも、そうじゃないんだ。そのほしいものは、実はすでに自分の内側にあるんだ。」と四角さんの『自分彫刻』という言葉で思い出す。

そして、春樹さんの本にもこんな一節がある。

そのような自分の体験から思うのですが、自分のオリジナルの文体なり話法なりを見つけ出すには、まず出発点として「自分に何かを加算していく」よりはむしろ、「自分から何かをマイナスしていく」という作業が必要とされるみたいです。考えてみれば、僕らは生きていく過程であまりに多くのものごとを抱え込んでしまっているようです。

ハードカバー本 P98

これまで人生をがんばって生き抜いてきた。そのなかで自分を守るためとはいえ、ずいぶんと余計なものを抱え込んできてしまった。周りに合わせたり、周りに影響されたりして、「他人基準」で余計なものを増やしてきてしまった。

だから、本当はあるはずの”それ”が覆い隠されて見えなくなっている。それを今日の対談トークや、春樹さんの本から思い返していました。

ゆっくりでいい。
少しづつでいい。
1つずつでいい。
余計な荷物を降ろしていこう。
自分の歩幅で。

そう思えた時間でした。
ありがとうございました。


P.S. 読書会が気になる方へ。下記の記事末に詳細を書いています。


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