いつかオードリー若林になりたかった
昔からずっと日陰を歩いてきた人間だった。根暗、陰キャと、表現の違いはあるが、日の目を見ないタイプ。
小学校の頃は運動が嫌いだったせいで、昼休みはゲームの話ができる友人とずっと話しているか図書室にいた。中学の頃は卓球部に入るも1年で辞め、ゲームとアニメと漫画に興じるというオタク街道を突き進んだ。中2くらいまで女子と話すことも苦手意識があった。
そんな少年時代を送っていると、必然的にネガティブな思考を持つようになる。それは学校というヒエラルキーの中で、常に自己否定的な感情に晒され続けるからだろう。自分が普通ではない、学校水準からすると劣っている人間であると思わされるという感情だ。
もちろん、そんな水準など間違っているし、そこで植え付けられた自己否定感覚なんて、大人になった今では、間違っていることは頭では理解できる。だが、自分の根っこにこびりついた自己否定感覚は完全に消え去ることはない。事実、今でもその感情に抗い続けながら生きている。
こうした人間の逆側に立つ人種、すなわち、日の目を浴びてきた根っからのポジティブな人間には、おそらく永遠になることはできない。気質が違うのだ。そして、そうした人間に対して、ルサンチマンという名の劣等感と嫌悪感を抱くようになる。
そんな自己否定の帰結としての他者否定は、ニーチェがキリスト教的ルサンチマンについて指摘したように人間として当然の感情だ。だがこの社会でそんなことを声高に叫んでも、負け犬の遠吠えだろ、で一蹴されて終わる。
僕のようなネガティブ陰キャ人種は、程度の差はあれ、こうした類の宿命を背負っている。
だが、同種の人間の中で圧倒的なスターとなった人間がいる。
オードリー若林だ。
過去の鬱屈をポップに昇華したオードリー若林
先日、東京ドームの公演を大成功させたオードリー若林は誰の目から見てもトップクラスのポップスターだろう。東京ドームの会場は「オードリーのオールナイトニッポン」の熱心なリスナー”リトルトゥース”たちの熱気に包まれたという。
僕自身は、熱心なリスナーというほどではなく、たまにラジオを聴いていたくらいで、オードリー若林にそれほど深い思い入れがあるわけではない。それでも、斜に構えた視点から切り取った皮肉を、ポップな笑いに変えるトークは好きなタイプの笑いだった。
上で紹介している記事にあるように、まさにポップにやさぐれているのだ。
星野源と共演していたトーク番組「LIGHTHOUSE」では、鬱屈とした少年〜青年時代の話をする2人にシンパシーを感じた。だが、やはり自分とは違うという感覚は拭い去れない。
オードリー若林や星野源は、日の目を見ない陰キャな人生を歩んできたのかもしれないが、現在は圧倒的にスポットライトが当たる側にいる。過去の鬱屈や絶望をポップな笑いや表現に昇華させて、それが多くの人に支持されている。
当然ながら努力の差であるし、才能の差でもある。僕はその差に絶望する。永遠に埋められない溝があって、二度と乗り越えることはできない距離が生まれている。
あのポップさはどうすれば身につけられるのだろうか。鬱屈とした心象風景を保ったまま、軽やかに社会を渡り歩く振る舞いはどうすればできるのか。
到底わからない。だからこそ、僕にとってオードリー若林はいつまでも眩しいままだ。
それでも僕はオードリー若林になりたかったし、今でもなりたい。どうしたらなれるのかはわからないけど。とりあえずオードリーのオールナイトニッポンをまた聴いてみようと思う。きっとまだ間に合うはずだ。せめてそう思うくらいは許してほしい。