残酷な猟師の現実
動物の命を奪う時
猟を始め、猟期が迫ったある朝。とうとう猪が罠に掛かった。
土曜日のよく晴れた日で、春めいた空気に、今季は無理か・・・と私は油断していた。そのため、慌てて里山を下って、一切合切の道具を持ちながら夫の元へ走った。
走りながら、私はついにこの日が来てしまった・・・と思った。獲物が捕らえられた嬉しさの反面、夫は動物を殺すのだから、憂鬱さ極まりない。
しかし、野生の猪を目の当たりした時、すぐに違う感情が押し寄せた。
「あ・・・もしかしたら、夫の命は今日で最後かもしれない」
銃を持たない夫は、止め刺しを行うのだが、いかんせん初めてである。最初は小さく見えた猪だが、身長が180センチある夫が近づくと、それなりに大きい事がわかった。
生き延びようとする雄猪は、獣の臭いを充満させ息を荒げている。その力強さたるやを見れば、夫を殺しかねないと思った。
そして、懸命に逃げ出そうとする猪を見ていると、なんだか申し訳ない気持ちになった。
寄りにもよって、なぜ我々の罠などに掛かったのだろう。余程、間抜けだったのか・・・せめて、もっとベテランの猟師の罠だったら・・・そう思った。
バットを振りかざし、一発で気絶させる予定だったが、竹藪の中でフルスイングをかます事が出来ず、結果として時間が掛かってしまった。
私は、うまくいかない時間に、涙が止まらなかった。多分申し訳なさだと思うのだが、できるだけ我々は、動物が怖いと思う時間、恐怖する時間、痛みを感じる時間を少なくしたいと考えていた。でも上手くいかなかった。
数発殴り、ナイフで首元を切り血を抜く。その赤い血が流れる時まで、猪には命があり、少しずつ呼吸が消え、目に光がなくなっていく。この時、私は昔飼っていた愛犬の事を思い出していた。動物が亡くなる瞬間というのは、本当に嫌なものである。
でも、綺麗事を言っている暇なんてない。我々は、一頭を殺めてしまった責任がある。だから、この命を大切にしなければいけない。そう瞬間的に思った。
命の重みとやるべき事
仕留めた猪は、恐らく60kgだったと思う。映像だと小さく見えるのだが、これが思っていた以上に重い。
夫は怪力の持ち主だが、初めてヘバっているのを見た。撮影をしている私に向かって、夫がとうとう「足持てる?」と助けを求めてきた。
実際に持ってみると米俵の重さとも違う。大型犬のような触り心地なのに石のように重い、なんとも不思議な重さだった。
傾斜のある山で命を運ぶことが、こんなにも重労働だとは思わなかった。あぁ、これが命の重さか・・・なんて思う余裕すら、その時はなかったが、後になってそう感じた。
早く解体してあげなければ、この命を無駄にしてしまう。その一心で運んだ。
ちなみに、その時に片付けをする余裕はない。川まで運び、内臓を取り出して解体保存する必要がある。時間を掛けてしまえば肉をダメにし、無駄にしてしまうので、時間との勝負だ。
特に、温暖化で猟期とは言え、とても暖かい日なものだから、内心は焦る気持ちしかなかった。
現場は確かに荒れた。そのままにするの?と憤る人がいるが、現状回復は解体後に行っている。猟場は普通の人が近づくような場所ではない。森の中。
川まで運び出すと、地元の年配者が近づき、次々に「たしたものだ」と褒めてくれた。野生動物の傍で暮らす人達にとっては、感謝される事なのだと改めて思った。
声を荒げているのは誰だろう?
毎日想う猪への愛着
普段、スーパーの肉を買って、この豚肉どこにいたのか?家族はいたのか?どんな暮らしをしていたのか?と考えた事はあるだろうか。これまでの私は無かった。せめて国産か否かをチェックしたり、鹿児島なら旨い肉だなと考えた程度である。
これが自分で捕らえた猪になると違う。我々は、その個体に「マサ」と名付け、マサは家族がいたのか?何を食べてたのか?寝床はあそこで・・・そんな風に、これまでの暮らしを想像しながら食卓に並ぶ猪肉を食べては、自分の中にマサが生きている事を感じた。
私の血となり骨となり、形を変えて共存している感覚だ。どこかの国で、亡くなった家族の一部を食べるという話を聞いた事があるが、不思議と納得した。
残酷なのはどちら?
狩猟のおかげで、どれだけ肉を獲ることが大変かを痛感した。そして、野生肉は、さばいて美味しく調理することも時間が掛かり、とても大変だ。だから、人間社会で家畜化が進んだ理由もわかる。
味にブレのない一定の美味しさを保った肉を提供する。できれば見なくて済むなら見たくない屠殺は、できる人がやる。こうした社会が出来上がるのは、当然といえば当然だと思う。
ただ、見ないから知らない。というのは間違っている。変わりに行ってくれる屠殺業者を責めたり、猟師を責めたり。肉を食べておきながら?養豚の豚の命は可哀そうじゃない?生まれてから殺される運命が決まっている命がある事は、それは可哀そうじゃない?綺麗なトレーに乗せられた肉はセーフ?
私は菜食主義です。肉を食べません。そんな人もいるが、畑で野菜を育てるためには、野生動物から守らなければならない。可哀そうだからと放置すれば、猪と鹿は簡単に増え続け、畑の野菜を食べつくす。そういう現実を見ない生き方をどうして続けるのか?
すべての動物が人間に従順で、猫や犬のように、都合良く癒やしを与えてはくれない。
狩猟をする人は残酷だ。最低だ。と罵るなら、肉も野菜も食べないということ。つまり過激なことを言えば、自分の命と引き換えることしかないのだ。
テメェが死ねよとはよく言ったものだ。
だから、生きている以上、何かを食べる以上、感謝すべきなのだ。頂いてるのだ。だから、頂きますなのだ。
経験しないと難しい
猪のマサを冷凍庫に保存し、2か月ほど経った。ちょっと違う肉を食べたいなと思い、久しぶりにスーパーで豚肉を買ってみた。
野生肉は臭いというけれど、それは慣れというもので、豚や牛にも独特の臭いがある。特に、豚は慣れているだけで、ちょっとクセのある香りをしている。猪と比べて豚らしい油っぽさに懐かしさを覚えた。
しかしながら、やっぱりスーパーで買う豚肉というのは、顔を見ていないせいか、雄か雌かもわからないせいか、その豚に対して何の感情もわかない。
だから、狩猟をしていない人が、私達の獲物に対する想いを聞いたところで、何言ってんだ?と思われるだけだろう。そっちこそ綺麗事言っているだけだろ?動物を殺しておいて。と、堂々巡りになるだろう。
だから、自分たちは自分たちの信念を持って生きるので、後ろめたさはない。