【イノシチとイモガラ珍百景】 #22 虹の泉(毒の泉)
イモガラ湖から南西に下った、森林地帯の片隅。僕とシシゾーが、ハイキングついでにあちこち歩き回って、渇いた喉をうるおしたいな、と思っていたところ、僕らの目の前にタマゴのような形をした泉が姿を現した。泉の水面は降り注ぐ日の光を受けてキラキラ輝き、こぼれた光が別の場所を照らすと、青い水面が赤っぽくなったり緑がかったりして見える。まるで虹のようだ。
「うわー、きれいだなあ! オレが一番乗り、っと」
シシゾーが無邪気に感激し、水辺に走っていった。僕は、あわてて彼の白いタンクトップの後ろ姿を追いかけた。ようやく追いついた時には、顔中水びたしにしたシシゾーが満足げな表情でこちらを振り返った。
「イノ、お前も飲んでみなよ、冷たくてうまいぞ」
「うん」
僕も喉が渇いていたので、水面に顔を近づけて一口水を飲んでみた。すっきりとして、でもまろやかな味わいでおいしい……
と、その時、僕は急にあることを思い出し、少しばかり身体中の汗が引くような感じがした。
「シシゾー、もしかしてここも、“イモガラ珍百景”なんじゃないかな? だって、この泉はたぶん……」
僕が遠慮がちに話し始めたところで、目の前のシシゾーの調子がなんだかおかしくなってきた。
「あれ? あれ? なんか……うわ、なんだこれ! しびれる! 牙がなんか痛くてしびれる!」
大騒ぎし始めたシシゾーのただならぬ様子に、僕はすっかりあたふたしてしまい、とにかく涼しい木陰へとシシゾーを連れていって休ませることにした。
「どうしよう、僕が最初にちゃんと気づいていたらよかった」
「えっ、何が? って、めっちゃビリビリするんだけどこれ」
「ど、どうしたらいいんだろう」
そんな会話をしているところへ、運の良いことにひとりの救世主が僕らの前に現れた。行商帰りでリヤカーを引いて歩いていた“こんにゃくおじさん”だ! おじさんは、イモガラ湖の近くでこんにゃくそば屋「カリヤド」を営んでいて、時々こうやって近隣の集落へ行商に出たりしているのだ。
「ふう、暑い暑い」
首にかけたタオルで汗を拭いながら歩いていたおじさんは、木陰でワイワイ騒いでいる僕らの姿に気づくと、あわてて駆け寄ってきた。
「おや、イノシチ君にシシゾー君じゃないか! いったい、どうしたんだい」
「おじさん、あの泉の水を飲んだら、牙がしびれて痛いんだよ! 助けて、おじさぁん」
甘え上手のシシゾーが、さっそくおじさんに泣きついた。シシゾーの話を聞いたおじさんの表情が、一瞬でピリリと険しいものになった。
「何だって! シシゾー君、君はどれくらい水を飲んだんだい?」
「えっと、そッすねぇ……喉が渇いてたんで、結構、ゴクゴクと」
「ふーむ……じゃあ、ちょっとばかりかかるかもしれないねえ」
おじさんは、白くフサフサと伸びたひげをさすりながら言った。
「いいかい、よく聞くんだ。この泉は、一般的には“虹の泉”として知られる景勝地だが、またの名を“毒の泉”と言ってね。この水を飲むと、しばらくの間、牙がしびれて痛くなってしまうんだよ」
ああ、やっぱりそうだった。だって、カゲヤマさんの“イモガラ珍百景”シリーズの本にも、こういう景色の写真が出てきたことがあったもの。僕の記憶に間違いはなかった。せめて、シシゾーが水を飲む前に気づいてあげられたらよかったのに。
「おじさん、この毒は、どうしたら治るんでしょうか」
僕がおそるおそる尋ねると、おじさんは苦笑いしながら言った。
「こればかりはね、自然におさまるのを待つしかないんだ。それがまた、個人差があってね。一般的には、一口ゴクリと飲んだ場合、およそ10分くらいしびれが続く、と聞く。ただ、あんまりいっぺんにたくさん飲んでしまった場合は、一晩中牙が痛いのとしびれるのとで眠れなくなった、という話もあるそうだよ」
おじさんの話を聞きながら、僕はたちまち顔から血の気が引いていくのを感じていた。こんなきれいな水に、そんな恐ろしい毒が含まれているとは。
「それにしても、面白いのは毒の効果がほぼ“牙”にのみ集中する、という点だね」
と、おじさんが続けた。
「それも、より大きくて立派な牙であるほど、毒の効き目が強い場合もあるというからね。この点については、おじさんも非常に興味深いと思って、一時期調べたことがあったんだよ」
「へえ、おじさん、毒に詳しいんすね」
少しずつしびれが収まってきたのか、シシゾーがさっきより落ち着いた感じで言った。おじさんは、まあね、と言うように静かに微笑んだ。
「……あ! そういえば、お前もあの水、飲んでたよな、イノ? お前、大丈夫なのか」
不意にシシゾーが大きな声を上げ、僕はきょとんとした顔でシシゾーを見た。それを聞いたこんにゃくおじさんも、きょとんとした顔で僕を見つめた。
「あ。そういえば、僕も一口飲んだっけ」
「ってお前、牙がしびれたりしてないか? 何かあったら、遠慮なくオレに言ってくれよ」
「そうだよイノシチ君、牙がしびれるんだったら、我慢しないで言うんだよ」
シシゾーとこんにゃくおじさんが、両側から同時に僕の顔を覗き込んで、心配そうに声をかけてきた。
そうまでして気にかけてくれるというのに、実に申し訳なかったのだけれど……
「……いえ、あの、別に僕、なんでもないッすよ」
そう。自分で我に返った時につい拍子抜けしてしまうほど、僕の身体にはほぼ何も異変は起きなかったのだ。えっ、なんでだろう? ……ん?
「なんと!」
こんにゃくおじさんが、未知の生物に出会った瞬間みたいに大きく目を見開いた。
「これは驚きだ! 今までこの泉の水を飲んだ者の中で、毒の影響を受けなかったというのは俺も初めて聞いたよ」
「すげー! さすが“賢者”だな、イノ!」
シシゾーまで、つられて興奮して手を叩いた。いつの間にか、すっかり牙のしびれは治まったらしい。ていうか、僕は賢者なんかじゃないってば。
少しずつ、僕の頭の中も冷静さを取り戻しつつあった。そして、なぜ僕は泉の水を飲んでも平気だったのか、それは不思議な力でも何でもない、ということにもうすうす察しがつき始めていたのだけれど。
「イノシチ君、これは実にすごいことだよ! つまり君は、この泉の毒に耐性がある、ということだ。いやあ、今日はめでたい日だ」
「ホントッすね! 親友がそんな超能力の持ち主だなんて、オレも鼻が高いッすよ」
こんなに目の前で次々とおだてられてしまうと、僕もなかなか本当のことを言いだすことができなくて、しばらくの間ただ笑ってごまかすしかなかったのだった。
(いや、そりゃそうだよ。だって僕の牙……付け牙なんだもの)
【虹の泉(毒の泉)】 レア度:シメジ級