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音楽と凡人

 初めて人前で歌った自分の曲は"凡人"という歌だった。天才だと思って声を枯らしながら歌った。バンドを始めたのは十代の終わりで、バンドを諦めきれない今は二十代の終わりである。何度となくメンバーがいなくなりひとりぼっちになったのに、何故未だにこんな生活を続けているのだろう。自分のことについて正直に書くことは誰かのことについて書くことになるような気がしている。

バンドを解散した時のこと

 「でかいステージへこいつらを連れて行くことができませんでした」

 今から3年ほど前、知り合いに連れられて行った大阪難波のライブハウスでトリの知らないバンドが泣きながらMCをしていた。いっぱいになった200人のキャパシティの後ろの方でその嗚咽のような喋りをぼんやりと聞いていた。ボーカルは音楽活動を続けるがその他一切のメンバーはバンドを辞めて就職するらしい。無名のものたちのちいさな活動はこんなふうに人目に触れることなく”解散”という一種のお決まりによってピークを迎える。結成されたバンドの数よりも解散したバンドの数の方が多いんじゃないかという気さえしてくる。

 「知るか、そもそも誰やねんお前ら、うっさいわぼけ」

 私はそう小さく呟きながら涙が止まらなかった。その数日前、同じ経験をしていた。解散ライブはなかった。

 GOZORO’Pは地元京都の中学の同級生で結成された、2017年の6月から2020年の2月頃までの約2年半、関西を中心に活動していた4ピースバンドである。日本語のロックの最前線に立つため、本質的な表現と音楽的なリズムの共存を目指すという崇高なスローガンを胸に日々スタジオで音を鳴らした。気心の知れた仲間と永遠に放課後のような時間が続くと信じきっていた。

 自分が最終的にそのような解散をするとは全く想像していなかった。自分だけは違う、とやはり皆が思うのだろうか。GOZORO’Pの最後の話し合いは小学生の頃から通っていた近所のファーストフード店で行われた。

 「ほんで結局どうしたいん?」

 「○○かな」

 メンバーの一人の返事を聞いて目眩がした、という記憶だけが残っている。どんな言葉だったかは全く覚えていない。その頃の私は何かにつけてメンバーに苛立っており、またそれを隠すこともなかった。一人勝手に色々なことを背負い込み、様々な抽象的な言葉で努力を求めた。今になって考えれば、ただひたすらいい曲を作ってあとは任せてしまうとか、具体的な事務作業を割り振るとかできたのかもしれない。二十代半ばの自分には不満を抱え込むことと自分の理想を押し付けることしかできなかった。

 解散は話し合いのはじめの方に決まり、あとは解散ライブをするか、音源を作るか、四人で買った車をどうするかなど事務的な話が中心であった。

 このファーストフード店での四人の話し合いが行われる数日前、私はベースと地元にある天山の湯という銭湯に行って話した。もともとこのベースと二人で始まったのがGOZORO’Pの原形であったので、バンドを続けるために必要な話し合いとして二人で話したかった。この話し合いが余計に話をややこしくさせてしまったかもしれない。その夜のベースとの話し合いの中で、新たにドラムとギターを探す可能性が出た。しかし家に帰ってひとりになり冷静になった私は、心からそんなことを望んでいるはずもないことに気づいた。そして四人での話し合いの直前になって、やっぱりこの四人でなければバンドをやる意味がないし自分のやりたいことができない、と伝えた。結果的にどっち側にも嘘をついたような形になってしまった。優柔不断な私は、その四人でバンドをやりたいという自分の気持ちにすら気づけていなかった。

 解散ライブの予定はコロナウイルスの流行と共に流れ、ライブの告知をするみたいなお知らせツイートをするだけで、夢を追うはずだったバンドは静かに解散した。

GOZORO’P前夜

 これまで組んだオリジナルバンドは編成のパターンだけで10以上、一人になった状態からメンバーを探したのは5回以上くらいある。音楽というより面白いことがしたいという感覚が先行していた私は、仲の良い地元の友達とは大抵一度はバンドを組んだかもしれない。そしてそのために壊れてしまった関係も少なくない。この10年を振り返った時、活動した時間よりもメンバーを探していた時間の方が長く、バンドを組んでいる時には曲のことよりもメンバーのことを考えている時間の方が長かったかもしれない。
 非情になりきれず、優しくもなれない中途半端な自分は人間関係を複雑に考えすぎて変に絡まってしまい最終的にほどけなくなることが多い。GOZORO’P以外にも何度もバンドを結成したり解散したりしているが、自分の中で音楽を一生懸命やろうと思えたこのバンドのことを結成から振り返ってみたい。
 かっこいい音を出すことのできる人間が集まり、一生懸命に同じ気持ちで演奏するというのは本当に奇跡だと心の底から思う。

メンバーを探す旅、京都編

 夜中に開いている店はコンビニくらいしかない。昼の観光地らしい賑わいは嘘のように、18時以降は山と川に包まれた静かな風景に切り替わる。京都市内の右端、嵐山。私はこの生まれ育った場所をいつも心の拠り所にしていた。様々な考えを頭の中に巡らせ、本当によく歩いた。どんなに恥ずかしい感傷的な気分も静かに馴染んでしまうような隙間のある景色だ。たくさんの種類の緑色が一つの画面に詰め込まれたような渡月橋から見える山々、その傍を歩き近づいて行くと一枚の写真が無限の立体へと連続的に変化していくようである。

 大学を辞めてから半年以上が経っていた。普通の大学生ならば四回生の冬、就職先も決まり最後の学生生活を謳歌している頃だろうか。社会に出て働くということが自分に関係のあることだとは子供の頃から考えられなかった。当たり前のように新しいバンドのことについて考えていた。川の流れる音が背中で小さくなっていくのを感じながら静かにコンビニへと向かった。中学の同級生であるミズモトとなんとなく待ち合わせをしていた。遊びに行くという言葉が飲みに行くという言葉になかなか変わらない私は煙草とカフェオレさえあれば何時間でもコンビニの前で話すことができた。

 「ドラム誰かおるかな」
 「まぁ言うてギターもおらんよな」

 中学校に入る頃にはすでに音楽をやろうと思っていたが、帰宅部がなかったために一番練習が楽そうだと思ったバドミントン部に籍を置いた。そこで出会ったのがミズモトである。中学の頃からよく遊んでいたわけではないが、その後地元から少しだけ離れた高校へ入学した時、一人で軽音楽部の見学に行くのが億劫だった私は楽器経験のない彼を無理に連れて行った。最終的に私は学校のスタジオの割り当てを決めるミーティング以外ほとんど何のイベントにも顔を出さなかったが、ミズモトは部員とも仲良くなり、音楽関係の専門学校に進んだ。私は高校で進路を決める時にはミュージシャンではなく芸人に憧れていて、大阪にあって学生数が多いと言う理由で関西大学を選んだ。高校卒業後は互いに何をしているか知らなかったが、気づけばまたよく会うようになっていた。

 「メンバーってどうやって探すんやろ」
 「まぁとりあえず大阪引っ越してみよかな、人多いし」

 小学校高学年の頃、通学路の工事開始の看板に書かれた数年後の建築完了予定日を見て、それは永遠に完成しないように思われた。いつ完成したかもわからなくなった頃、私は京都から大阪へ出た。

メンバーを探す旅、大阪編

 人生初の一人暮らしは大阪で始まった。メンバーを探すために拠点を大阪へと移すことを決めてから半年間京都のカフェでアルバイトをして資金を貯め、梅田の一つ手前の駅、十三へと引っ越した。家賃相場は5、6万であった。部屋は不動産に一度足を運んだ時に勢いで決めた。三軒目の内見中、この部屋はすぐ埋まってしまうと言われ、それが常套手段であると知らない当時の私はワンルーム4万5000円の物件をその場で契約した。築30年程の日当たりの悪いマンションの1階である。2階には大家が夫婦で暮らしていた。

引っ越した日の夜、両親へ手紙をそれぞれ一通ずつひとり部屋で書いた。恥ずかしいことを伝えるには恥ずかしい形式がよいと思った。窓の外は深夜の府道、運送トラックや救急車がせわしく行き交う。非力な換気扇の下で増えていく吸い殻を見つめながら朝を迎えた。

 メンバーを探すと息巻いてやってきたものの、何からしていいのやらわからず、とりあえず生きていくために働かなければならない。梅田の商業ビルの中にある流行りのカフェの面接を受け、その場で採用された。オーガニック、という言葉の意味も正確にはわからないが、そのような感じの店だ。入って2週間ほどで辞めてしまった。今考えれば大した理由などなく、多くの人が感じる最初の数週間の居心地の悪さに耐えられなかっただけであった。2週間ほど働かずに暗い部屋でじっとしていた。引っ越しの際、人生で初めてクレジットカードを作っていたために現金がなくても誤魔化せることを知ってしまっていたのがよくなかった。以後10年間現在に至るまで悪い癖は治らず、どうせ売れるから関係ないと「自己投資」を名目に本や機材を買ってきた為に消えぬ不安と残高に目を背けたい暮らしとなってしまった。

 なんとか次のバイト先を見つけてしばらくすると、ミズモトも十三へ引っ越してくることになった。本格的にメンバーを探す為である。とりあえずあとドラムがいればバンドとしてライブはできると思っていた矢先、不思議な出会いがあった。ミズモトが部屋を探す為に行った不動産の担当者が同い年で過去にドラムをしていた経験があるという。その場で仲良くなり連絡先を交換したらしい。次の日には三人で一緒に梅田で待ち合わせをしてお好み焼きを食べていた。

 「あのー、俺今日誕生日ねんけど」
 「ほんまに?」
 「いよいよ運命的な出会いやな」

 リュウキは私たちと同い年で、高校卒業後しばらくして今の仕事についたらしく、社会人三年目であった。そんなところに京都からやってきたよくわからない二人組に巻き込まれ、誕生日を迎えてしまったようだ。

 「ほなまぁとりあえず観覧車のっとくか」
 「男三人で?」

 阪急梅田の駅前、HEP FIVEは真っ赤な観覧車がぶっささった商業施設である。ビルの中は若い男女で溢れていた。夜景を見るにはちょうどいい時間であった。私は赤い網にかかった大阪を眺めながら、こんなふうにできる限り無駄なことがしたくて、バンドをする人生を選んだのだと思った。

メンバーを探す旅、くだまき本舗、そしてGOZORO’Pへ

 大阪に引っ越して数ヶ月で私とベース、ドラムの三人が揃い、定期的にスタジオに入ってオリジナルの曲を合わせていた。演奏は拙かった。完成度の高い曲もない。しかしその不完全さがロックバンドへの幻想を加速させていた。多くの人がいずれその夢から覚め、一握りの人間がその夢を多数の聴衆の脳内へと充満させる。それはどこまでいっても実体のない風のような気がする。気がするとしか言えない。

 そんな中、このリュウキとは別に、昔バンドを組んでいた同級生のドラマーから久々にスタジオで音を出して遊ぼう、という連絡があった。アキラは中学一年の時に出会いくだらないケンカをたくさんした後、一番仲良くなった地元の同級生である。高校も大学も違ったが定期的に会って、相変わらずくだらない話をする仲であった。大阪梅田のスタジオでなんとなくのジャムセッションをした。

 「そんな感じのドラムやったっけ?最近ファンクとか聴いてるん?」
 「いや、特にそういうわけでもないけど。ドラムはちょくちょく叩いてるな」

 以前アキラと組んでいた時のイメージと違った。率直にいうと自分の好きな感じであった。技術がすごいと言うより、楽しくなりそうだというイメージが心に湧いた。音楽を表面的に分類することはいくらでもできるが、本質的にはやはり言語化されない言語だと思う。無数の言葉を交わしてきたもの同士だと、音楽理論やセオリーをなぞらなくてもその場で音を合わせることができるのだと思った。リアルタイムで感情を共有し、脈打つように空気に波を起こす。確かなものではないが、小さなロックの芽のようなものをその日見た。

 スタジオのミーティングスペースで近況を話しながら、互いになんとなくそわそわしていた。アキラは大学卒業後就職し、社会人として立派に働いていた。私は相変わらず自分には何かできると思い込んでアルバイトをしながらふわふわとした生活を続けていた。メンバーはひとまず見つかったし、なんとなくながら動き始めようとしていたところであった。この日にどこまで込み入った話をしたか今は覚えていない。適したストーリーを作ってもよかったが、覚えていないと書くことでバンドの始まりは恋愛のように始まりが曖昧なものであると表現できるかもしれないと思った。恋愛という例えでいくならば、浮気である。でもそれは適切ではない。

 理想のバンドを組む為に、時として人情に背く選択をしてしまうことがある。私は自分から巻き込んだリュウキに、新しいドラムと出会ったからもしキーボードをやってくれるならこのまま一緒にバンド活動をしようと伝えた。リュウキは子供の頃ピアノを習っていた。心の優しい彼はそんな訳のわからない提案を一度受け入れてくれた。私とベースのミズモト、キーボードのリュウキ、ドラムのアキラ、そしてギターにアキラの弟のユタカ、この五人で梅田のスタジオで音を合わせることとなった。そのスタジオを最後にリュウキはバンドを抜け、残る四人、全員地元の中学の同級生で『くだまき本舗』、のちの『GOZORO’P』というバンドを結成することとなった。

しょうらいのゆめ

 人生で最初に書いた将来の夢は『かしゅ』であった。小学校に入る前、六歳の頃にこどもちゃれんじの付録の自作本の巻末にイラスト付きで書いた。その後子どもらしく多くのものに憧れ、定期的に小学校で書くことになる将来の夢という作文にはその都度様々な何かを書いた。

 『TVに出る仕事(お笑い芸人)か店を持つ』は小学校低学年の頃に書いた。子供の頃に『ダウンタウンのごっつええ感じ』などのVHSをネタの意味も理解できないままに見ていた。ゴレンジャイが好きだった。店を持つというのは父が美容院をひとりで営業している憧れからきたもので、自分の何かしらの店を持ちたいという思いは未だに少しある。『鳥類学者』は小学校中学年の頃に書いた。ハリーポッターを見てフクロウに夢中になったことが憧れの要因である。お小遣いを4ヶ月貯めて、5羽のフクロウが木に止まっている1800円の置物を買ってそのそれぞれに名前をつけていた。そのほか『作家』や『漫画家』、『落語家』などの『家』の付く仕事にも興味があった。その場その場で夢中になったもののうち、どれが手元に残るかは本当にちょっとした違いなのかもしれない。

 小学校入学前の『かしゅ』という夢は、小学校の卒業文集で『ミュージシャン』という名称に変わってふたたび現れた。その頃には家にあった父のアコースティックギターを触り始めていた。初心者向けの教本を見ながら小さな指でEコードをまず始めに覚えた。始めて弾き語りをしたのはその教本に載っていたスピッツの『空も飛べるはず』だった。今もこの世界のどこかで幼い私がか細い声で歌っているような気がする。

寄り道に世界は続いて

 家から大学までは電車で1時間ほどであった。通っていた高校は自転車で20分もかからなかったので、京都の自宅から大学のある大阪吹田までの満員電車はこたえた。しかし、それと引き換えに手に入れた通学定期券が人生の軌道を少し、或いは大きく変えたような気がする。

 大学生活には思い出がない。友達は一人もできなかった。授業は普通に参加し、サークルにも加入したこともあったが、居場所はなかった。居場所が作るものであるならば、私にはその努力ができなかった。全てを斜めに見て、新たな出会いがもたらす可能性などには見向きもせず日々を過ごしていた。

 誰とも話すこともないまま入学から時間が過ぎ、授業に出るのが億劫になった。しかし、実家暮らしであった私はサボったまま家で過ごすわけにもいかず、時間割通りに家を出た。そして、今日は行こうかどうしようかと阪急電車に揺られながら迷った挙句、ふと途中の駅で降りた。頭の中には子供の頃に見た太陽の塔が空に届きそうなほど大きくなっていた。

 万博公園へは阪急南茨木駅で乗り換えて、そこからモノレールに乗るというのが一般的なアクセス方法だが、私は阪急の駅から歩いて太陽の塔を目指した。人生で初めて定期券というものを手にした自分にとっては広大な範囲を追加料金なく移動できるのが新鮮だった。寄り道の切符であった。

 住宅は少なく、清潔で大きな国道があちこちから伸びて重なっていたが、木も多く視界は緑であった。道は広く、しかし周りは見えないというような風景を汗を流しながら歩いた。すると突如太陽の塔はその頭を空に見せた。おそろしい気持ちとわくわくする気持ちが同時に起こった。

 万博公園は264ヘクタールある。ディズニーランドは50ヘクタール前後らしい。かつてはここにエキスポランドという遊園地があったが、さまざまな事情から2009年に閉園した。その跡地にエキスポシティという商業施設ができたのは2015年である。私が訪れたのは2012年、太陽の塔もまだ未改装で内部公開していない頃で、万博公園には本当に夢のあとのような、廃墟のような空気感が漂っていた。

 古びた券売機で入場券を買い、カリカリと音のする金属のバーを体で押しながらゲートをくぐり抜けた。記憶の中で非現実的な大きさに成長していた太陽の塔をこの目で真っ直ぐと見た。世界の時間の全てがこの場所に圧縮され、身動きがとれなくなるようであった。それはけっして窮屈なものではなく、ゆっくりと漂うように私をとらえて離さなかった。私は大学を中退し、本格的にバンド活動を始めた。


 深い意味などなかったのかもしれない。ただ夢中で、ただ真剣であった。


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